2006年12月23日

東南アジア学会関東部会1月例会のご案内

会員各位

関東部会1月例会のご案内をお送りいたします。

今回は「B・C級戦犯を再検討する − 裁判資料に基づいて」

というテーマで、ミニシンポジウムをおこないます。

皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 1月13日(土)午後1時より

会場: 東京大学

赤門総合研究棟 8階 849号教室

本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。

  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。

総合テーマ

B・C級戦犯を再検討する − 裁判資料に基づいて

報告者

司会  :倉沢愛子 (慶応大学教授)

パネリスト:内海愛子 (恵泉女学園大学教授)

  難波ちずる(学術振興会)

  奈良修一 (東方研究会)

参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区理事 奈良修一

nara-shu@mwe.biglobe.ne.jp

シンポジウム要旨

「B・C級戦犯を再検討する − 裁判資料に基づいて」

 第二次世界大戦が終了して既に、60年が経ったが、この戦争を歴史的にどう評価するかの作業はこれからといえよう。というのも、日本が戦った戦争の名称一つ確定していないのである。「第二次世界大戦」では、世界的すぎるし、「太平洋戦争」では、中国や、東南アジアでの戦いが無視されがちになる。「大東亜戦争」は、時の政府が名付けただけに歴史的には正確かもしれないが、戦後使用が禁止されたこともあり、一つの色がつきまとう。また、同様なことは、最近使われ出した「アジア・太平洋戦争」にも言えよう。また、「十五年戦争」という語は、現在使われなくなっている。さらに読売新聞の提唱した「昭和戦争」は、まだ定着したとは言い難い。

 以上見てきたように、この戦争の歴史的評価はこれから始まるといって良い。今までの研究が必ずしも進展しなかった理由の一つに、歴史資料があまり残されていないか、または、公開されていなかったことが挙げられる。だが、最近、弁護人の方々が著作物を残し、日本の公文書館に保管されているB・C級戦犯裁判資料の存在も知られるようになってきた。

 この資料は、連合国によって裁かれた裁判資料の広範な部分を網羅しており、完全ではないにしろ、日本の占領政策、捕虜の扱いなどを知るには一級の資料と言って良く、広く検討されることが望まれる。

 本シンポジウムでは、これらの資料を実際に扱ってきた人が中心となり、その資料の来歴、性格などを紹介し、今までの研究史に対してどのような点で重要なのかを再考していく予定である。

シンポジウム詳細内容

報告1 日本におけるB・C級戦犯資料について

報告者 奈良修一

 今まで、戦犯についての研究はあまり進んでいないと言って良い。というのも、その基本的な資料が公開されていなかったからである。とくに、8月15日の玉音放送のあと、重要書類を全て焼却してしまったことは、歴史研究においては、取り返しのつかない失策である。そのために、2次的な資料しか使えないという状況が現れているのである。

 日本の戦争におけるさまざまな状況を考察するに当たり、1次資料は不可欠と言って良い。このB・C級戦犯裁判の資料は、貴重な資料である。アメリカ国立公文書館所蔵資料の復社マイクロフィルムが国立図書館で公開され、平成9年には外交資料館での外交記録が公開された。平成14年には国立公文書館が保管する資料の公開を始めている。しかし、このことが研究者の間には必ずしも知られていない嫌いがあるため、これを知らしめることが、本報告の主眼である。

 まず、国立公文書館にこの資料が保管されるにいたる経緯、特に豊田隈雄氏を中心とした職員による尽力に焦点を当てて報告を行う予定である。豊田氏は、海軍軍人としてドイツにおり、終戦後、復員局に勤めた。その活動を通じ、戦争裁判に関わり、そのままでは散逸しそうな資料を精力的に収集し、法務省に保管させたのである。彼のこの業績は、日本の保つB・C級戦犯資料の特徴を知るには、不可欠な要素である。しかし、氏のことは、ほとんど知られていないと言って良い。それ故に、この機会に豊田氏のことを報告することは重要だと考える。

 戦犯資料については、既に茶園義男氏による資料紹介が出版されているが、氏の使用した資料と公文書館のそれとの間には微妙な違いがある。利用上の留意点を指摘する。

 次に、具体的な資料の状況を紹介する。一般的な裁判数や、被告の数、判決の数は公開されているが、具体的な内容は、先述した茶園氏の資料に概観されているほか、横浜弁護士会で取り上げられた典型ケース以外、全くないと言って良い。それ故に、国立公文書館にある資料がどのような資料であり、どの資料が保存され、どの資料がないかを報告することは、今後の研究において是非とも必要な作業と考える。

 さらに、時間があれば、今まで見てきた資料から得た感想を述べ、アメリカ、イギリス、オランダ、中国の裁判の在り方の差を紹介出来ればと考えている。

報告2 サイゴン裁判について

報告者 難波ちずる

 連合国軍によるフランスの解放により、親独政府であったヴィシー政府が崩壊し、フランスはかろうじて戦勝国の地位を獲得し、連合国の一員として枢軸国に対する戦後処理に参加した。その一環として、フランスは、日本の戦犯を裁くA級、そしてB・C級軍事裁判にも加わった。日本軍が駐留していたフランス領インドシナでなされた日本軍の戦争犯罪を裁くサイゴン裁判は、昭和21年9月から25年3月にかけてサイゴンで行われ、裁判件数は計39件、有期判決112名、無期判決31名、死刑判決65名の有罪判決を出した。他のアジアの欧米植民地で行われた裁判に比して件数が少ないのは、1940年9月から1945年3月までのほぼ4年半にわたって、日本は、インドシナにおけるフランス宗主権を温存させる「静謐保持」の政策をとり、基本的にはフランスとの協定に基づいて「平和に」仏印に進駐したためである。日本がこの地を完全占領した時期は45年3月から敗戦の8月までの5ヶ月までと短期間であり、日本とフランスが武力対決したのは、仏印処理の際の短期間の戦いのみであった。

 国立公文書館に保存されているサイゴン裁判関係の資料は、非常に貴重なものである。というのも、フランス側には、所見のかぎり、この裁判をめぐる資料は今の時点で公開されていないからである。裁判資料は、フランスがベトナムから撤退するときにサイゴンに残してきたと、エクサンプロバンスにある海外文書館(Centre des Archives d’outre-mer)のインドシナ専門のアーキビストは述べているが、ホーチミン市の国立第二文書館(Trung Tam Luu Tru Quoc Gia 2)で、これらの資料の所在はまだ確認するにいたってはいない。直接の裁判資料でなくとも、関連する資料がフランスの国防省や外務省にもあるはずではあるが、少なくとも、国防省の目録にはそれらは掲載されてはいない。外務省の資料目録は、それ自体が非常に簡潔なもので、情報に乏しく、インドシナ関連の目録の中に「戦犯」(Criminels de guerre)という項目を確認したが、その史料を閲覧するには特別許可をとらなくてはならず、現在その申請中であり、内容を把握するにはいたっていない。フランスにおけるサイゴン裁判の史料状況は以上のようなものであり、よってフランスにおけるこの裁判に関する認知度は今日においても非常に低いといえる。

以上のように、調査は途中段階であるが、本報告では、このような事実を紹介しつつ、国立公文書館のサイゴン裁判関係資料からみられる本裁判自体の特長、また、インドシナにおいて日本人の何が裁かれたのかを整理し、かつ、本裁判が、戦後、インドシナにフランスが復帰し、支配を再び確立する過程においてどのような意味をもっていたのかに言及するつもりである。

2006年12月21日

東南アジア学会関西地区例会「地域研究への方法論的模索ー韓国を中心に」

東南アジア学会会員の皆様

東南アジア学会関西地区1月例会ならびに京都大学の「東南アジアの社会と文化」研究会との共催によりまして、
以下の研究会のご案内をさせていただきます。

オープンな研究会ですので、ふるってご参集くださるようお願いいたします。

              記
     
日時:2007年1月19日(金)16:00-18:30
会場:京都大学東南アジア研究所 東棟2階会議室(E207) 

  
話者: 木村幹 (神戸大学)
話題: 「地域研究への方法論的模索 − 韓国研究を中心に」」

報告要旨


急速に進行するグローバリゼーション。今日それは、我々の住む世界の有り方を甞てのそれとは全く異なるものへと変えようとしているかのように見える。そのような現象の中心にあるのは、甞ては近代社会において最も高い権威を持ち、また、安全保障の提供やインフラストラクチャーの整備、更には、画一的文化の提供等により、近代社会をその根底から支えてきた国民国家の重要性が、大きく後退するという現象である。今日の国民国家は、甞てのように社会において最も重要で、最も権威を有する組織ではない。

 グローバリゼーションが国民国家の社会における役割を縮小させたことは、結果として個々人が特定の国民国家の「国民」足ることの意味をも縮小させた。今日、国家は人々の運命の全てを左右するような、絶対的な存在ではなくなりつつあるからである。

このような状況は地域研究者にとってもまた、深刻な問題を提示している。多くの場合、従来の国民国家の名前や、或いはそれをつなぎ合わせ拡張した領域の名前を有しているこの学問においては、国民国家の重要性低下は、この学問の有効性に深刻な疑念を抱かせるに至っている。

それでは我々、地域研究者はこのような状況にどのようにして対して行けば良いのであろうか。本報告はこのような今日の地域研究について、報告者が従事している「日本における朝鮮/韓国研究」を例に考察する。九七年末の韓国の通貨危機を挙げるまでもなく、東アジアの狭い領域において向かい合う日韓両国においても、グローバリゼーションは無視することのできない意味を有している。重要なことは、グローバリゼーションが − 時に誤解されているように
−「国境がなくなること」を意味しているのではない、ということである。寧ろ、それが意味するのは各国、各個人の「地理的配置が意味を持たなくなる」ということである。ネットワークを通じて地球の裏側にある取引先との決済が瞬時に可能となった今日において、互いの領域の近さは互いが関心と交流、その結果としての取引関係を有することを保障などしない。それは例えば領域内ネットワークが完備され、ほぼ完成した単一市場を形成しているわが国国内の例を見れば明らかであろう。本報告の目的は参加者の皆さんと共にこの問題について考えることである。


[研究会世話人]
杉島 敬志(京大大学院アジア・アフリカ地域研究研究科) 林 行夫(京大地域研究統合情報センター) 速水 洋子(京大東南アジア研究所)伊藤 正子(京大大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)[東南アジア学会関西例会担当] 玉田芳史(京大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
[研究会事務局・問い合わせ] 王柳蘭(京大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 助手) 河邉孝昭(京大大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 院生) 吉田香世子(京大大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 院生) 吉村千恵(京大大学院アジア・アフリカ地位研究研究科 院生)

2006年11月28日

第201回東南アジア学会中部例会のお知らせ

第201回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしく
お願いいたします。

日時:2006年12月16日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の44番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:スラポン・ダムリクン(チェンマイ大学美術学部教授)
話題:「タイおよび日本における仏教建築とその装飾にあらわれた仏教的世界観」
   

今回は、名古屋大学大学院文学研究科に10月および11月に滞在のチェンマイ大学教授
スラポン・ダムリクン先生にご専門のお話をいただきます。発表はタイ語で行われ日
本語通訳がつきます。皆様多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2006年11月26日

東南アジア学会関東部会12月例会のご案内

会員各位


関東部会12月例会のご案内をお送りいたします。

今回は「文明から見た東南アジア・東南アジアから見た文明」というテーマで、

比較文明学会と合同でおこないます。

皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 12月16日(土)午後1時30分より

会場: 東京大学

赤門総合研究棟 8階 849号教室

本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。

  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。


総合テーマ

文明から見た東南アジア・東南アジアから見た文明

報告者

染谷臣道(国際基督教大学教授、比較文明学会会長)

「諸文明が創出したジャワ心学(Kawruh Jiwa)という叡智」

青山亨(東京外国語大学教授)

「歴史的視点から見た東南アジアと文明世界」

参加費:一般200円、学生100円


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連絡先 関東地区理事 奈良修一

2006年11月13日

2006年9月関東地区例会報告要旨

会員各位

大変遅くなりましたが、2006年9月の関東地区例会の報告要旨をお届けします。

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日時:2006年9月30日(土)14:30-
会場:東京大学赤門総合研究棟849教室
報告者:林英一(慶應義塾大学)
報告題目:「<残留日本兵神話>の起源と終焉—ラフマット・小野のみたインドネシア独立戦争」
コメント:倉沢愛子(慶應義塾大学)
出席者:15名

<報告要旨>
 本報告は、第二次世界大戦後、現地に残留した日本兵を、「祖国日本に捨てられた棄民」や「異国の戦争で活躍した英雄」として描く従来の言説を、実像から乖離した「残留日本兵神話」であると断じ、新史料の発掘・読解を通じて、その実像に迫ろうとするものである。事例として、インドネシアの元日本兵・小野盛(さかり)(ラフマット・小野)を取り上げ、報告者独自の調査によって入手した、小野の「陣中日誌(1945〜1948年)」や「自伝」、インタビュー記録などをもとに、彼の個人史の一環として、日本の敗戦後、インドネシア独立戦争へ参加していく経緯を再構成し、歴史的背景の中へ位置づける作業を行った。なお、敗戦後にインドネシアに残留した日本兵の数は約1000人であり、そのうち約500人が独立戦争下で戦病死または行方不明となり、独立戦争後に日本へ帰国したものが100〜200人であるので、その後も残留し日系インドネシア人となった人は約300人いる。2006年10月現在、健在の元残留日本兵の数は7人である。
 まず、小野の略歴が紹介された。小野盛は1919年に北海道に生まれ、青年学校研究科卒業後、1939年に旭川第七師団第二十八連隊中隊へ入隊、陸軍教導学校を経て、1942年に南方総軍補充要員として出征、サイゴン、シンガポールを経由してジャワへ上陸した。当地では、1944年1月以降、独立混成第二十七旅団司令部において、機密書類の取り扱い、経理、人事功績などの任務にあたった。敗戦後は、「インドネシア独立の約束を反故にした日本への義憤」を感じて、日本軍を離脱し、インドネシア名「ラフマット」を名乗って、独立戦争へ身を投じた。その後、インドネシア正規軍に入り、ゲリラ戦の参考書づくりや新兵教育、実線参加などで貢献した。独立戦争後、日本帰国を拒み、「日系インドネシア人」として第二の人生を歩み始める。1950年に結婚し、 1953年に国籍編入手続きと「独立戦争参加章」の上申を行った。生業は当初、農業に従事していたが、生活苦のため1965年からジャカルタで就業し、職を転々とする。1982年に退職し、恩給生活に入る。
 次に、1946年ごろの情勢について、「陣中日誌」にみられるラフマット・小野の動向を中心に詳しく述べられた。日本軍離脱後の1946年1 月、インドネシア独立軍の総軍司令部教育部長の要請で遊撃戦参考書作成の任にあたっていたラフマット・小野は、そのための軍書を日本軍部隊より入手し、それらを参考にしつつ、およそ2ヶ月かけて自ら遊撃戦参考書を執筆した。その遊撃戦参考書は、同じく残留した日本兵でラフマット・小野への影響の大きかったアブドゥル・ラフマンこと市来龍夫がインドネシア語に翻訳したというが、現存が確認できていない。同年3月より、ラフマット・小野らはスパイ養成のために開校された情報学校で教官を務めた。しかし、同年4月から9月までは、「陣中日誌」に記述がない。
 ここで、ラフマット・小野ら残留日本人に対する当時の諸勢力の認識について、報告者による検討がなされる。すなわち、この時期、ジャワを代理占領していた英印軍は、独立軍の訓練や武器供与に関わる残留日本兵に対する警戒を強めており、また、日本軍の西部地区隊は、彼らを「雑兵に過ぎず」と報告してイギリスを刺激しないように務めるとともに、離隊逃亡者への勧告により帰国を促そうとしていた。また、インドネシア側も、日本人がイギリス・オランダ軍による再植民地化に利用される可能性に脅威を抱いていた。残留日本兵をとりまくこうした状況のなかで、ラフマット・小野はアブドゥル・ラフマン・市来を中心に再編された日本人部隊に幹部として参加したが、1946年11月、オランダとインドネシアの停戦交渉からリンガルジャティ協定成立にいたる過程で、日本人部隊は解散を余儀なくされた。
 最後に、ラフマット・小野の「陣中日誌」から明らかとなる残留日本兵の役割は、「翻訳者」、「教育者」、「実践者」としてのそれであったことが主張された。

<コメント:倉沢愛子>
 まず、卒業論文段階の研究としては、独自の史料を発掘したという点で高く評価できる。しかし、今後、研究としてどのように展開していくかが課題になるだろう。(以下、コメント箇条書き。)1)これまでの著作と自分の研究の相違点を強調する必要がある(特に方法論に関して)。2)インドネシア革命史にはすでに厖大な研究蓄積が存在するので、事実の確認として新しい発見がなされる期待は薄い。3)個人のライフヒストリーから全体の歴史を見通すことはできないか。例えば、小野氏の気持ちの振幅や、思想的変遷は興味深い。コメンテーターの印象では、日本兵が軍を離脱する際の動機としては、戦犯になることを恐れたとか、現地の女性と別れがたかったとか、日本に帰国してもどうすればよいかわからなかったとか、インドネシア革命軍に拉致されたとかさまざまであるようだ。そのように動機はさまざまであれ、生きていくためには革命軍に身を寄せるほかなかった人々が、段々とインドネシア革命に情熱を燃やすようになったのであれば、その転機が何であるのか考察する価値がある。もっとも、小野氏は日本軍離脱当初から燃えていたようなので、例外的な存在なの�
→1)過去の著作では、残留日本兵が「棄民」か「英雄」と捉えられることが多かったが、残留日本人たち自身は自らをそのように位置づけはしない。自分の研究では、彼らが実際に送っていた生活を、彼らの認識に即して明らかにしていきたい。(報告者)

<質疑応答>
 これまでの著作は全て、「棄民」か「英雄」のいずれかに神話に属するのか?(倉沢)→そうではない。第三の部類としては、旅行記の類がある。(報告者)→残留した当人が書き残したものもあるのでは?(倉沢)→ノンフィクション・ライターの著作に加えて、自伝も存在するが、それらは戦争の記憶に後付けの説明をしたものであるから、戦争体験そのものではない。戦争体験そのものに光を当てて、既存の像とは別の像を描きたい。(報告者)→史実をもって言説の神話性を崩すのは困難だろう。言説そのものを扱っていく方が生産的ではないか?(内藤)→「棄民」、「英雄」とは違う、報告者独自のモデルを提示できないか?(木村)→「英雄」や「棄民」といった言説は、現状としては渾然一体となっているので、類型化するのであればより緻密な類型化をする必要がある。(小林)
 本報告で用いている「陣中日誌」などは貴重な史料である。まず、これを全て活字化し、それに註を振って公表するべき。(奈良)
 聞き取りの道具は何を用いたか?(小林)→基本的にテープ・レコーダーで、試験的にビデオも利用した。(報告者)→テープおこしは全てすべき。そうすることで、行間に重要な事実が見えてくることもある。(小林) 脱走兵が部隊へ戻って資料をとってくることは可能だったのか?(倉沢)→可能だった。上官次第である。(報告者)→脱走兵は通常、厳罰に処されるものであるから、このような事例は極めて興味深い。(奈良) 小野氏のライフヒストリーを叙述するのであれば、その背景、例えば彼の両親のことや、受けた教育、読書歴などについての説明が必要ではないか。(國谷) 戦犯の恐怖や女性関係のために独立戦争に参加したのではない日本人には、インドネシア社会との関係が密な人々が多いように思われる。しかし、小野氏はインドネシア語も話せなかったようなので、この点でも例外的である。(倉沢)ここにあげた以外の点についても参加者の間で活発な議論がなされた。<文責・長田紀之(東大院博士)>
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連絡先:関東地区例会委員  國谷徹

2006年11月07日

第200回東南アジア学会中部例会のお知らせ

第200回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしくお願いいたします。

日時:2006年11月18日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の44番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:木村健二氏(中部大学・人間安全保障研究センター研究員)
話題:1「インドネシアの人身売買:インドネシア人女性の搾取的移住における
ニューオーダーのインパクト再検討」
   2「グローバル都市ネットワークにおける人間の安全保障:中部大学ORCの取
り組み」

今回は、中部大学の木村健二氏にお話をいただきます。木村氏は7月から中部大学・
人間安全保障研究センターで研究員をしていらっしゃいますが、オハイオ大学で、イ
ンドネシアの人身売買(搾取的移住)について修士論文を書かれ、中部大学では、名
古屋都市圏の外国人(特に東南アジア人)問題(移住、労働、教育など)を研究して
おられます。今回はこの両方についてお話しをいただこうという欲張った企画です。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2006年11月01日

東南アジア学会関東部会11月例会のご案内

会員各位

関東部会11月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 11月25日(土)午後2時30分より

会場: 東京大学

赤門総合研究棟 8階 849号教室

本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。

  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。

報告:長田紀之(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)

題名:「英領期ビルマの種痘政策とインド人移民労働者差別言説—海港における種痘強制問題をめぐって」

参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区理事 奈良修一


報告要旨

「英領期ビルマの種痘政策とインド人移民労働者差別言説—海港における種痘強制問題をめぐって」

長田紀之(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)

 本報告では、英領期ビルマの種痘政策の変遷のなかで、特に20世紀初頭、一般的な種痘の普及に加えて、来航者に対する港湾での種痘強制を法制化しようとする動きが生じてくることに着目する。こうした動きは、大量のインド人出稼ぎ労働者が、ほぼラングーン一港を経由して無制限に流入する英領期ビルマの特殊な状況に由来した。インド人移民労働者は生活環境の劣悪さと流動性の大きさのため、植民地当局からビルマにおける疫病流行の元凶とみなされたが、その背後には不衛生な生活環境をインド人の習慣や文化と結びつけようとする植民地官吏たちの認識が存在していた。こうした中、港湾での種痘強制法制化の動きは、19 世紀末のペスト大流行を契機として生じた。この政策は、当初、労働力流入を妨げる恐れがあるとして抵抗を受けたものの、1910年代中頃から次第に実効力を有し始める。この過程で、植民地官吏たちの「不衛生なインド人移民」言説は法的な裏づけをえていき、また、都市部のビルマ人にも受容されて、ナショナリスト系の新聞などでインド人労働者非難に利用されてゆくことになった。

第334回関西例会のお知らせ

2006年11月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2006年11月11日(土)13:30−16:30
   ※会場予約の都合上、今月も通例とは異なり、第2土曜日の開催となります。

場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:蓮田隆志(大阪大学COE特任研究員)「良舎トウ氏考 ——近世ベトナムにおける階層移動と族結合の出現とをめぐる一考察——」
 ※トウは登におおざと(トウ小平のトウ)

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1−5
    大阪大学大学院文学研究科 桃木至朗研究室

※非会員の参加も自由です。

2006年10月30日

研究会「「比較の中の東南アジア研究」」のご案内

東南アジア学会のみなさま


 下記の通り研究会「比較の中の東南アジア研究」2006年度第3回を開催いたし
ます。オープンな研究会です。今回はベトナム研究者とフィリピン研究者をお招
きしました。多くの方々のご来場をお待ちしております。
 なお、この研究会は東南アジア学会関西地区の活動の一環として行われるもの
です。

          記

日時 2006(平成18)年11月18日(土)14:30〜18:00

場所 京都大学工学部4号館4階
   大学院アジア・アフリカ地域研究研究科第1講義室
   *百万遍交差点近く、ロースクール(B1〜3F)の上です。
    最寄りバス停「百万遍」、最寄り駅「京阪出町柳」

報告(順不同)

古屋博子(神田外国語大学非常勤講師)
「在米ベトナム人とベトナム共産党の政策転換」

西村謙一(大阪大学助教授)
「地方自治への市民参加の制度化は可能か?:
 ケソン市開発評議会の事例を中心に」

問い合わせ先
 玉田芳史
 岡本正明

2006年10月09日

第333回関西例会のお知らせ

ご案内を差し上げるのが遅くなりましたが、2006年10月例会を下記の通り
開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2006年10月14日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:岡本弘道(大阪大学・大阪樟蔭女子大学等非常勤講師)
   「明朝の国際システムと海域世界」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1−5
    大阪大学大学院文学研究科 桃木至朗研究室
    電話06-6850-5674
    ファックス06-6850-5674

※非会員の参加も自由です。

2006年10月08日

第199回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第199回例会を以下のように開催し
ますので、どうかよろしくお願いいたします。

日時:2006年10月21日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:櫻井雅俊氏(名古屋大学大学院国際開発研究科)
話題:「インドネシア闘争民主党組織の性格
 −スマラン市長候補者選出過程における党内政治に焦点をあてて−」

櫻井氏は、現在名古屋大学大学院国際開発研究科博士課程後期の院生です。以下の主
旨説明文をいただきました。
 本報告では、スハルト権威主義体制崩壊前・後の政治環境の変化の中で、闘争民主
党の組織的性格がどのように変化してきたのか、またその原因は何なのか、地方レベ
ルでの具体的事例を通じて明らかにすることを目的としている。事例としては、報告
者がフィールド調査(2003年12月〜2005年9月)を行った中ジャワ州スマラン市支部
組織を選び、主に2000年と2005年の党内市長候補選出過程における組織内政治を中心
に分析する。

皆様の多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

東南アジア学会関東部会10月例会のご案内

会員各位


関東部会10月例会のご案内をお送りいたします。

皆様のご参加をお待ちしています。


日時: 10月21日(土)午後2時30分より

(今月のみ第3土曜日になります)

会場: 東京大学

赤門総合研究棟 8階 849号教室

本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。

  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。

報告:難波ちづる(学術振興会)

題名:「第二次大戦下のベトナムにおける日仏の文化的攻防」


参加費:一般200円、学生100円


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連絡先 関東地区理事 奈良修一


報告要旨

「第二次大戦下のベトナムにおける日仏の文化的攻防」

難波ちづる(学術振興会)
 

 本報告は、第二次大戦下の仏領インドシナ、とりわけベトナムにおいて、宗主国であるフランスと、フランスのドイツに対する敗北に乗じてインドシナに駐留した日本が、現地住民の支持を獲得するためにどのような攻防を繰り広げたのかを、三者の関係性に注目しながら、文化的側面に焦点をあて、論ずるものである。

 ここでは、「文化」を広い意味においてとらえ、具体的には、日常生活、プロパガンダ、文化政策の三点を軸に論を展開する。日常レベルのミクロポリティクス、国家の政策やイデオロギーを広く民衆に伝える手段であるプロパガンダ、そして文化政策という三つの異なるレベルにおける日仏の競合や協力、妥協を双方の「対話的関係」に注目しながら明らかにし、それが現地住民に与えた影響を分析することによって、ベトナム独立前夜の「日仏二重支配期」の重要性を考察することを目的とする。

2006年09月19日

研究会のご案内「比較の中の東南アジア研究」

東南アジア学会のみなさま

下記の通り、研究会「比較の中の東南アジア研究」の今年度2回目の会合を開催
いたします。今回はマレーシアと韓国を取り上げます。
他地域・学会外からお招きする報告者の大西氏は地域研究と政治学の架橋に努め、
『韓国経済の政治分析』(有斐閣、2005年)で大平賞を受賞されました。
この研究会は東南アジア学会関西地区の活動の一環として開催するものです。オ
ープンな研究会です。みなさまのご来場をお待ちしております。

         記
         
日 時 2006年10月14日(土)14:00〜17:30

場 所 京都大学工学部4号館4階
   大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・第1講義室
   *百万遍交差点付近、ロースクールの建物の4階です
    京都市左京区吉田本町
    最寄りのバス停「百万遍」、最寄りの駅「出町柳」

報告1 河野元子(京都大学ASAFAS)
    「政府党UMNOは、いかに野党PASトレンガヌを奪回したのか?
     2004年総選挙・UMNO・マレーシア「国民戦線」」

報告2 大西 裕(神戸大学大学院国際協力研究科・教授)
   「韓国研究の常識と政治学の常識の間:『韓国経済の政治分析』より」


問い合わせ先
玉田芳史(たまだよしふみ)         
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
東南アジア地域研究専攻 地域進化論講座

2006年09月07日

第332回関西例会のお知らせ

2006年9月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2006年9月16日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:河野佳春(弓削商船高等専門学校)「民族運動期のアンボン村落について」


参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1−5
    大阪大学大学院文学研究科 桃木至朗研究室
    電話06-6850-5674
    ファックス06-6850-5674

2006年09月02日

東南アジア学会関東部会9月例会のご案内

会員各位


関東部会9月例会のご案内をお送りいたします。

皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 9月30日(土)午後2時30分より

会場: 東京大学

赤門総合研究棟 8階 849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。

報告:林英一(慶應義塾大学総合政策学部4年)

題名:「<残留日本兵神話>の起源と終焉——ラフマット・小野のみたインドネシア独立戦争」

参加費:一般200円、学生100円


連絡先 関東地区理事 奈良修一

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報告要旨

林英一

「<残留日本兵神話>の起源と終焉——ラフマット・小野のみたインドネシア独立戦争」

本報告は、近代日本の南方への大移動の遺産として現地に残った一人の日本兵・小野盛(しげる)が、四年半にわたるインドネシアとオランダの戦争を、インドネシア独立軍の一兵卒として戦ったのち、ラフマットとして再生し、数奇な運命を自らの信念で力強く生き抜く様を、新たに発掘された史料を駆使しつつ論じることで、「残留日本兵神話」を終焉させ、彼らの実像を現代的な視点から捉えるものである。

それは、その時々の日本人の戦争観によって、「南進」という国策の「犠牲者」とされたり、あるいは国家の大義のために異国で戦った「英雄」として神話化されたりしてきた残留元日本兵の実像に迫ることである。そのことには、太平洋戦争で運命が大きく変わった残留日本兵の子孫にあたる残留日本人と、私たちがこれからどのように向き合っていくべきなのか、そしてさらに、同じく太平洋戦争の影響を大きく受けたアジアの人々とどのように「新たな関係」を築いていくのかという問題を、その原点に回帰して見つめ直すという意義があるだろう。

2006年08月07日

2006年6月関東地区例会報告要旨2

会員各位

2006年6月の関東例会の報告要旨(その2)をお届けします。

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日時:2006年6月24日(土)14:30-
会場:東京大学赤門総合研究棟849教室
報告者:西廣直子(京都大学大学院)
報告題目:「インドネシアにおける高齢化と高齢者の現状:ミナンカバウの事例」
出席者:13名

[報告要旨]
 本報告の目的は、まずインドネシアの高齢化について統計を用いた現状把握を行
い、次いで、フィールドワークの成果をもとに、ミナンカバウにおける高齢者の生活
形態を概観し、ミナンカバウ村落社会の高齢者と家族および地域社会のあり方を検討
することである。
 本報告では高齢者の定義として、インドネシア共和国の「老人福祉法」が定める60
歳以上という基準を用いる。ただし国連などでは一般に65歳以上が基準として使用さ
れる。国連の定義では、65歳以上の人口が7%以上に達すると「高齢化社会」、14%
以上に達すると「高齢社会」と呼ばれる。
 高齢化の主要因として一般に挙げられるのは、出生率の低下と死亡率の低下であ
り、一般に、高出生率・高死亡率の段階から、まず死亡率の低下、さらに出生率の低
下を経て、最終的に低出生率・低死亡率の状態に移行する、「人口転換」と呼ばれる
現象が見られる。
 インドネシアの場合を見ると、まず出生率は徐々に低下し、1990年代には3%以下
になっている。一方、乳児死亡率は1970年代から90年代にかけて急速に低下、平均寿
命も90年代末には70歳近くまで延びている。その結果、65歳以上人口の比率は既に5
%近くに達しており、2030年ごろには7%、2050年ごろには15%近くに達すると予測
されている。他の先進国と比較しても、高齢化社会から高齢社会への進展が急速に進
むといわれる。
 高齢化に伴う問題としては、経済成長率の低下、社会保障、高齢者医療・介護など
が挙げられるが、インドネシアでは、近い将来に高齢化社会が到来するにもかかわら
ず、これらについての研究は緒についたばかりである。1990年代半ばには社会問題調
査局によって、高齢化先進地域であるジョグジャカルタなどを対象とした人口学的研
究が行われ、他に、高齢者概念の地域による差異を取り上げた研究などもある。一方
ミナンカバウについては、母系制社会における親族集団やジェンダー研究などの蓄積
があるが、高齢者問題についての研究はほとんど見られない。
 次にミナンカバウの高齢者の生活実態を見ていく。報告者の調査地は西スマトラ州
アガム県のシダン・インドリン村と、その近郊に所在するある老人ホームである。調
査期間は2000年夏および2001年冬から2002年冬にかけてで、総計165世帯の聞き取り
調査を行った。調査村の人口は1,114人、すべてミナンカバウ人のムスリムで、職業
構成は農業42%、小売商27%、公務員13%などである。経済的には、約5km離れたブ
キティンギへの依存度が高い。
 調査地では、2000年時点で60歳以上の人口は14.7%、65歳以上では10.3%に達して
おり、既に高齢化社会に到達している。高齢者を指す呼称としては、ウラン・ガエッ
という一般的な呼び名の他に、ネネッやガエッなどの親族に対する呼称が親族以外に
も広く用いられることがある。
 高齢者の家族構成を見ると、一人暮らしと老夫婦二人のみの世帯を合わせると約3
割にも達している。一方家族との同居を見ると、主な同居者(扶養者)は娘とその家族
である場合が75.8%と圧倒的に多い。これは母方居住の影響によると思われる。
 高齢者の経済状況については、同居の場合は原則として扶養家族が生活を保障する
ほか、インフォーマントの32%が水田耕作や小売業など何らかの仕事を続けており、
比較的豊かであるといえる。また非同居の子供の場合も、ムランタウ先から金銭的支
援を行う事例が多く、総じて、高齢者の扶養は当然の義務という認識が見られる。
 いくつか具体的な事例を紹介すると、例えば72歳の女性Tは一人暮らしだが、ブキ
ティンギに住む娘の家の毎日「出勤」している。また42歳の女性Yは現在家族とブキ
ティンギに居住しているが、近い親族内に女性が自分だけなので、今後の親族の扶養
が気がかりであると述べ、また、親族を老人ホームへ入れるのは「恥ずかしい」こと
だという認識を持っていた。さらに、やや特殊な事例として、男性の一人暮らしや、
高齢者同士の再婚なども見られた。
 総じて、調査村ではこれらの事例が表立って「問題」としてとらえられることはな
く、また、村内では老人ホームに預けられている高齢者は一人もおらず、近隣に老人
ホームがあることを知らない人も多かった。
 次に老人ホームについて簡単に触れる。老人ホーム「カシ・サヤン・イブ」は隣の
タナ・ダタール県にある県立の老人ホームである。入居条件は、60歳以上で身寄りが
なく、経済的に困窮していること、心身健全であること、である。入居費用は一切無
料で、州政府や外部の社会福祉団体、宗教団体からの支援を受けている。入居者は男
性38名、女性12名で、男性が多い。入居者の平均年齢は71歳である。
 入居者へのインタビューからは、おおむね生活に満足しているものの、一方で、
「もし身寄りがあればここには入らなかった」、「まるで牢獄のようだ」などの意見
も聞かれた。
 まとめると、インドネシアでは明らかに高齢化が進行中であり、既に高齢化社会に
進展した地域も存在する。ミナンカバウの場合は、高齢者の約70%が家族と同居して
おり、困窮者は比較的少ない。母方居住の慣行により、女性には財産相続の代償とし
て高齢者の扶養が求められるほか、恥(マル)の概念やイスラームの教えなどの影響も
あって、老親の面倒を見るのは当然とする風潮が強い。このため、高齢化の進展の割
には、高齢化問題は現在のところさほど表面化していないといえる。
 今後の課題としては、インドネシアでの高齢化の今後について継続調査が必要であ
るほか、ミナンカバウの歴史的・文化的文脈の中で高齢化問題を捉える視点が必要で
ある。

[質疑応答]
Q. 例えばマレーなどと比較して、母系社会の影響はどの程度見られるのか。(鈴
木) −A. 一般に大家族である点は同じだが、介護者=財産相続者である点が大きな
特徴。
Q. ①老人ホームには提携している病院などがあるか、あるとすれば無料か。②亡く
なった人のための共同墓地などの施設はあるか。③企業からの寄付は受けているか。
(中山) −A. ①提携している病院は無料ではないが、緊急の際には立替などの措置を
とる。また、週一回、無料で健康診断と投薬を行う。②敷地内に共同墓地があるが既
に一杯で、少し離れた共同墓地も利用している。③寄付は社会福祉団体や宗教団体か
らで、企業からの寄付はないと思う。
Q. ①インドネシアの他地域での高齢化の進展状況は。②高齢化問題に対する政府の
見解は。(弘末) −A. ①西スマトラのほか、ジョグジャカルタ、東部ジャワ、バリな
どで進んでいる。②老人福祉問題にまではまだ手が回らず、有効な対策は取れていな
い。
Q. 老人ホームではイスラームの宗教色はどの程度前面に出ているか。また、イス
ラーム団体の関与はどの程度か。(國谷) −A. 入居者は一般に敬虔なムスリムが多
い。宗教団体は、寄付というかたちで寄与している。また、男性の高齢者の場合、モ
スクやスラウで寝泊りする人もある。
Q. ①従来のミナンカバウ研究において提示されてきた、アダットとイスラームとい
う社会概念の関係という視点から問題を考えたほうが良いのではないか。②高齢化の
最大の問題は人口転換による扶養負担の増大にある。特に発展途上国では、生産性の
向上が進まないままに人口転換が進むという状況があると思うが、にもかかわらず、
現時点では高齢者人口を扶養しえているのはなぜか。(桜井)−A. ②農業や家事労働
など、何らかの社会的分業を行っている高齢者が多い。また、土地財産を所有する高
齢者も多い。−この事例の場合、ブキティンギという都市への近接が高齢者人口の扶
養を可能にしている。(桜井)
Q. 介護をするのは女性であるという認識が強いようだが、男性の関与はどの程度
か。(北川)−A. 離婚した息子が親の面倒を見る例などもある。一方、男性の高齢
者は誰からも世話を受けられないケースが多い。
Q. 政府による年金制度や高齢者医療・福祉はどの程度進んでいるか。(桾沢) −A.
年金制度は現在はきわめて限られたものだが、2000年以降見直しが進められている。
政府の診療所(puskesmas)は村内に一つ、隣村にはより大規模なものが一つ存在す
る。ただし調査村はブキティンギに近く、比較的裕福なので、ブキティンギの病院を
利用する人のほうが多い。
(文責:國谷徹(東京大学大学院))

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

2006年6月関東地区例会報告要旨

会員各位

2006年6月の関東例会の報告要旨をお届けします。
今回は2つの報告があったので、2回に分けてお送りします。

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日時:2006年6月24日(土)14:30-
会場:東京大学赤門総合研究棟849教室
報告者:中山三照 (大阪観光大学観光学研究所)
報告題目:「タイにおける潮州系華人経営者の倫理功徳と高齢慈善活動」
出席者:13名

[報告要旨]
 本研究題目は、華人系企業グループ及びローカル華人系企業の寄付金による慈善活
動が、華人のビジネス環境と社会的生活環境のバランスサイクル (安定化) を図る上
で、長期的に大きな役割を果たしたことに対する調査研究である。従来の華僑あるい
は華人研究では経営的側面が扱われることが多いことに対比すると、本研究題目は、
居住国であるタイ社会に完全に定着した華人の社会的側面に焦点を絞った研究内容で
ある。更に、タイにおける華人系慈善団体を、「非営利セクター」の視点からノンプ
ロフィット・マネジメントを考察し、日本社会における現状との比較を視野に入れた
調査研究である。
 タイにおける華人の慈善活動には長い歴史がある。古くは1903年、タイ国初の慈善
団体として天華協会 (現天華財団病院) がバンコク・チャイナタウンで設立されてい
る。更に、1910年には、華僑の鄭知勇をはじめとする12名の華僑有志により社会慈善
福利事業の全面的な開拓を目的に報徳慈善協会 (現華僑報徳善堂) が同地で設立され
た。現在、この華僑報徳善堂は、タイにおける最大の華人系慈善団体として多数のボ
ランティアスタッフを抱え、緊急医療・支援活動をはじめとする幅広い慈善活動を
行っている。これら純粋な華人系慈善団体の大きな特徴は、中央政府からの補助金に
一切依存しておらず (華僑報徳善堂グループの華僑病院については、30バーツ政策に
より中央政府から医療費に対する資金援助を受けている)、華人系企業と在地民 (タ
イ人や華人を問わず) からの寄付金のみで長期間運営されていることは大変注目する
べき事柄である。
 バンコク近隣のサムートプラカーン県の北欖養老院は、約50年前、潮州系華人経営
者の陳近寿氏の主導により設立された華人系高齢慈善機構 (養老院) である。北欖養
老院への入居条件については、第一に、65歳以上であること、第二に、家族や兄弟な
ど身寄りが一切存在しないこと、以上2つの条件が揃えば無料で入居可能である。
元々、身寄りのない華僑移民第一世代のために設立された養老院であるため、現在68
名の入居者の多くが老華僑であり、その他タイ人10名、インド系1名が入居している。
 北欖養老院の職員は6名であり、マネージャー等の役職は設置されていない (職員
は対等な関係である)。職員の年齢的構成は20代から60代までバランスが良く、一人
に過度な負担がかかることがない。また、夜間は老人入居者のリーダー的存在が夜勤
を行うなど、職員と入居者の関係は「介護する側とされる側」というような一方的関
係ではなく、相互扶助的関係が多く見受けられる。
 こうしたタイにおける潮州系華人の慈善活動の根底にあるのは、中国宋朝時代に実
在した高僧である宋大峰祖師の善行精神にある。大峰法師は、政和6年 (西暦1116年)
に福建から修行に出た後、広東の潮陽県和平里に向かって長く修行を行った。練江と
いう川を横切った際に、水の流れが急激なために、往来していた船舶は常に転覆の恐
れがあるように見えた。それゆえ、大峰法師は、「阿弥陀の精神と慈悲・救済の精
神」を持つことにより、民衆の厄を解くことを目的に、練江川で大橋を建造する決意
をしたのである。その後、民衆からお金や物を寄付することを勧誘し、自ら土地を観
測し精密に大橋を設計した。更には、原材料を調達し、建造に必要な技術師も招いた
のである。建炎元年 (西暦1127年) に工事が着工し、大橋の建造が始まったことによ
り、民衆は大きな利益を得ることができた。大峰法師の没後、当地官民は、大峰法師
の徳と恩に感銘し、大峰法師を祈念するために「報徳堂」が建立された。その後、大
峰法師は宋大峰祖師と呼ばれるようになった。  
 1896年、華僑の馬潤が、故郷の潮陽県から南渡タイのバンコク・チャイナタウンへ
宋大峰祖師金身塑像を持ち運び同地で供奉したことが、潮州系華人による慈善活動の
歴史的由来の始まりである。その後、1910年、華僑有志により「報徳堂 (現華僑報徳
善堂) 」が設立された。これを起源とする善堂はタイ各地に現在も存在し、華人のみ
ならずタイ人も積極的に寄付を行っている。今日、タイ経済の中心的な役割を担って
いる潮州系華人経営者の倫理功徳 (経営倫理) は、宋大峰祖師の「八つの倫理功徳
(忠、孝、仁、愛、禮、義、廉、耻)」に基づいたものである。
 北欖養老院は地域社会との幅広いネットワークを築いている。国立パクナム病院と
提携して無料で医療を提供しているほか、養老院施設の一部を博物館にすることを計
画するなど、地方自治体とも協力・連携して在地社会に貢献しようとしている。この
ような積極的姿勢は、日本の老人ホームが地域社会との関係構築を持つことに対する
消極的姿勢とは、極めて対照的である。
 北欖養老院は、①職員と老人入居者の間に相互扶助的関係が多く見受けられる、②
職員の年齢的バランスがとれている、③地域社会に貢献しようとする積極的姿勢が見
られる、といった特徴を持つ。これは、職員配置を極力抑えて薬の投与や検査を大量
に行う「収益重視型」の日本や欧米先進国における医療・福祉経営を再考する上で
も、大いに学ぶべき点があるのではないだろうか。

[質疑応答]
Q.華人系慈善団体の理念はタイ語でどのように表され、タイ人にどのように理解され
ているのか (弘末)?−A.華人系慈善団体の多くは、基本的にタイ語が使用されてお
り、仏教的理念 (儒教的理念) として理解されている。彼ら在地民の多くは、華人系
慈善団体の設立者が華人経営者有志であることを知っている。しかしながら、華人系
慈善団体は、在地社会に必要不可欠な存在であることを強く認識している。
Q.①養老院の入居費用及びその活動内容は?②建物を利用して博物館を開くとのこと
だが、入居希望者が多くないのか?③タイ人が寄付を行う理由は何か?④養老院での
言語は何か? (西廣) —A.①入居費用は全て無料である。老人介護以外の慈善活動は
あまりない (ただし、旧正月には老人入居者が外出し、地域住民と一緒に旧正月を祝
うことにより、地域社会との交流も深めている)。②タイではまだ老人は家族が自宅
で介護するという意識が強く、老人ホーム等における高齢化問題はそこまで深刻では
ない。③華人系慈善団体等を問わず、富めるものが貧しいものへ寄付を行うのは当然
の行為とタイではみなされている。タイ系の団体 (特に、欧米型マネジメントに基づ
く近年のNGOやNPO等) でも、中央政府や地方自治体、更には、海外助成団体等の補助
金や援助金へ完全に依存している団体は必ずしも人びとの信頼を得られていない。④
基本的にはタイ語であり、中国語しか使えない華人系慈善団体は稀である。
Q.①タイにおける老人介護の制度的な枠組みとその中での華人系慈善団体による介護
の位置づけは?②養老院経営はどのようなものか?③夜勤をしている、というだけで
は相互扶助とまではいえないのでは?④入居者の大多数が老華僑とするならば、地域
社会に貢献しているといえるのか?⑤職員はどのような人たちか? (桾沢) —A.①タ
イにおける老人介護等の法律について詳細は分からないが、現在制度改革の途上にあ
る。②養老院経営の詳細は不明だが、サムートプラカーン県における、ローカル華人
系企業北欖養老院執行委員10名を基幹とした、大口の寄付金提供による安定した資金
源を持っている。③介護者と被介護者という明確な区別が存在しないという意味で相
互扶助という言葉を使用した。④比率は小さいがタイ人入居者もおり、今後増える可
能性がある。⑤全職員が、在地の潮州系華人である。
Q.職員の給与水準はどの程度か、どのようにして人材養成されているのか (國谷) ?
−A.給与水準は公務員と同程度で、恵まれているわけではない。人材養成は必要に応
じて、病院、看護学校などすべて潮州系の慈善組織で賄うことが可能である。
Q.福建や広東系の団体はあるのか。宋大峰祖師を祀るというのは、潮州系華人のシン
ボルとしてなのか (奈良) ?—A.潮州系以外は慈善団体の数自体が少ないので、団体
数も多くはない。宋大峰祖師は、多様な守護神が存在する中でも、潮州系華人にとっ
てシンボル的な存在であり、タイにおける潮州系華人のアイデンティティ (精神的支
柱) の中心でもある。
(文責:坪井祐司(東京大学大学院))

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

2006年07月26日

2006年5月関東地区例会報告要旨

会員各位

2006年5月の関東例会の報告要旨をお届けします。

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日時:2006年5月27日(土)14:30-
会場:東京大学赤門総合研究棟849教室
報告者:樫村あい子(一橋大学大学院)
報告題目:「日本軍政下『昭南島』における日本語教育の実態—馬来軍政監部国語学
校の事例と「教え」と「学び」の意味づけ—」
コメンテーター:倉沢愛子(慶應義塾大学)

[報告要旨]
 本報告は、日本占領下におけるシンガポールの日本語教育の実態を明らかにしつ
つ、元教育者と元被教育者のインタビューから彼らの現在の記憶のなかでの日本語教
育の意味づけを検討するものである。
 東南アジア地域における日本軍の日本語教育などの文教政策は、日本の研究史上で
の評価も低く、シンガポールでは「奴隷教育」などと称されて批判されてきた。日本
における従来の研究は、日本軍による軍政の一部としての日本語教育が描かれるのみ
で、加害者としての日本という視点が所与のものとされる。一方で、シンガポールで
は日本占領期におけるオーラル・ヒストリー研究が盛んになってきているが、これも
シンガポールナショナル・ヒストリーのなかに位置づけられるものであり、加害と被
害という二項対立にとどまっている。本報告は、馬来軍政監部国語学校の元教師、元
学生への聞き取りをもとにその実態を解明するとともに、「教え」と「学び」の意味
づけを検証する。
 シンガポールにおける日本語教育機関としての馬来軍政監部国語学校は、1942年に
第25軍の宣伝班の主導により設立された。生徒は成人も含まれるなど幅広い年齢層に
またがり、民族構成も華人、インド人、マレー人、ユーラシアンなど多様だった。内
容は日常会話が基本であり、授業は全て日本語で行われた。教育は行政の円滑化を目
的とするものであったが、民族ごとに教育政策が分かれていたシンガポールでは、こ
れらの学校が生徒たちにシンガポーリアンとして体験を共有する場を提供した。
 学校の女性教師であったMさんは、27歳のときにシンガポールに派遣され、文教科
に配属後教師となった。彼女は南洋での日本語教師としての体験を「懐旧の情」を
持って振り返っている。ただし、この感情が生まれたのは主に現在に至る環境の変化
によるものである。すなわち、敗戦の結果彼我の立場が逆転し、彼女が生徒たちの立
場が理解できるようになったこと、生徒たちとの交流が戦後にまで継続したことが大
きな要因である。
 シンガポールにおいては、占領下の日本による教育が「愚民教育」であったとする
マスター・ナラティブが存在する。これが成立した背景には、日本の物的・人的資源
の欠乏により教育が停滞したこと、中国系住民が愛国心から日本の教育に抵抗を示し
たことがある。
しかし、日本語教育を受けた元生徒は当時の教師に「思慕の念」を示す人もある。祖
籍は客家で戦前英語教育を受けた後日本語教育を受けたC氏は、学校での体験を肯定
的にとらえ、学校の教師や出会った日本人に対して愛着を抱いている。これに関して
も、教師とのコミュニケーションの結果生まれたというよりも、占領下の日本語教育
という場での体験を戦後に彼のなかで意味づけを行った結果生じたものとみることが
できる。
 本報告では、人の記憶がナショナルなものを超える可能性を提示した。今後の課題
として、個人レベルのオーラル・ヒストリーを収集して読み解く作業を行うととも
に、マスター・ナラティブの成立過程もたどる必要がある。さらに、情報の精緻化の
ため文書資料とのつきあわせやインタビュー間のつきあわせの作業が必要である。

[コメント・質疑応答]
コメント(倉沢愛子):事例の解釈を深めていくためには、その社会的背景をより明
らかにする必要がある。報告をシンガポールの地域研究として位置づけるならば、ラ
イフ・ヒストリーに焦点を絞り、個人の歴史を通じて地域の歴史を浮かび上がらせる
というアプローチも考えられるのではないか。(以下質問)①マスター・ナラティブ
に個人の聞き取りの事例を対置することの目的とは何か?②「国語学校」という用語に
ついて、東南アジアでは皇民化政策は行われず、「国語」ではなく「日本語」教育と
呼ばれることが多いが?③「思慕の念」というのはシンガポールに限らず同世代で日
本語教育を受けた多くの人びとが持っているものであり、支配・被支配という関係で
はないのではないか?④文書資料は利用しないのか?—A.①加害・被害という二項対
立の図式ではみえないものを明らかにすることを目的とする。②この事例は一般の皇
民化政策とは別の文脈である。③そうした感情が存在することに加えて、過去の記憶
が現在の文脈で解釈されていることが重要である。④利用はしているが本報告は聞き
取りの事例に限定した。
Q. ここで教育を受けた人は戦後日本とどう関わったのか(鳥居)?—A. C氏の場
合、戦後日本とのかかわりはなかった。
Q. ①馬来軍政監部の所属は?②日本語学校設立の経緯はどのようなものか?③女性
教師について、どのような形で派遣されたのか?④全体のインタビュー数は?C氏の
話には信憑性に疑問が残る部分が多く、テキスト・クリティークが必要。そのために
は一定の数を集めることも重要ではないか(桜井)。—A. ①第29軍だと思われた
(が再確認したところ25軍であった。)②学校を管轄していたのは馬来軍政監部の
宣伝班。③軍属としてではないか。④男性7、女性3の10名。
Q. ①通っていた生徒の社会階層はどのようなものか?②生徒の募集はどのように行
われていたのか(國谷)?—A. ①ほぼ無試験であったため、上層から下層に至るま
で多様であったと思われる。②試験はなく、官報などで告知して集まってきたもの
で、口コミによるところが大きいのではないか。
(文責:坪井祐司(東京大学大学院))

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

2006年07月04日

東南アジア史学会 第331回 関西例会のお知らせ

2006年7月例会を下記の通り開催いたします。皆様、どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2006年7月15日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:長沼さやか(総合研究大学院大学文化科学研究科)
「中国共産党政権下における水上居民の生活の変容 —中国広東省中山市の事例—」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1−5
    大阪大学大学院文学研究科 桃木至朗研究室

2006年06月19日

2006年4月関東地区例会報告要旨

会員各位

遅くなりましたが、2006年4月の関東例会の報告要旨をお届けします。

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日時:2006年4月22日(土)14:30-
会場:東京大学赤門総合研究棟849教室
報告者:井上さゆり(日本学術振興会特別研究員)
報告題目:「ビルマ「古典歌謡」におけるジャンル形成:創作技法の分析を通して」
コメンテーター:青山亨(東京外国語大学)

[報告要旨]
 本報告ではビルマの「古典歌謡」と言われる「大歌謡(タチンジー、19世紀末に植
民地化される以前の音楽形式で作られた歌謡)」がいかに形成されてきたかを、作品
の側から検討する。18−19世紀ビルマにおける歌謡創作技法の分析の視点から、「古
典」とひとくくりにされる歌謡作品が作られてきたプロセスを見る。
 「大歌謡」を扱った先行研究は1)音楽的側面からの分析、2)ビルマの文学史・歌
謡史に代表されるような古くからの歌謡の作品目録とする見方、3)政治的に形成さ
れた「伝統」の目録とする見方の三点から為されてきた。いずれの議論も大歌謡の範
囲を作品目録として捉えており、個々の作品が歴史的にいかに形成されてきたかは論
じていない。
 本報告では、歌謡集の中身に注目し、作品が相互に引用し合いながら作られている
ことを指摘する。歌謡ジャンルごとに作品を見ていくことにより、創作技法の推移が
見られる。創作技法から歌謡を見ていくことによって、歌謡集の中に創作の歴史を見
ることを目的とする。
 資料(歌謡集)は貝葉写本と刊本を使用する。現在、大歌謡とされるものは、1798
年以降に作品の収集がなされ、1880年代から1910年代にかけて写本の形で分類・整理
され、1920年代以降様々な歌謡集が発行される中でその範囲を強化されてきたもので
あるといえる。
「大歌謡」に含められている歌謡作品は、いくつかのジャンルに分けられる。ジャン
ルによって調律方法、リズム、前奏部分の旋律、終末部の旋律などが異なる。特に弦
歌(チョー)と鼓歌(パッピョー)の作品数が特に多く、本報告ではこの2つのジャ
ンルの創作技法を中心に見ていく。
 同一ジャンルの作品は互いに似ている。部分的な旋律が頻繁に共有されるためであ
る。特に弦歌と鼓歌には「替え歌(同じ旋律を使った別の曲)」が多い。
歌謡作品は作者名のない作品が多く、作られた時期が不明であるが、創作技法を分析
していくことにより、作品間の時間的な前後関係を考えることができる。
 まず、弦歌の創作技法を見る。1)「替え歌」(タイトルに「〜の旋律(アラ
イッ)」とあるもので、ある作品の旋律を利用して別の歌詞を付けた作品の意)、
2)旋律の一部を共有している例、3)引用、借用(同一タイトルによる別作品、そ
の替え歌、同題材の別作品)などの技法が見られる。これらの技法で関連する作品ご
とにグループ分けすると、513篇の弦歌のうち442篇が同系列の作品を持ち、190のグ
ループに分けられる。そして、各グループには歌詞のない作品(演奏の音だけを示し
た口唱歌)が1篇含まれている場合が多く見られた。つまり、歌詞のない作品(口唱
歌)に歌詞が付けられた作品、その替え歌、書き換え、というように、多くの作品が
個別に作られるのではなく、ある作品から派生して別の作品を作っていくという流れ
があったことが想定できる。
 替え歌のパターンを見ていくと、元歌のタイトルと内容に沿った替え歌と、元歌の
タイトルと内容とはまったく異なる替え歌が見られる。大多数の作品は後者のパター
ンである。このことから、タイトルに「替え歌」となくとも、タイトルと内容がまっ
たく異なる作品は、何かの替え歌であると考えることができる。また、タイトルに
「替え歌」とある作品は元歌が現在確認できなくても、元歌の存在を示唆する。歌詞
の多くが「王権讃仰」的な内容であり、類似表現の繰り返しである。ビルマ文学史で
は従来これを社会背景に還元して議論してきたが、この題材はむしろ「規則」に近
く、面白みは他の要素で出そうとしていると考えられる。
 次に、鼓歌(パッピョー)の創作技法を見る。調律技法が変わり、弦歌ほど多くは
ないが、替え歌が見られる。また、既存のものの引用、借用、替え歌という弦歌で見
たものと同じ技法が見られる。弦歌で創作を行っていたウー・サ(1766-1855)とい
う人物が鼓歌でも創作を行っており、ウー・サの作品が各歌謡集の鼓歌作品の三割か
ら五割近くを占めている。  
ウー・サの作品を例に技法を見ていくと、鼓歌作品相互間の替え歌が見られる他、他
の歌謡ジャンルからの引用・部分的な替え歌が見られる。弦歌の替え歌を多く作って
いたウー・サであるが、鼓歌の替え歌はほとんど作っておらず、わずかに作っている
例では、自身の作品の替え歌を作っている。逆にウー・サの作品が他の作者による替
え歌の元歌となっている場合が多い。
以上をまとめると、大歌謡は、個々の作品が独立して作られるのではなく、古い作
品、既存の素材を使用し組み合わせながら作られていたと指摘できる。歌謡集は単な
る作品目録に過ぎないのではなく、創作技法の推移を示し、作られた時代の不明な作
品についても位置づけを示す。
中心的なジャンルである弦歌と鼓歌に注目すると、特に弦歌は、同ジャンル内での引
用を頻繁に行っていた。一方、鼓歌においては、替え歌だけでなく、他のジャンルか
らの引用を頻繁に行い、その他のほぼ全ての歌謡ジャンルから旋律を借りて作られて
いた。
弦歌においては替え歌を多く作っていたウー・サは、鼓歌作品の最も多作の作者であ
るにもかかわらず、替え歌をほとんど作っていない。わずかに作っている例では、自
分の作品の替え歌のみを作っていた。逆に、彼の作品が元歌となり、他の作者が替え
歌を作っているパターンが見えた。
大歌謡の作品においては、既存のものを使用するという創作技法を踏襲しながら、
ジャンルを超えて歌謡創作が続けられていた。歌謡の創作技法を見ることにより、歌
謡集にまとめられた作品の時間的な前後関係、創作のプロセスを見ることができる。

[コメントおよび質疑応答]
コメント(青山):今回の報告は作品群からの間テキスト性を分析対象とした。先行
研究のDouglasはコンテキストから見たが、報告者は作品における内在的な関係を先
にやるという立場であるが、それでクリアになったものとそうでないものがある。第
一に、口承伝承、たとえばホメロス叙事詩など、オーラル・コンポジションの研究成
果を使うとよいのではないか、第二に用語の問題であるが、「替え歌」という言葉は
どうなのか。「〜の旋律」という言葉にビルマ人自身が内在的に持っている認識が消
えてしまうのではないか。なぜビルマ人が「〜の旋律」という言葉を使うのかを考え
た方がよいのではないか。第三にビルマ人が大歌謡を「作品目録」と捉えていること
の意味。第四にウー・サの作品というのは、本当にウー・サが著者なのか。どの作品
にも有名な人の名前を冠するということがあった可能性があるのではないか。
A:オーラル・コンポジションの問題については勉強不足のため今後考えていきた
い。用語の「替え歌」についても、「替え歌」と訳しかえることでこぼれ落ちる概念
やビルマ人の持つ認識があるとは、確かにその通りだと思うので、今後検討していき
たい。ビルマ人が文学史や歌謡史を「作品目録」としてのみ捉えてきたことについて
も、ジャンルに対する認識がどうであったのかを加えて検討する必要があると思う。
また、ウー・サの作品については、残されている貝葉写本の序文に、ミンドン王の命
によりウー・サが25歳から83歳までの作品をまとめて記述したことが書かれているこ
とに基づいている。しかし、大歌謡の作品の大部分が彼の作品になっていることを考
えると、著名な作家として作品に名前が冠せられた可能性も考えられる。

Q:「ジャンル形成」と「創作技法の分析」の間に大きなギャップがあるのではない
か。作品群が持っている構造的な分析と創作技法のプロセスを分けて分析したほうが
よい。創作技法の具体的なものを使いつつ、抽象的な議論にもっていけるとすばらし
い。(青山)
A:作品が持っている構造の共通性と、創作のプロセスの分析の二点を分けて考えた
方がはっきりするという意識は持っていなかったので、今後は、その点を分けて考え
ていきたい。
Q:「歌謡」は一般にどの程度浸透しているのか。
A:一般の人々が全て演奏できるわけではないが、仏塔儀礼や結婚式などの祭事には
必ず演奏されることからも、遠い存在ではない。歌詞は韻文なので、難しいというイ
メージはある(井上)。地方の村に行っても、一人か二人は演奏できる人がいること
からも、人々からかけ離れたものではない(土佐)。
「替え歌」は「歌謡の多様化傾向」とでもしたほうがよいのではないか(奈良)。
先行研究Douglasの、近代が「伝統」を作っていくという議論は古い。なぜ民衆が
「伝統」を受け入れるのか、ある時代のある状況に置かれた人間がなぜシンパシーを
感じるのかを議論すべき(桜井)。
(文責・設楽澄子(一橋大院))

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

2006年06月16日

東南アジア研究会(東南アジア史学会九州地区研究会)のお知らせ

会員の皆様

いつもお世話になっております。
東南アジア研究会(史学会九州地区研究会)を以下のように行います。
ぜひご参加くださいますようお願いいたします。

日時:2006年7月15日(土)午後1時−5時
場所:九州大学六本松キャンパス 本館2階第二会議室
アクセスは → http://www.kyushu-u.ac.jp/map/accessmap.html#04

報告:鈴木陽一氏(下関市立大学)
「スルタン・オマール・アリ・サイフディン3世と新連邦構想
—ブルネイのマレーシア編入問題 1959−1963 —」

東 賢太朗氏(宮崎公立大学)
(仮)「東南アジア地域における呪術の諸相
—アフリカとの比較、およびフィリピンの事例から—」

*このお知らせは東南アジア研究会会員と史学会会員にお送りしています。
重複して会員となっている方々には2つの同じお知らせが届きます。
どうかご容赦ください。宜しくお願いいたします。

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田村慶子 Keiko T. Tamura
北九州市立大学法学部
Faculty of Law, The University of Kitakyushu

2006年06月10日

東南アジア史学会関東部会6月例会のご案内

会員各位

関東部会6月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 6月24日(土)午後1時より
今回は報告が二つですので、いつもより早く始まります。
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告1:中山三照(大阪市立大学大学院創造都市研究科都市ビジネス専攻アジア・ビジネス研究分野)
題名1:「タイにおける潮州系華人経営者の倫理功徳と高齢慈善活動」
報告2:西廣直子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
題名2:「インドネシアにおける高齢化と高齢者の現状  —ミナンカバウの事例—」

参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区委員 奈良修一


報告要旨1
中山三照
「タイにおける潮州系華人経営者の倫理功徳と高齢慈善活動」
 今日、我が国は、人類が過去に経験したことのない超高齢化社会の到来を迎えようとしている。しかしながら、我が国の高齢化問題を取り巻く状況は極めて深刻な状況であるといえよう。例を挙げれば、年金をめぐる公平性問題や医療制度に関する国民負担問題、更には、少子化高齢化に伴う社会保障制度の歪みなど、解決しなければならないことは山積である。近年、我が国における社会福祉施設の現場において、介護老人を職員が虐待するような悲しい出来事が発生している。こうした事件は、我が国における高齢化問題や老人ホーム経営について根本的に見直す時期が来ているのではないだろうか。
 タイ王国・サムートプラカーン県に所在する、華人系高齢慈善機構である北欖養老院は、現在、68名の身寄りのない老人が入居している。そして、北欖養老院職員と老人入居者との相互扶助的関係と養老院の地域社会に対する姿勢は、老人ホーム経営の原点を考察する上でも、私たち日本人にとって学ぶべき点が存在するものと考えられる。本研究発表では、タイにおける潮州系華人経営者の寄付金により設立された、華人系高齢慈善機構である、北欖養老院の高齢慈善活動の取り組みを考察することにより、我が国における老人ホーム経営のあり方について、学ぶべき点を積極的に論じることにする。

報告要旨2
西廣直子
「インドネシアにおける高齢化と高齢者の現状  —ミナンカバウの事例—」
 近い将来全アジアを通じて急速に人口の高齢化が起こるといわれているが、世界でも第4位の人口を擁するインドネシアも例外ではなく、今後20年間に高齢者人口が倍増するような急激な高齢化が予測されている。ところが高齢化の条件が揃っている地域ではすでに高齢化が進んでおり、ミナンカバウの本拠地西スマトラもそのひとつである。なかでも調査地域は人口高齢化率が2000年で10.3%と、すでに高齢化が起こっていることが実証された。
 そこでの高齢者の生活はどうであろうか。ミナンカバウは世界でも最大規模の母系社会であるが、同居高齢者の約80%が娘および娘夫婦と同居していることは、母系社会ならではの特徴であると考えられる。だが高齢者の1人暮しおよび高齢者夫婦の2人暮しのみ世帯も約36%あり、村ではいわゆる「高齢化問題」も散見された。
 ところがインドネシアでは高齢化問題に対する研究が緒についたばかりである。今後確実に急速に高齢化を迎えるにあたり、迅速な対応が迫られる中で、当研究での高齢化および高齢者の現状把握が意義を持つものと考える。

2006年06月07日

関西例会6月

東南アジア史学会
  第330回
関西例会のお知らせ

2006年6月例会を下記の通り開催いたします。皆様、どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2006年6月17日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:松浦史明(上智大学大学院外国語学研究科)
「『真臘風土記』の再検討およびアンコール朝末期における交易品と産物について」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1−5
    大阪大学大学院文学研究科 桃木至朗研究室

※非会員の参加も自由です。

2006年05月11日

東南アジア史学会第329回関西例会のお知らせ

From: RXU06501@nifty.com
Subject: [sea 1748] 関西例会5月
Date: 2006年5月10日 19:25:47:JST
 2006年5月例会を下記の通り開催いたします。皆様、どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2006年5月20日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:伊藤正子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
「ドイモイ下のベトナムの民族政策の諸問題−法制化と民族分類をめぐって−」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1−5
    大阪大学大学院文学研究科 桃木至朗研究室

※非会員の参加も自由です。

2006年05月10日

第197回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第197回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしく
お願いいたします。

日時:2006年5月27日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の44番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:加藤久美子氏(名古屋大学)
話題:「19世紀半ばのシプソンパンナーとラタナコーシン朝——ムンプンのマハー
チャイの証言から」

今回は、久々に歴史学の研究で、名古屋大学の加藤久美子先生に最近のご研究の成果
を発表していただきます。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

なお6月は後半の金曜日に倉沢愛子先生(慶應大学)にご登場いただく予定です。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2006年05月07日

東南アジア史学会関東部会5月例会

会員各位

関東部会5月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 5月27日(土)午後2時30分より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告 :樫村あい子(一橋大学大学院社会学研究科博士後期過程)
題名 :「日本軍政下「昭南島」における日本語教育の実態:馬来軍政監部国語学校の事例と「教え」と「学び」の意味づけ」


参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区委員 奈良修一

報告要旨

樫村 あい子
「日本軍政下「昭南島」における日本語教育の実態:馬来軍政監部国語学校の事例と「教え」と「学び」の意味づけ」
 
これまでの占領地教育史研究はナショナル・ヒストリーの文脈において、加害と被害の二項対立で語られてきており、現在までの日本の先行研究においても加害者という言説が研究内容を規定してきた。
当該占領地であったシンガポールでは、長い間、日本占領期のオーラル・ヒストリーを語り継ぐという教育をしてきており、「日本語教育」はその象徴となっている。そして、愛国心醸成に利用されている。オーラル・ヒストリーは未だ両国で息づく声を汲み取ることができ、「意識」の問題にまで掘り下げて研究することができる。また、欠落している東南アジアの一次史資料を補い、日本語教育の実態を解明できる特徴を持つ。
そこで、本発表では発表者が調査したオーラル・ヒストリーを主史料にし、そこで生きていた人の「記憶」や「体験」といものを読み取り分析するという作業を通して、シンガポール「昭南島」において実践された馬来軍政監部国語学校の日本語教育を論じる。さらに、元教育者と元被教育者の教えと学びへの意味づけについて分析する。

2006年04月10日

第196回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第196回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしくお願いいたします。

日時:2006年4月22日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:矢倉研二郎氏(名古屋大学)
話題:「カンボジア農村におけるセーフティーネットの原理
        —タカエウ州におけるサンガハの事例—」

矢倉氏は、現在名古屋大学大学院国際開発研究科特任講師で、カンボジア農村経済を専門としています。
皆様の多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2006年04月04日

第328回関西例会のお知らせ

 2006年4月例会を下記の通り開催いたします。今回は例会創立30周年の記念例会として、ミニシンポジウムを開催します。皆様、どうぞ奮ってご参加ください。


日時:4月15日(土) 13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:関西例会30周年記念ミニシンポジウム「東南アジア研究の中の文献史学」
  林謙一郎(名古屋大学大学院文学研究科)「漢籍研究は生き残れるか?」
  青山亨(東京外国語大学)「ジャワにおける碑文資料」
  八尾隆生(広島大学大学院文学研究科)「大海に釣り糸を垂れる−ヴェトナムの「史料革命」に直面して」
  植村泰夫(広島大学大学院文学研究科)「オランダ植民地文書の世界」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1−5
    大阪大学大学院文学研究科 桃木至朗研究室

※非会員の参加も自由です。

東南アジア史学会関東部会4月例会のご案内

会員各位

関東部会4月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。
前回のお知らせには報告要旨がございませんでしたので、ここもと改めてお送りいたします。

日時: 4月22日(土)午後2時30分より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告 :井上さゆり(日本学術振興会特別研究員(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所))
題名 :「18-19世紀におけるビルマ「伝統歌謡」の形成 ―歌謡集編集と作品の分析を通して-」


参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区委員 奈良修一

報告要旨
井上さゆり
18-19世紀におけるビルマ「伝統歌謡」の形成 −歌謡集編集と作品の分析を通して−

目的:本報告の目的は、現在、政府主導のもとにビルマの「伝統歌謡」として再構築が進められている芸能の一つである「大歌謡(タチンジー)」の枠組みについて、この枠組みが最初に出来上がった時代として、コンバウン時代(1772-1885)にさかのぼり、とりわけウー・サ(1766-1855)という音楽家の創作活動に着目することによって、枠組みの「起源」を解明することである。
 現在、様々な儀式や祭事で必ず登場する「大歌謡」は、王朝時代に宮廷を中心として発達してきたと言われている、ビルマ語による歌謡である。これが、現政権によっても「伝統」として認められ、特に90年代以降になってから、この「伝統」歌謡を教育する文化大学がヤンゴン、マンダレー両都市に設立され、政府主催の芸能コンクールが盛大に行われるなど、ビルマの「伝統歌謡」としての地位を確立している。
 90年代に限らず、ビルマが植民地となって以降、愛国主義者や政府によって「伝統」芸能が保護されてきたことが従来指摘されてきた。しかし、何から「伝統」が作られたのかは指摘されておらず、「伝統」作品のリストがいかに形を成してきたかについても分析されていない。本報告では、(1)歌謡集の編集について分析することによって、これまで近代以降政府によって行われたとされる歌謡の保存、「伝統」歌謡の再構築が、コンバウン時代にほぼその「伝統」の範囲を定められていたことを指摘する。さらに、 (2)歌謡集に掲載された作品の分析から、ウー・サが現在の「大歌謡」の枠組みをほぼ作り上げたことを論じる。

2006年03月20日

東南アジア研究会のお知らせ

東南アジア史学会の皆様
九州東南アジア研究会の皆様

春の風さわやかな季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。
東南アジア研究会(東南アジア史学会九州地区研究会)を
次のような日程で行いますのでぜひご参加ください。
お待ちしております。

*このご案内は、東南アジア史学会会員と九州東南アジア研究会会員に
お送りしています。両方に所属なさっている方には重複して配信されています。
どうかご容赦ください。

日時:2006年4月22日(土)午後1時ー5時

報告者と報告テーマ:
㈰日下 渉さん(九州大学大学院)
「規律化と社会正義の狭間で
−マニラ首都圏における地方政府と街頭商人組織の権力関係−」

㈪葉山アツコさん(久留米大学経済学部)
「研究と実践のむすび方
−JICA専門家(フィリピン森林行政)としての失敗経験を通して」

場所:九州大学六本松キャンパス本館2F第3会議室
(正門から入って正面の建物。正面玄関から入り、階段上ってすぐ左手の部屋です)
六本松キャンパスへのアクセスは以下
http://www.kyushu-u.ac.jp/map/campusmap/Ropponmatsu/ropponmatsu.html

報告終了後に懇親会も予定しております。
懇親会にもぜひご参加ください。

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田村慶子 Keiko T. Tamura
北九州市立大学法学部
Faculty of Law, The University of Kitakyushu

2006年03月05日

関西例会3月

東南アジア史学会 第327回 関西例会のお知らせ

2006年3月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2006年3月18日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:蓮田隆志(大阪大学COE特任研究員)「ベトナム後期黎朝成立史再考」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1−5
    大阪大学大学院文学研究科 桃木至朗研究室

※非会員の参加も自由です。

2006年03月03日

第193回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第195回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしくお願いいたします。

日時:2006年3月18日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:小林寧子(南山大学)
話題:「日本の占領地とイスラーム政策」

今回は、インドネシアイスラーム研究を専門とされる小林寧子先生に登場いただきます。先生は今後イスラーム研究でも歴史研究に回帰されるご予定とうかがっております。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2006年02月17日

研究会『比較の中の東南アジア研究』第 8回会合のご案内

東南アジア史学会会員の皆様

「比較の中の東南アジア研究」第8回研究会を下記の通り開催いたします。今年度最後の会合になります。
今回は曜日も時間帯も著しく変則的であり、これまでとは異なっておりますのでご注意ください。
オープンな研究会ですので、ふるってご参集くださるようお願いいたします。

       記
     
日時:2006年3月22日(水)11:30-14:00

会場:京都大学東南アジア研究所 東棟2階会議室(E207)
(早めの昼食をお済ませになってからご参加ください)

報告者・報告タイトル
 秋田茂 (大阪大学) 
 「1950年代の東アジア国際経済秩序とスターリング圏」
 濱下武志 (京都大学東南アジア研究所) 
 「秋田茂著『イギリス帝国とアジア国際秩序』を読む」

※今回は懇親会はございませんのでご注意ください。

岡本正明、玉田芳史、柳澤雅之、鬼丸武士

続きを読む "研究会『比較の中の東南アジア研究』第 8回会合のご案内" »

2006年02月07日

東南アジア史学会第326回関西例会のお知らせ

2006年2月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2006年2月18日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:泉川普(広島大学大学院文学研究科博士課程後期)「戦前期中部ジャワにおける日本人の商業活動とその展開 ——取引関係を中心に——」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

※非会員の参加も自由です。

2006年01月23日

2005年12月関東地区例会報告要旨

会員各位

2005年12月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。


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東南アジア史学会関東地区12月例会
2005年12月17日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
参加者:18名
報告者:塩谷もも(東京外国語大学)
題目:「儀礼にみる社会関係とイスラム主義の諸相:中部ジャワの事例から」
コメント:染谷臣道(国際基督教大学)

[報告要旨]
 本報告では、報告者自身のフィールドワークの結果に基づき、ジャワの共食儀礼ス
ラマタンについて、従来の定義の再検討が行われるとともに、調査村における儀礼の
変化とその背景が考察される。
 調査地は、中部ジャワ州スラカルタ市郊外の一集落スンダリ(仮称)である。スン
ダリは世帯数が236であり、3つの隣組から構成される(第1隣組73世帯、第2隣組62世
帯、第3隣組101世帯)。住民の職業は多様であり様々な職種の人たちが交じり合って
住んでいる地域であるが、男性では建設業労働者、運転手、公務員など、女性では主
婦、下宿・食堂経営、スナック作り、裁縫業などに従事する人が多い。報告者はここ
で2001年3月から2003年2月まで現地調査を行った。
 調査地の住民はその居住期間によって旧住民と新住民とに類別されうる。新住民は
1970年代後半以降の大学の設置や、80年代後半からの住宅地建設などによって増加し
たもので、新旧住民の間には、職業、経済状態、学歴、隣人との付き合い方などに違
いがある。また、スンダリ住民のほとんどがムスリムであるが、ムハマディアやナフ
ダトゥール・ウラマなど様々なイスラムの「派」によって違いが見られる。とくに、
排他的なイスラム組織LDIIの成員とそれ以外の人々との対照が際立っている(LDIIは
全世帯の15%程度を占める。第1隣組に多い)。以上が調査地の概要である。
 次に、従来のスラマタン定義の再検討を試みる。クリフォード・ギアツは、男性に
よる祈りと料理分配の儀礼をスラマタンとして記述したが、報告者はこれを狭義のス
ラマタンと位置づける。男性による共食は儀礼全体の一要素に過ぎないにもかかわら
ず、それが他の儀礼から切り離された独立の儀礼であるかのような印象を与えてし
まったところにギアツの問題点があった。また、儀礼が何の機会に催されたものであ
るかにも留意する必要がある。例えば、死後儀礼や慶事にともなって行われるものな
ど、住民にとっては「何のスラマタンか」が重要であり、それぞれで準備される料理
など儀礼の内容に違いがある。
 現在の調査地では狭義のスラマタンはほとんど行われていない。これは狭義のスラ
マタンがイスラムの教義に当てはまらないものとして住民たちによって否定的に評価
されているためである。霊的存在が宿る木に供え物をする慣行が廃れてきたことも同
じように解釈できる。報告者の観察した誕生儀礼やサドラナン(断食月の前にモスク
で祖先へ祈りを捧げる儀礼)においても、ジャワ的な要素とイスラム的な要素が見ら
れるが、イスラム的な色彩がより濃くなる傾向にある。このような傾向の背後には、
狭義のスラマタンなどの儀礼に否定的なムハマディアの影響力の強まりや、LDIIが自
らの宗教的な立場を主張するためにイスラムの要素を強調した儀礼を行うようになっ
たことなどがあると考えられる。このような状況下で、イスラム諸派間の教義の違
い、ひいては日常における社会的な差異やコンフリクトを乗り越える手段として、儀
礼の場でイスラムの要素が強調されるようになったのだろう。
 また、女性たちが儀礼の変化に及ぼす影響に注意を向ける必要がある。というの
は、女性たちは供え物や料理の準備を担当するため、儀礼の形式決定に果たす役割が
大きいからである。調査地スンダリでは1980年代から定期的に宗教講話会プガジアン
が行われるようになったが、現在、この講話会は女性を中心に行われている。女性同
士の関係においてイスラムへの熱心さが社会的地位と関わっており、そのために(た
とえ外面的なものにすぎないとしても)女性たちの宗教に対する意識が高まり、儀礼
内容の変化に直接的な影響力を及ぼしていると考えられる。
 以上の考察から、スラマタンは、ギアツの定義よりも広く、さまざまな要素からな
る一連の儀礼として捉えるべきであり、そうした儀礼全体の動態的な変化は、調査地
における住民の社会関係と切り離して考えることはできないということが確認され
る。
 
[コメントおよび質疑応答]
コメント(染谷臣道):たしかにギアツが現地の言葉を忠実に使用してスラマタンと
いう用語を用いたのかは疑問である。ところで、住民のイスラムに対する姿勢は、み
んながやるからそれに従うとか、長いものには巻かれろとかいう消極的な態度のよう
に思えるが、イスラム的要素が強調される過程で住民の側から反発が生じなかったの
か?—A:儀礼のときに料理を中心となって作るある女性(それぞれの儀礼に必要な
料理について知識を有している)は、イスラム的要素の強調をあまり歓迎していない
様子であったが、それについて明言することはなかった。町内の有力者にはイスラム
志向の強い人が多いので、それにはばかっているのだろう。
Q:表題の「イスラム主義」とはどういった概念を想定しているのか?イスラム改革
派は一言では括れない多様な存在では?(川島)—A:「イスラム主義」は、儀礼の
中のイスラム的要素が強調される傾向を指す適当な用語を見つけられなかったので便
宜的に用いただけである。イスラムの多様性は認識しているが、調査地の住民にとっ
ては、とくにLDIIと非LDIIとの対照が重要である。非LDIIの人々は、LDIIを「特殊
な」ムスリムとして「一般の」ムスリムである自分たちとは区別して考えている。
Q:LDIIか非LDIIかということは、旧住民か新住民かということと関係あるか?(倉
沢)—A:関係ない。ただ、LDIIは親戚関係を通じて広まっている。第1隣組では親戚
関係が強い。また、LDII世帯の特徴として、子供の数が多いことが指摘できる。な
お、町内有力者のイスラム志向はLDIIとは別物である。
Q:LDIIが調査地に入ってきたのはいつ頃か?(倉沢)—A:1960年代から。
Q:女性たちが率先して儀礼の変化を引き起こしたと考えられるのか?それとも、女
性たちの事例を見てもこのような変化の一端を見出させるということなのか?(土
佐)—A:後者か。しかし、現時点ではまだ確信的な結論を出すに至っていない。
Q:儀礼の頻度や参加者の構成は変化したか?(奈良)—A:昔の方が頻繁に行われて
いた。また、参加者の人数は減少し、高齢化も進んでいる。
Q:儀礼の変化は都市化の影響と考えられないか?(染谷)—A:都市化の影響は考え
るべき。忙しいキャリアウーマンが儀礼用の食事にケータリングを利用した事例があ
る。このことが他の住民に批判されたことを考えると、儀礼の準備が原則としては労
働奉仕による相互扶助であるという通念は残存しているようだ。

ここにあげた以外の点についても参加者の間で活発な議論がなされた。
(文責・長田紀之(東大院修士)

2006年01月19日

研究会のご案内

東南アジア史学会会員のみなさま


「比較の中の東南アジア研究」第7回研究会のご案内を下記の通り差し上げます。
ご多用中の折とは存じますが、みなさまのご出席をお待ちしております。


       記

日時: 2006年2月11日(土)15:00-18:00
会場: 京都大学東南アジア研究所 東棟2階会議室(E207)

報告者・報告タイトル:
佐藤仁 (東京大学大学院新領域創成科学研究科) 
「研究と実践:タイで考えたこと(仮)」
コメント:
河野泰之(京都大学東南アジア研究所)

終了後、懇親会を予定しております。

続きを読む "研究会のご案内" »

2006年01月16日

関西例会1月

              東南アジア史学会
               第325回
             関西例会のお知らせ

 2006年1月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2005年1月21日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題1:桃木至朗(大阪大学)「高校世界史教科書の東南アジア史記述を考える」
話題2:大塚克彦(河合塾名古屋校)「予備校で教える東南アジア史の時代区分」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

※非会員の参加も自由です。

2006年01月10日

第194回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第194回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしくお願いいたします。

日時:2005年1月28日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:桜井由躬雄氏(東京大学)
話題:「初級合作社−バックコック研究報告」

今回は、東京よりベトナム村落研究の第一人者の桜井由躬雄にお越こしいただき、フィールド調査のお話をいただきます。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

なお、2月はお休みをいただきます。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2005年12月28日

研究会のご案内

皆様

肌寒い日が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか。
さて、研究会「比較の中の東南アジア研究」第6回会合の
ご案内を差し上げます。今回はこれまでと曜日、時間に
変更がございますのでご注意ください。ひとりでも多く
の方にご参集いただけると幸いです。

研究会「比較の中の東南アジア研究」第6回会合
日時:2006年1月18日(水)15:30-18:30
会場:京都大学東南アジア研究所 東棟2階会議室(E207)

報告者・報告タイトル
久末亮一 (東京大学) 
「華僑送金の再考ーサンフランシスコとシンガポール:
東西南北の広東系を例にー」
大石高志 (神戸市外国語大学) 
「インド・ムスリム商人とその広域ネットワーク」

終了後、懇親会を予定しております。

皆様のご参加をお待ちしております。

岡本正明、玉田芳史、柳澤雅之、鬼丸武士

この研究会は東南アジア史学会関西地区の
活動の一環として開催されるものです。

2005年12月24日

2005年11月関東地区例会報告要旨

会員各位

2005年11月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。


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東南アジア史学会関東地区11月例会
2005年11月26日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
参加者:8名
報告者:新井和広(東京外国語大学非常勤研究員)
題目:「ある飢饉の記録:南アラビア・ハドラマウト地方と日本による東南アジア占
領」
コメント:生田滋(大東文化大学)


[報告要旨]
 南アラビアのハドラマウト地方では1943-44年に飢饉が起こり、住民の相当数が餓
死した。本報告は、その歴史的背景を、特にインド洋海域との関係に着目して考察す
るものである。
 ハドラマウトは現イエメン共和国の東部に位置する。地域的には南部沿岸部、内陸
のワーディー(涸れ谷)、高地の三つに分けられ、内陸部はカスィーリー王国、沿岸
部はクアイティー王国が支配していた。全体としては貧しい地域であり、歴史的に余
剰人口を移民として送り出すことで社会を維持してきた。17世紀以降東南アジア(イ
ンドネシア、マレーシア、シンガポール、南部フィリピン)、インド、東アフリカな
どへの移民が徐々に活発化し、スエズ運河の開通以降さらに移民は増加した。
 東南アジアのアラブ系住民の大部分はハドラマウト出身者(ハドラミー)である。
ハドラミーは近年移民ディアスポラとして注目を集めているものの、本格的な研究が
始まったのは1990年代からであり、十分に研究されているとはいえない。日本軍政期
に関しては、ハドラミーの歴史研究においても東南アジアの日本軍政期研究において
も扱われていない。本報告は、1937年以降に現れるイギリスの諜報関係の史料を利用
して当時の社会状況を明らかにすることを試みる。
 ハドラマウトから東南アジアへの移民は18世紀以降盛んになったが、主に内陸部
ワーディー出身者が多く、現地では商業と宗教活動で名を成した。ポンティアナ、シ
アク、プルリスといった地域の王家はハドラミーの出自である。ほかにもハドラミー
はムフティーやウラマーといったイスラーム知識人、政治家、実業家、学者などを輩
出している。
 19世紀後半以降のハドラマウト経済を支えていたのは主に東南アジア在住者をはじ
めとするハドラミー移民からの送金であった。有力な一族による送金は多額であり、
それらは道路建設などのインフラ整備や部族抗争のための武器購入にも使われた。ア
デンの治安に関心を持つイギリスは1910年代後半以降後背地ハドラマウトで「反英」
とみられる人物の資金の流れを記録していた。イギリス当局が把握したその送金方法
とは、ハドラミーがバタヴィアでボンベイにも支店を持つ銀行の手形を購入し、それ
をアデンに運んでボンベイから来ている商人に売却し、現金もしくはその金で購入し
た商品をハドラマウトに送るというものだった。
 しかし、第二次大戦により東南アジアの大部分が日本により占領されたため、東南
アジアからハドラマウトへの送金は完全に停止された。ハドラマウトでは貨幣不足に
おちいり、物価が上昇した。そこに天候不順による凶作が起こったが、戦争のため食
糧輸入は困難であり、さらに内陸部では旱魃のためラクダが死亡したために輸送手段
も不足した。現金不足のため富裕層が疲弊して農業労働者を雇えなくなり、土地なし
層が困窮した。彼らは東アフリカ、エチオピアなど他の移住先を探ったものの戦争の
ために拒否された。そのため、イギリスによる資金の融資や食糧供給はあったもの
の、結局大量の餓死者が出た。日本の軍政当局がこの状況を把握していたかは定かで
ないが、日本の占領がハドラマウトに与えた影響は大きかった。
 第二次大戦後になると、インド洋沿岸地域に次々と国民国家が成立したことで移民
の国籍が厳しく問われるようになり、新たな移住が困難になって移民のメカニズムが
崩れた。新しく成立した政府の政策により海外送金は困難となり、東南アジアからハ
ドラマウトへの資金の流れも途絶した。その結果、ハドラミーの移住先は東南アジア
からアラビア半島の国々へと移った。第二次大戦はハドラミー移民の転機となった時
期であるといえる。
 第二次大戦は、ハドラミーのネットワークから見ると、東南アジアが他のインド洋
沿岸地域から切り離された時期である。東南アジアがインド洋世界の一部であること
を考えれば、日本軍政期研究は東南アジアのみならずインド洋地域にまで視点を広げ
る必要がある。

[コメントおよび質疑応答]
コメント(生田滋):東南アジア研究者から見ると、アラブ系移民を受け入れ側から
でなくハドラミーの視点からみた研究は新鮮であり、日本の占領による思わぬ影響が
見られたという点は興味深い。ハドラミーの移住範囲は16世紀のポルトガル人、その
後のオマーン人の活動範囲と重なっている。以下質問Q.東南アジアにおけるハドラ
ミーはイスラーム改革運動における役割が指摘されるが、イスラーム教育における役
割は?−A.ハドラミーは学校の設立など東南アジアのイスラーム教育の近代化に貢献
したと自負している。Q.アラブ人は故郷に帰る際現地生まれの妻子を連れて帰るとい
うが、妻子は本国でどのような地位にあるのか?−A.現地では混血者は区別されてお
り、完全に同化はしていない。帰国した第一世代が亡くなると、二世は母国に帰って
しまう例もある。Q.東南アジアの彼らの商業活動はどのようなものか?−A.移住当初
は親族のもとで働き、やがて土地を買ってその賃料収入を送金にあてるのが一般的。
Q.17、18世紀はイエメンからコーヒーが輸出されていたが、ハドラマウトではどうか
?—A.特産品は乳香であり、コーヒーは出ていない。—コーヒーは産地がエチオピア
であり、オスマン朝は交易港を限定していたのでイエメンは関係が薄い(奈良)。Q.
ヨーロッパやトルコにはいかなかったのか?−A.ヨーロッパへは東南アジアへの移民
の子孫である三世、四世が行っている。Q.インドからの送金は?−A.送金はあったも
のの、東南アジアと比べ額は小さかった。
Q.東南アジア史の観点からはどのようなことがいえるのか。ハドラミーが集中した地
域は限られており、「東南アジア」としてよいのか、ハドラミーの側に東南アジアと
いう意識はあったのか(川島)?−A.ハドラミーはシンガポール、ジャワが大半だ
が、ハドラミーがいた地域のなかで日本が占領した地域として東南アジアという語を
使っている。彼らは東南アジアを「ジャワ」と呼んでおり、英文史料ではIndiesであ
る。—送金に関してはまとまった量のデータが必要では。ディアスポラ研究とするな
ら、移民社会、ネットワークを総合的に見るべきであり、東南アジアのハドラミーに
関する言及(東南アジアの域内交易など)が必要ではないか(川島)。
Q.(史料に関して)日本軍関係の資料はあるのか(川島)?−A.現在あたっていると
ころである。Q.新聞や協会組織はあったのか(生田)?−A.(ハドラマウトでは)
1930年代に手書きの新聞があらわれるが、軍政期にはない。協会はいくつかあった。
Q.現地史料(日記、家計簿、書簡など)は存在するか(川島)?−A.あまりない。
Q.(送金のプロセスについて)部族の単位で行われたのか(坪井)?−A.個人が親
族、友人に送ったもので、個人的なネットワークによる。−Q. 二世、三世など世代
が下った人々が送金する動機はどのようなものか(左右田)?−A. その場合ハドラ
マウトとの間に人的交流があるかどうかが重要。−Q.送金が止まる前後でどのような
変化があったのか(生田)?−A.移民に頼る構造に変化はなかったが、移住先がアラ
ビア半島へと変わった。
Q.日本軍はアラブ人のネットワークを利用しなかったのか(國谷)?−A.日本軍は原
住民と外来のムスリムを分けて後者を低く見ており、利用はしていない。
Q.ハドラマウトのイスラームはどのようなものか(奈良)?−A.スンニのシャーフィ
イー派で、ムハンマドの子孫であるサイイドが重要な役割を果たした。彼らのイス
ラームはスーフィズムの要素が強い。ただし、現在のインドネシアのイスラーム急進
派にはアラブ系も多いが、彼らの大部分はサイイドではない人びとである。
・世界的に1920年代は好況であるが30年代に入ると不況になる。20年代には東南アジ
ア諸地域の貨幣価値が上昇しており、送金の意味が増していたのではないか(笹
川)。
Q.移民数を統計化はできるのか(左右田)?−A.大多数は現地生まれだが、統計的な
情報はない。−インド系、中国系移民との比較ができると面白いのではないか(左右
田)。Q.華人のような家系図を持つのか(奈良)?−A.サイイドの場合はムハンマド
まで遡る一つの系図が作られているが、その全容は公開されていない。
(文責:坪井祐司)

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

2005年12月11日

関西例会12月

              東南アジア史学会
               第324回
             関西例会のお知らせ

 2005年12月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。



日時:2005年12月17日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:早瀬 晋三(大阪市立大学)
  「海軍「民政」下の西ボルネオ」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

※非会員の参加も自由です。

2005年12月03日

比較の中の東南アジア研究」第 5 回研究会のご案内

肌寒い日が続いておりますがいかがお過ごしでしょうか。
さて、研究会「比較の中の東南アジア研究」第5回会合の
ご案内を差し上げます。ひとりでも多くの方にご参集い
ただけると幸いです。

研究会「比較の中の東南アジア研究」第5回会合
日時:2005年12月17日(土)15:00-18:00
会場:京都大学東南アジア研究所 東棟2階会議室(E207)

報告者・報告タイトル
鬼丸武士 (京都大学東南アジア研究所) 
「戦間期、アジアにおける国際共産主義運動とイギリス帝国治安維持システム」
飯島渉 (青山学院大学文学部) 
「宮入貝(オンコメラニア)の物語ー日本住血吸虫病対策の歴史的含意ー(仮)」

終了後、懇親会を予定しております。

続きを読む "比較の中の東南アジア研究」第 5 回研究会のご案内" »

2005年12月02日

東南アジア史学会関東部会12月例会のご案内

関東部会12月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。

日時:12月17日(土)午後3時より
    いつもより遅く始まります。
会場:東京大学 赤門総合研究棟 8階849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告:塩谷もも(東京外国語大学大学院地域文化研究科)
題名:「儀礼にみる社会関係とイスラム主義の諸相:中部ジャワの事例から」

参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区委員 奈良修一


報告内容

塩谷もも「儀礼にみる社会関係とイスラム主義の諸相:中部ジャワの事例から」
 これまでのジャワを対象とした儀礼研究において、注目を集めてきたのはスラマタン儀礼である。スラマタンは通過儀礼や暦に基づいた特定の日になされるもので、男性たちによる共食儀礼が行われる。先行研究の多くはこの男性のみが参加する共食儀礼に注目し、それを通じてジャワの宗教観や社会関係に関する分析がなされてきた。
 発表者が現地調査を実施した中部ジャワの一集落では、男性による共食儀礼がかつては頻繁に行われていたとのことであるが、現在ではほとんど行われていない。それを行わない理由は主にイスラムとの結びつきで語られ、調査地で現在行われている儀礼では、その形式や呼称においてイスラムの要素が強調されているという特徴がある。
 本発表では儀礼の変化とその背景について、調査地における事例を中心に、隣人間の社会関係とイスラム主義の浸透、そして儀礼の準備を担当する女性の役割に注目しながら論じる。さらに、先行研究で使われてきたスラマタンという儀礼の呼称と定義をめぐる問題を、現地調査で得た資料を用いて分析する。

2005年11月23日

2005年10月関東地区例会報告要旨その2

2005年10月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。
(10月は2人の方に御報告を頂きましたので、それぞれ別にお送りします)


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東南アジア史学会関東地区10月例会
2005年10月22日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
参加者:25名
報告者:相沢伸広(京都大学大学院アジアアフリカ地域研究科) 
題目:「スハルト体制の対華人政策 −内務省編−」
コメント:松井和夫(アジア経済研究所)

[報告要旨]
 1965年の930事件以降、インドネシアにおいてMasalah Cina(チナ問題:華人・中国
・中華問題の総称)は政治問題として、そして時には経済問題として表出した。当初
のチナ問題は外交上の対中国問題であり、「チナ」は北京であったが、その後、中国
籍を持つインドネシア在住中国人の問題、さらにはインドネシア国籍をもつ華人の問
題へと変遷していく。このチナ問題を理解するには、1)政権内の誰がどのような目
的・理由で行ったのか、2)その政治・経済・社会的状況はどうであったか、3)具
体的にどのような政策がとられたのかについての研究が必要である。本発表では、な
かでもスハルト体制期のチナ問題の中でも華人についての問題をめぐる法令とその実
施について、重要な役割を果たした内務省に焦点を当てる。
 1967年の大統領決定240号によって内務省はチナ問題のうち特に対華人政策を担当
することが定められ、その後1975年内務省内に設置された社会政治総局(SOSPOL)の国
民統合推進局がこれを担当することになった。この部局は国民国家インドネシアの分
裂を防ぐために、民族、宗教、政治集団といった、最も敏感な問題群の噴出を抑え、
治安・秩序の安定化を図ることを目的とする、国軍と並ぶ最も重要な政府部局であっ
た。さらに1978年には各州政府の知事下にも同名の部局が置かれることとなり、そこ
で地方においても華人に対する政策が全国的に実施されるようになった。
 加えて、1970年代半ばには同化派華人を取り込んでの対華人政策が始まった。1977
年、26州から各地の華人有力者および州政府社会政治総局の役人を招集して準備集会
が開かれ、その結果、国民統合総括連絡協会(BAKOM PKB)が設立された。統合と統一
の実現を「同化」によって達成することを目的とし、内務大臣、または州知事の補佐
期間として機能した。BAKOM PKBの決定に法的効力はなく、内務大臣が諸指令を出し
た。各地の華人コミュニティ代表者の参加を通じて、地方の華人を「良きインドネシ
ア人」へと変えることが試みられた。
 1980年以降は上記の体制ができあがった後、様々な同化プログラムが実施された。
例えば、16州の内務大臣が指定した地域(華人の割合が高い地域)を対象に、各町内
会長に命じてインタビュー調査を行なわせ、各地域における同化推進具合、華人問題
の状況を報告させた。それと同時に華人データの作成が進行した。67年以降、国籍に
関する法制度が整備され、華人は裁判所で中国国籍を破棄したという証明をもらい、
その後出先機関で住民登録を行うという制度を施行したが、実際には徹底されておら
ず、1980年各州知事に対し指令を出し村長や町長を動員しデータ集めを実施した。
 内務省以外にも、教育・文化省、労働省などもそれぞれ同化政策のためのプログラ
ムを実施しており、内務省の役割は横断的ネットワークを作成し各省間の調整作業を
行うことであった。
 最後に本研究の意義を二点述べるならば、華人研究に対しては、これまで華人の側
からしか検討されなかった問題について、はじめて、中央の具体的政策の実施過程を
明らかにする、スハルト体制下についての基礎研究としての意義を持つ。そしてイン
ドネシア政治研究に対しても、これまで資料が得られなかった内務省社会政治総局
(SOSPOL)に関して、研究の出発点として位置づけられる。このSOSPOLはスハルト体
制の治安秩序維持に中心的な役割を果たしてきた機関である為、華人研究のみなら
ず、イスラムや共産主義など、この時代のインドネシアの民族、宗教そして政治につ
いて関心がある者にも重要な研究となる。

[コメント]
㈰内務省がなぜそのような対処をしたのか、その目的の部分がはっきりしない。
SOSPOL(内務省社会政治総局)の政策実行のイニシアティブはどの程度あったのか?
㈪この問題は軍のいわゆる二重機能、またBAKIN(国家情報調整庁)の役割と密接に関
連していたのではないか。マラリ事件以降のインドネシアの外資政策の転換、石油
ブーム、等々につながる軍の権力闘争がSOSPOLのイニシアティブを解明する材料にな
るのではないか。内務省編以外にABRI(インドネシア国軍)、BAKIN編が必要では?
㈫経済的な面、つまり華人ビジネスと政策との関係をみる必要がある。スハルトはチ
ナ問題に対して厳しい対応をとる一方で軍やゴルカルの活動を支える華人マネーを重
視していた。それが政策に反映され、地方の政治レベルでもみえてくるのではない
か。
㈬チナ問題の対処は、外国人管理と関わっている。ジャカルタでは長期滞在には人頭
税が課せられており、これは金持ちの外国人をターゲットにしているのではなく、中
国籍を持つ華人をターゲットとしているものではないかと思う。外国人管理としての
華人政策という視点の必要性がある。
㈭BKMC(チナ問題調整局、1973年設置)へ以降するまでの間になにかあったのか?分
権化への意思表示を出していた時期でもある。そのような時期であったこともあり、
この時期の分析は重要である。また、BKMCは2004年まで存続したとのことだが、その
時点での行政上の位置付けは。
㈮SOSPOLの下部組織は県レベルにも設置されているので、押さえる必要がある。
㈯近年の、AMOI(Aku Menjadi Orang Indonesia、若い華人自身がインドネシア人にな
ることを奨励する運動)などについても見る必要がある。
㉀現在の制度的な民主化の流れの中でSOSPOLがいかなる状況にあるのか。国籍証明書
をなくそうという話がでているが、実際には内務省の内部には華人名簿は残ってお
り、使用されているのではないか。スハルト時代の残存物がおそらく保管されてお
り、いつでも利用できる体制になっているのでは。

[コメントに対する回答]
㈰㈪マラリ事件とは直接の関連は無いが、チナ問題におけるSOSPOLのイニシアティブ
と国軍内部の権力闘争は密接に関連する。内務省におけるチナ問題担当の部局は、ス
ナルソ准将が国軍において権力を握っていた時期に、彼の属人的なイニシアティブに
よって組織された。今回は網羅できなかったが、自分の博士論文では内務省だけでな
く軍やBAKINの分析を含めている。
㈬外国人管理との関係について、おもしろい指摘である。チナ問題はもともと対中国
問題であったこともあり、そういう側面は名簿も含めて様々なところに残されてい
る。現在では内務省の役割は変わっている。テロ対策などとの関連については、確認
していないが内務省はそのような機能は持っていないと思う。
㈭BKMCが1973年に設立されたのは、先述の通りスナルソ准将が権力を握っていた時期
の問題。2004年時点では、BAKINの直接の下部組織ではなく外郭団体のような位置付
け。メガワティ時代(2004年4月)に廃止。軍の中の権力闘争とは特に関係ない。
㉀民主化とSOSPOL、現在のSOSPOLについては今後考えていきたい。とても興味深い。
華人名簿を含めてスハルト時代の制度的遺産が具体的にどこの省庁にどのように残っ
ているのかについては別に研究する必要がある。すくなくとも犯罪データに関しては
検察庁、住民データは内務省がそれぞれ管轄であり、管理している。

[質疑応答]
 同化政策が実施されることによって差別が生み出されるという側面は無いか。イン
タビュー調査の質問票の中にアスリとクトゥルナンという言葉があるが、クトゥルナ
ンは外国人一般を指しているのか、華人を特に指しているものであるか(沢井)→ク
トゥルナンという語は行政文書ではインド人やアラブ人等を含めて指す。ただしイン
タビュー調査そのものの目的は住民が華人かどうかを判別すること。その意味で、同
化政策が結果的に差別政策の側面を持ったということは言える。

 チナ問題を担当する部局の変遷は具体的に分かったが、それによって問題の語り
方、扱い方がどのように変わったのか(西)→今回は内務省しか紹介しなかったので分
かりづらいが、国軍との関係を含めて見ると良く分かる。チナ問題は軍にとっては監
視政策であり、内務省にとっては国民統合を維持、もしくは促進するためのプログラ
ムの一部分であった。(相沢)

 インドネシア政府はどういう目的で、華人の国籍取得を厳しくしているのか。国籍
取得を推進することを目的としているにも関わらず、なぜ複雑な行政手続をそのまま
にしているのか。そのような非効率性はなぜ存在するのか(倉沢)→ 結果的に非効率
であることは確かでも、その非効率が「意図的」なものであることを確認することは
できない。いえることは、非効率性が手続きコストを高め、よって末端の行政官が華
人からお金を取るチャンスが実際ある以上、効率化してそのチャンスをなくすインセ
ンティヴは当局にはあまりない。それと、国籍取得申請が大量にもかかわらず、この
案件を処理しているスタッフの少なさが、効率性の限界をもたらしていることであ
る。(相沢)

㈰インドネシアでは「チナ」という言葉はネガティブなニュアンスが強いが、「ティ
オンホア」という言葉が使われた形跡は無いか。 ㈪行政文書の中で「チナ宗教
(Agama Cina)」という言葉があるが、これは公定宗教として認めているということに
なるのか?(青山)→㈰「ティオンホア」という言葉は98年以降、権利回復運動を行っ
ている人々によって、「チナ」は蔑称だという認識から使用されている。スハルト政
権の公式文書では「チナ」という呼称で統一する旨指令があったが、華人の間には
「チナ」と呼ばないで欲しいという心情は存在した。㈪行政文書では正確には「チナ
の文化、宗教、習慣」という表現。ここは「中華色の」という意味。インドネシアに
は実際には5大宗教に入らない宗教はたくさんある。しかし当時の政治状況を詳しく
検討すると、中華色のある宗教は排除しなければならない状況にあった。

㈰「チナ」とは別に華人を指す言葉はインドネシア語にあるのか。タイやベトナムで
は蔑称とそうでない呼称の両方が存在しており、使い分けられている。㈪政策の実施
においては地方ごとにかなり大きな差があったのではないか。(桜井)→㈰インドネシ
アではそのような特別な蔑称は他にわからない。㈪全体としての政策はあったのだ
が、地方でそれが反映しているかどうかには差があった。地方によって華人をめぐる
社会的状況は多様である。注目すべきは、例えば、公共の場でのお祭りに関しては、
県・市が決定権を持っていたこと。それによって、中央の決定についての地方での政
策実行には差が出てくるということになる。今日の話は意識的に中央からの分析にと
どめたが、今後地方の研究を合わせることでさらに面白い成果が期待できる。(相沢)

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

2005年10月関東地区例会報告要旨その1

2005年10月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。
(10月は2人の方に御報告を頂きましたので、それぞれ別にお送りします)


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東南アジア史学会関東地区10月例会
2005年10月22日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
参加者:25名
報告者:篠崎香織(ルクセンブルグ欧亜人文社会科学研究所マレーシア孝恩文化基金
ジョイント・キャンパス計画客員研究員)
題目:地域秩序の構築と定住者:20世紀初頭のペナンにおけるナショナリズムの諸相
コメント:弘末雅士(立教大学)

[報告要旨]
 ナショナリズムは一般的に、ある領土に結びついた同胞意識を共有し、一致団結し
て植民地主義に抵抗し、それを打倒して自前の国家を獲得する運動と理解されてい
る。マラヤ地域で大規模な抵抗運動としてほとんど唯一挙げられるのは、1948年のマ
ラヤ共産党の蜂起である。共産党を中心とした左派は、マレー人の特別な地位に一定
の理解を示しつつ、全ての人に平等な公民権を主張した。だがマレー人は非マレー人
の公民権取得をマレー人の権利を奪うものと反発し、華人とインド人は依然僑民意識
が強く、共産党は広範な支持を得られなかったとされている。抵抗運動の挫折は「国
民的」まとまりの欠如ゆえと理解され、エスニックな境界線が明確なマラヤ/マレー
シアのあり方が否定的に評価されることも多い。
東南アジアのナショナリズムにおける華人の位置づけは、「現住民」に危機感を抱か
せその団結を促進し、最終的に排除された存在とされるか、「原住民」に同化してナ
ショナリズムの実現に貢献した存在とされる。一方ペナンおよびマラヤ地域では、華
人という集団性が維持されつつも、社会を構成する正当な一集団として認識され、排
除されなかった。
 華人は植民地税制を支え、それ故に利権を生んで政府と癒着した存在にもなったと
考えられていた時代もあった。しかし政府は序々に華人移民をコントロールし、利権
を持つ華人ビジネスマンの力をそいでいった。この時代は華人コミュニティーと政府
の法に基づいた関係が構築された時代であった。合法な手続きによる政府への請願・
要求・交渉という手法は、マラヤ地域およびマレーシアにおいて引き継がれているよ
うに思われる。
 本報告では以下の3つの可能性を提示する。㈰民族意識の高まりと結社・団体の設
立は必ずしも他者への敵対を示すものではなく、公権力や制度との関係構築や、社会
と公権力をつなぐ代表者の選定をめぐって活発化・強化することがある、㈪既存の国
家のあり方を否定し自前の国家を求める運動も、既存の国家のあり方を受け入れ、そ
れを自身にとってよりよい制度にすべく関わろうとする運動も、いずれもナショナリ
ズムとして評価する、㈫華人を含めた定住者は定住地の秩序と無関係に生きていたの
ではなく、その構築にかかわり、秩序形成に貢献した側面もある。

 海峡植民地ではあらゆる民族に同一の法制度が適用され、手続きを踏めば誰でも海
峡植民地の司法・行政制度を利用できた。ペナンの住民は海峡植民地の制度をかなり
信頼しており、それらを利用して住民同士の紛争を調停することも多かった。また自
分自身にとって制度をより都合のよいものにするために、あるいは制度を逆手にとっ
て、政府に様々な請願・要求を行っていた。
 20世紀初頭にはペナン社会一般に、制度構築・運営に関わろうとして、海峡植民地
やペナン、ジョージタウン市における意思決定の場に代表を送ろうという意識が強
まってきた。ヨーロッパ人で構成されるペナン商業会議所が立法参事会にヨーロッパ
人代表を送り出しているのを見て、華人はペナン華人商業会議所を設立し立法参事会
にペナン華人議員枠を確保しようとした。ペナンのジョージタウンに住むムスリム
は、華人が団体を組織し発言しているのを見て、市政委員会にムスリムの代表を送ろ
うと考えた。またペナンのムスリム全体を組織しうるムスリム協会を設立し、ムスリ
ムと政府を繋ぐ機関を構築する試みや、白人の婚姻登録官にムスリムの顧問官をつけ
るべきだとの要求がなされたりした。華人やムスリムの治安判事の存在を指摘し、カ
トリック教徒ユーラシア人の治安判事も任命すべしとの声も上がった。誰かを排除し
誰かに敵対するためではなく、「あの人たちに与えているものを私にもください」と
いう要求を政府に行うため、「私」が誰かをペナンの文脈の中で認識し、「私たち」
の組織化が試みられ、その存在を政府や社会に認識させようとする中で、民族性の意
識化と組織化が顕著となった。
 この中でコミュニティーの代表をどう選ぶかという問題が持ち上がってきた。多数
決の原理を通じて、コミュニティーが納得する人物を選ぶ試みもなされ始めた。代表
を選ぶ過程で自分達のコミュニティーの構成要素を見直す動きなども見られるように
なった。ペナン・ヒンドゥー人協会では、ヒンドゥー人がヒンドゥー教徒だけでなく
キリスト教徒も含むべきか否かが議論され、誰がヒンドゥー人なのかが新聞紙上で議
論されるに至った。誰が代表にふさわしいのかという問題は、自分たちが何者であ
り、誰が構成要素で、その集団はどうあるべきかという議論をコミュニティー内で活
発化させる背景となった。
 その中で民族横断的な団体も現れた。ジョージタウンの納税者が市政を改善する為
に設立した納税者協会や、海峡植民地におけるペナンの地位向上を目的としたペナン
協会がその例である。

 解放と自立を実現するために、実力行使による既存の制度の転覆を回避できない人
びともいるであろう。一方で、制度にどうアクセスすれば何が得られるかのルールを
認識し、制度とのチャンネルを不断に構築し、自身の意向を制度に反映させようとす
る人びともいる。そのチャンネルが文化的差異に基づく集団ごとに確立されている場
合、集団間の境界線が明確化し、「国民的」なまとまりに欠如しているように見える
ことがある。だがその制度とルールが秩序や自立を保証しうるものであれば、各集団
はそれらの維持に利益を見出し、他集団のことを意識しながらルールと秩序の維持を
共通の目的とするであろう。それによって多様な社会の協調と調和が維持できるかも
しれない。

[コメント]
 インドネシアのナショナリズムは1910年〜1920年代にかけて反植民地主義を発展さ
せてきた。マレーシアの事例は何故違うのか気になっていたため、興味深い内容。外
来系住民がそれ以外の地域とネットワークをつなぐことに注目した。華人・インド人
たちは東アジアや南アジアとのネットワークを構築するのは容易ではなく、東南アジ
アのパトロンとしての受け入れ状況が強調される。ペナンにおける事例をみると、イ
ギリスが海峡植民地を形成して開発した時代。19世紀後半植民地体制確立の時期のせ
めぎあいの時期であると、資料から感じた。外来系住民がナショナリズムの契機とな
ることはよくあるが、これは何故であるかと改めて考えた。(外来系住民は)現地社
会では少数派になりかねない立場として、時代の変化に敏感でなくてはならない。実
際の活動はインドネシアの例では本格的になるにしたがって原住民主導になっていく
ということがみられた。ペナンは、華人が地元の人を引き込んで多数派にする為に活
動してきた経緯が見られる。そして、クリンとヒンドゥー団体がせめぎあう状況もよ
く示されている。ナショナリズムをたたかう、たたかわないにこだわってとりあげる
よりも、移民のせめぎあいの中で丁寧に見ていくと面白いだろう。

[質疑応答]
 辛亥革命や第一次世界大戦時に民族運動が起こらなかったのは何故か?(弘末)→
ペナンの華人はペナンで安寧を確保するために中国の権威を必要としていなかった。
辛亥革命後、ペナンの華人は新政府を熱心に支援したが、それは安全に中国に帰国で
きるよう政情を安定させるためであり、ペナンでの地位向上という動機に基づくもの
ではなかった。第一次世界大戦時、イギリスとトルコが敵対した状況下で、海峡植民
地のムスリム・コミュニティはイギリスへの支持を表明した。その後、海峡植民地政
府はムスリム諮詢局を設立し、両者の関係は強化されたと言える。(報告者)

 今回の発表は植民地のもたらす利潤をエスニシティーでどう分担するかという議論
であったと思うが、ナショナリズムとは反植民地が前提にあるべきであって、今回の
ような植民地の秩序形成をナショナリズムと呼ぶ必要はあるのか?そこにはnationと
いう概念がないから他の用語を使うほうがよいのではないか。(桜井)→ナショナリ
ズムという語を、国家を形成しようとする意識として捉えている。その国家とは現存
する国民国家に限らない。ある国家で特定の民族集団が為政者となっていても、それ
以外の民族集団がその国家を自分の国家であると認識し、その制度の構築に関わろう
とすれば、その民族集団もその国家のnationである。(報告者)

 1)司法制度について、裁判所は誰でも使えたのか。2)代表を送るのは何に対し
てか、受け皿は何か?3)モスクを訪れる人の中に「ヒンドゥー人」とあるが、ここ
で言うヒンドゥー人は誰か?(岡田)→1)法的手続きをふめば誰でも使えた。2)
何に対して代表を送るかは問題の性質によって異なる。ジョージタウン市政委員会や
海峡植民地立法参事会、民族ごとに設置された諮問機関など様々であった。3)先行
研究によると、ムスリムもヒンドゥー教徒も含めた南インド出身者を指すのに「クリ
ン人」や「タミル人」という語が使われたようだが、「ヒンドゥー人」に関しては不
明。(報告者)→クリンはカリンガから来ている言葉でムスリムに限定するのはどう
か。(桜井)→広義と狭義(ムスリムに限定)両方で用いられることがあったよう
だ。(報告者)

 20世紀初頭、政庁に対してものをいうためのチャンネル整備の流れの中で、コミュ
ニティー内部の秩序は変わったか?たとえばイギリスとのかかわり方を利用するもの
があらわれたりするか?(坪井)→本報告の時期においては、チャンネルを整備しよ
うとする人とコミュニティーの主要人物はほとんど同じであった。『檳城新報』と新
たにペナンで発行された中国語新聞がかなり激しい論争をしたことがあるが、中国と
の関係に関する議論がほとんどであった。ペナンにおける華人社会内部の秩序は、本
報告の時期前後10年は、大きな変化はなかったと見ている。(報告者)

 ナショナリズムという言葉を使わない、あるいは新しい定義を与えるほうがよいの
では。(青木)→自前・既存を問わず国家を形成していこうという精神に着目した
い。違う言葉を使うと、違う運動として位置づけることになる。(報告者)

 1)ペナンの政治参加における華人の位置づけを教えてほしい。2)ペナンはマラ
ヤにおいて特殊性を持っていたと思うが、在地の権力が意識されないこの場所をどう
位置づけるのか?(西)→1)華人が先行した運動はあり、活動も活発であったが、
ペナンの状況の中で出てきたものだととらえたい。ペナンの地域秩序にも貢献してい
た。華人は他集団に比べて、制度へのアクセスを得ていた。2)ペナンには在地の権
力はほとんどなく、ペナンがイギリスの植民地であることを承知で来ている人が多
かった。制度にアクセスするチャンネルが民族ごとに構築され、それを通じて政府に
要求を出し、社会における関係性を構築するという点において、ペナンの事例と今日
のマレーシアのあり方に共通性を見出している。だがペナン方式がその他の地域に波
及したというよりは、ペナンで起こったことはおそらくマラヤ地域の多くの場所で、
程度の差はあれ、発生していたのではないかと考えている。(報告者)

 マレーシアのナショナリズムはインドネシアやベトナムのように戦って勝ち取った
ものではないという意味で、ナショナリズムの感じ方の違いを表している発表だっ
た。コロニアルと今の制度の連続性を意識されている気がした。華人は示された資料
からみると他のエスニックに刺激的な存在であったと感じるが、何故他に先駆ける組
織力があったのか。このようなペナンの状況があって現在のナショナルでない状態が
出来上がったのではないか。今日の発表で今のマレーシアの仕組みをペナンに見てい
るのではないかと感じた。(青山)→制度の連続性は意識した。制度をつくってきた
から大きな社会変動がなく、人々の声を届ける体制があって人々が政府とつながる
チャンネルを持っていた。今のマレーシアの仕組みをペナンの中にみているのは指摘
の通りである。華人はかなり制度にコミットしてきたという意味で、今日ある国民国
家形成に貢献してきたといえる。(報告者)

 ペナン華人商業会議所は華人を代表する組織といっていいのか?華人の中でもわか
れていたのでは?(工藤)→主なメンバーはペナン生まれ。イギリス国籍を持ってい
る者や、インドで高等教育を受け英語に流暢な者もいた。だが中国籍で英語が話せな
い人も参加していた。新来移民に対抗すべく、イギリス国籍保持者の団結が図られる
ようなことはなかった。(報告者)

 それぞれのエスニックグループの圧力団体を指摘している点で評価できる。それぞ
れがコミュニティーの言い分を言って対立することはなかったのか?(吉澤)→ペナ
ン協会の場合は、ペナン全体の団結を示すことが有利であると判断した。永遠なる唯
一無二の政治的共同体が形成されることではなく、普段はバラバラでも必要な時に必
要な枠組みの中で協調し合える精神があることを評価したい。(報告者)

ここにあげた以外の点についても参加者の間で活発な議論がなされた。
(文責:上野美矢子・神谷茂子(東大院修士))

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

2005年11月09日

第323回関西例会のお知らせ

2005年11月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2005年11月19日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題1:上田 新也(広島大学大学院文学研究科)
  「制度面からみた黎王朝と鄭氏政権の関係」
話題2:岡田 雅志(大阪大学大学院文学研究科)
  「ベトナム西北地方、黒タイ・ムオンの成立に関する一考察
        −18、19世紀におけるベトナム王朝との関係分析から」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

※非会員の参加も自由です。

2005年11月08日

第193回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第193回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしくお願いいたします。

日時:2005年11月26日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:吉村真子(法政大学)
話題:「マレーシアの開発と労働者:エスニシティ、ジェンダー、
ナショナリティ」

今回は、東京よりマレーシアの経済、とくに労働(女性労働・
外国人労働者など)の問題を専門としている吉村先生においでいた
だきます。吉村さんは、ワーキングマザーでありながら海外でも
ご活躍されていますので、経験談をお聞きになりたい女子院生の
ご来場を歓迎いたします。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

なお、12月はお休みをいただき、1月は28日に桜井由躬雄先生(東京大学)にベトナ
ムでの調査のお話しをいただく予定です。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2005年11月07日

東南アジア研究会(史学会九州地区例会)のお知らせ

東南アジア研究会(東南アジア史学会九州地区例会)のお知らせです。
学会シーズンで何かとお忙しいとは思いますが
ぜひご参加くださいますようお願いいたします。

なお、このご連絡は九州東南アジア研究会会員の方々と
東南アジア史学会会員の方々にお送りしています。
両方の会員になっていらっしゃる先生には
重複してメールが届くと思いますが、どうかご容赦ください。


【記】

日時 12月3日(土)13:00−17:00

会場 九州大学六本松キャンパス本館2F第3会議室
*本館は正門から入ってすぐ目の前の建物、階段を上がってすぐ左が会議室です。
*本館は土曜日は閉まっていますが、開始時間前後は空いています。

開始時間前後には、私か松永先生(九州大学)が門にて
参加者をお待ちします。ただ、開始時間にかなり遅れる方は
守衛さんに一言声をかけ、鍵を空けて下さるようお願いして下さい。
ご不便をおかけしてすいません。

報告者(敬称略)と報告テーマ
乗松 優(九州大学大学院)
「「和解」の象徴としてのボクシング交流:フィリピンの英雄
“フラッシュ”・エロルデに出会った戦後の日本人拳闘家たち」

大形里美(九州国際大学)
「インドネシアにおける民主化とイスラーム」

近藤まり(立命館アジア太平洋大学)
「フィリピン企業のコミュニティ活動」


九大六本松 キャンパスの住所とアクセス方法
(住所)〒810-8560 福岡市中央区六本松4丁目2-1
(地図)http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/access/

終了後に、懇親会(博多地鶏の焼き鳥)を準備しています。
どうか懇親会にもご参加くださるようお願いいたします。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
田村慶子 Keiko T. Tamura
北九州市立大学法学部
Faculty of Law, The University of Kitakyushu

2005年11月06日

東南アジア史学会関東部会11月例会のご案内

関東部会11月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 11月26日(土)午後2時30分より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告 :新井和広(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所非常勤研究員)
題名 :「ある飢饉の記録:南アラビア・ハドラマウト地方と日本による東南アジア占領」


参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区委員 奈良修一

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2005年10月13日

東南アジア史学会関東部会9月例会報告要旨

2005年6月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。
今回は、既に御案内致しましたとおりに、関東例会そのものではなく、日本学術会議東洋学研究連絡委員会公開シンポジウム「――アジア人間科学への道――東洋学とアジア研究――」が開催されましたので、これをもって関東例会に代えました。
 このシンポジウムの報告をもって、関東例会の報告要旨と代えさせて頂きます。

シンポジウム
「アジア人間科学への道」
主催:日本学術会議第1部東洋学研究連絡委員会・財団法人東方学会・中谷英昭教授共同研究プロジェクト「総合人間学」

日時:2005年9月24日(土)13:00〜17:00
会場:東京大学文学部1番大教室(東京大学法文2号館2F)

プログラム
(1)石井米雄(大学共同利用機関法人人間文化研究機構長)「東洋学と地域研究」(東南アジア史学会)
(2)大橋一章(早稲田大学文学部教授)「仏教美術の伝播――中国・朝鮮・日本――」(美術史学会)
(3)蓑豊(大阪市立美術館館長・金沢21世紀美術館館長)「オリエントとは何か」(東洋陶磁学会)
(4)内堀基光(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長)「アジアにおける民族学と人類学:東南アジア島嶼部を中心として」(中谷英昭教授共同研究プロジェクト「総合人間学」)
(5)藤井正人(京都大学人文科学研究所教授)「総合学としてのインド研究のあり方を探る

問題提起:桜井由躬雄
 シンポジウムのテーマを「人間科学、東洋学・アジア研究」にしたが、語感が違う。東洋学は文献中心、アジア研究はフィールドを中心、前者は前近代、後者は現代を中心とすると考えられている。東洋学は文明の普遍性を中心に、アジア研究は、発信を考えず、地域性、個別性を中心にする傾向がある。ここにディシプリンの差がある。
 両者の共通点は、「アジア」であるが、これは地域であり、個性を持った空間である。この個性を地域性(regionlity)とする。自然環境と人文環境の相互作用の経過と結果、この総体を探求するのが人間科学であり、それ故に「アジア人間科学」とする。
 東洋学とアジア研究の違いは、以下の3点に分けられる。
1)文献とフィールド:素材の相違。批判の上に使用。
2)個別性と普遍性→文化と文明:地域性と世界性、対立ではなく、相互的に見ることが可能。
3)受信的、発信的:
 この両者を融合するために「グローバル化とアジア」という特定研究の科学研究費をとり、更に発展させていく計画である。

石井米雄

「東洋学」と「地域研究」

人間科学をフランス語にすると”Le Science de le home”になる。
日本の東南アジア研究は、東洋学として始まり、戦後、アメリカの影響で地域研究が入ってきた。
しかし、ヴェトナム研究に見られるように東洋学の延長としての東南アジア研究が強い。しかし、この文献研究の限界を感じたことがある。その例として『真臘風土記』に「大抵一歳中可三四番収種」とあるが、自然科学者の目から見て、同じ種類のが年に3・4回収穫できるのか、そうでないとすると実態はどうなのか、という対話を受けて目を見開かせられた。あらためて、研究すると、カンボジア稲作の多様性に気付かされた。この地域には、雨季田、浮稲田、乾季田とあり、どこでもいつでも何らかの稲が収穫される。耕作する者は、水の有無を知り、植える稲を選別するのである。これが先ほどの漢文の本来の意味である。
 ここに、「東洋学」と「東南アジア研究」の交流の可能性がある。文献と臨地調査の両方が必要なのである。


大橋一章(早稲田大学文学部教授)

「仏教美術の伝播――中国・朝鮮・日本」(美術史学会)

 法隆寺西院伽藍は現存する最古の木造建築といわれる。本報告の目的は、このような仏教美術(建築や仏像)の源流を探ることである。報告者によれば、日本の仏教美術の伝播の流れは、従来広く受け入れられてきたような、敦煌→中原→朝鮮→日本、という西から東への流れではなく、むしろ、中原から、西は敦煌へ、東は朝鮮を経て日本へ、という中心から周辺への流れであった。
 朝鮮半島を経て6世紀前半に日本に仏教が伝来した後、日本に伝播した仏教美術は、ほとんどそのままのかたちで受容され、当初は「日本化」がほとんど施されなかったことが特徴的である。


蓑 豊(大阪市立美術館館長・金沢21世紀美術館館長)

「オリエントとは何か」(東洋陶磁学会)

 本報告では、美術の世界に焦点を当てつつ、「オリエント」という用語について考察が加えられた。報告者によれば、「オリエント」という用語は、おそらくは植民地主義的な響きを帯びるために、近年、アメリカやカナダにおいては「オリエント」という用語が急速に使われなくなっている。それに比べると、イギリスでは「オリエント」という言葉が相対的にまだ広く使用されているようである。植民地主義の時代以前より、ラテン語の「オリエント」という言葉は、地中海から見て、太陽が昇る方向である東方を指す言葉として使用されていた。「オリエント」や「東洋」という言葉の使い方をよく吟味する必要はあるが、こうした用語の使用を止めてしまう必要はなく、用語に込められたポジシティブな意味合いをうまく生かして使い続けていくことが望ましい。


内堀基光(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長)

「アジアにおける民族学と人類学:東南アジア島嶼部を中心として」(東京外国語
大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究プロジェクト「総合人間学」)

 本報告では、東南アジア島嶼部研究を中心に、民族学と人類学、及びそれらと地域研究との関係について検討がなされた。報告者によれば、人類学者は「村しか知らない」と言われることがあるが、ここでいう「村」を対面的な社会関係が展開する「微小な地域」と捉ええれば、これはむしろ人類学のあるべき姿を表現したものとポジティブに理解されうる。この「微小な地域」とは「地域研究」が言うところの国家の規模を超えた「地域」とは異なる。また、人類学や民族学は歴史学とは異なった、「長時間」「非時間」ともいえる時間的射程をもっている。
 ギアツなどの例外を除くと、東南アジア島嶼部を対象とした人類学研究で人類学全体に大きな影響を与えた研究は少ない。自然人類学と文化・社会人類学との間の乖離は拡大しているが、認知研究や進化研究の分野で接点がある。
 微小地域的な見方と大中地域的な見方は根本的に異なるが、現状では、人類学者の中に、「地域研究」的な人たちと「非地域研究」的な人たちが共存している。


藤井正人(京都大学人文科学研究所教授)

「総合学としてのインド研究のあり方を探る:王権・儀礼をテーマとして」(日本印
度学仏教学会)

 本報告では、王権と儀礼に焦点を当てて、総合学としてインド学の可能性が探られた。報告者によれば、日本印度学仏教学会では、地域研究としてのインド研究とも、宗教学における仏教研究とも異なり、インドと仏教との関連に注目する複合的なアプローチが取られている。報告者個人はヴェーダ研究を行っているが、
共同研究として、古代インドの王権と儀礼を考察している。インド学と歴史学の知見を融合しつつ、王権・儀礼や国家形成という課題に取り組んでいる。古代の国家形成の問題を考えるうえでは、国家の要件の明確化、王権などにまつわる語彙の研究、言語史料と非言語(考古学)史料の両者の活用が必要だろう。こうし
た問題に取り組むうえでは、異なるディシプリンの人たちが同一の史料を読み、意見を交換することが重要ではないか。

文責:奈良修一

本要旨を作成するに当たり、左右田直規先生にお手伝い頂きました。ここに改めて感謝申し上げます。

2005年10月10日

東南アジア史学会関東部会10月例会のご案内

関東部会10月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。
今回はお二人の方の報告がありますので、いつもより早く始まります。

日時: 10月22日(土)午後1時より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告1:篠崎香織(ルクセンブルグ欧亜人文社会科学研究所
      (マレーシア孝恩文化基金ジョイント・キャンパス計画) 客員研究員)
題名 :地域秩序の構築と定住者:20世紀初頭のペナンにおけるナショナリズムの諸相
報告2:相沢伸広(京都大学大学院アジアアフリカ地域研究科)
題名 :スハルト体制の対華人政策 ‐内務省編−

参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区委員 奈良修一


報告内容1
篠崎香織 「地域秩序の構築と定住者:20世紀初頭のペナンにおけるナショナリズムの諸相」

 植民地期の東南アジアに関する研究には、解放を実現する枠組みの一つであるナショナリズムの誕生・発展に着目したものが多い。その際ナショナリズムとは、何らかの領土と結びついた共同体意識に基づき、その共同体が一丸となって植民地統治者や「外来東洋人」を排除し、自らの国家を勝ち取った運動と捉えられることが多かった。
 本論はこれに対して20世紀初頭のペナンを事例とし、地域の秩序がどのように構築され、その中で多様な民族の存在が相互にどう認識され、どのような関係性が構築されてきたのかを論じるものである。当時のペナンでは、多様な人びとが民族としての自己主張を強め、様々な結社や団体を設立した。だがそれは植民地統治者や「外来東洋人」を排除する運動には発展しなかった。ペナンの人びとは、ペナンの社会が様々な出自を持つ人々によって構成されていると認識し、その中で自らが重要な存在として認められるよう民族としての自己主張を強め、結社や団体を設立した。そしてそれらを通じて既存の制度への関わりを強め、その制度を自身の望む方向に引き寄せる試みを行っていた。その中でも、ペナンの外からやってきてペナンに定住した者や、すでに数世代ペナンに定住しているがペナンの外に出自を辿れる者の活動が、特に目覚しかった。
 以上ついて植民地文書や新聞を資料として提示し、ナショナリズムの新たな捉え方を試み、さらに秩序の構築という問題に結びつけて議論する。

報告内容2
相沢伸広 「スハルト体制の対華人政策 ‐内務省編−」

 スハルト体制下のインドネシアにおいては、Masalah Cina(チナ問題:華人・中国・中華問題の総称)について、中国語出版物の禁止や中華系習俗・信仰の制限など、数多くの特別政策・法令が施行された。スハルト政権崩壊後、「差別政策」として非難されているそれらの政策が華人社会に与えた影響について、世界的にも広く注目を集めてきた。ただ、そもそもスハルト政権はなぜそのような法令を実施したのか、その目的や政治・経済・社会的背景についても、具体的にはどのような政策が実行されたのかについても、その全体像は未だわからない部分が多い。
 今回は、この問題について1970年代後半から数多くの法令・政策を施行した内務省、とりわけ内務省社会政治総局に注目する。この部局は、国軍機構と並んで、スハルト体制下において政治的安定・治安秩序維持の屋台骨を支えたことで名高い部局であり、共産主義の制圧と並んで、民族間、宗教間、政党間の諸問題噴出の抑制・統制という最も敏感な問題群に豪腕を振るった。なかでも1970年代後半からは、華人の国民への統合・同化の推進担当局として、「全国の町内会を通じた同化政策」など対華人政策の具体的な実行プログラムの運営に中心的な役割を果たした。
 社会政治総局の公文書をもとに、対華人政策について調査することで、内務省がどのような問題としてこの「チナ問題」を扱い、どのような対応策を模索したのかを歴史的に明らかにする。

2005年10月08日

関西例会10月

東南アジア史学会
 第322回
関西例会のお知らせ

 2005年10月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2005年10月15日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:山本博之(国立民族学博物館)
「植民地末期の英領北ボルネオにおける多民族政党結成運動(仮題)」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

※非会員の参加も自由です。

2005年09月12日

東南アジア史学会関東部会9月例会のご案内

関東部会9月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。
今回は、当日東京大学で、日本学術会議東洋学研究連絡委員会公開シンポジウムが開催されますので、これをもって、関東例会に返させて頂きます。

日時: 9月24日(土)午後1時より
会場: 東京大学文学部1番大教室(東京大学法文2号館2F)
    〒113-0033東京都文京区本郷7−3−1
   (地下鉄丸の内線本郷3丁目下車7分、東大正門より入って右2つ目の建物)

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連絡先 関東地区委員 奈良修一


プ ロ グ ラ ム

総合司会:今井 敦(東洋学研究連絡委員会委員、東京国立博物館文化財部列品課列品室主任研究員)
     林佳世子(東洋学研究連絡委員会委員、東京外国語学部大学助教授)
     桜井由躬雄(東洋学研究連絡委員会委員、東京大学大学院人文社会系研究科教授)
     徳永宗雄(東洋学研究連絡委員会委員、京都大学大学院文学研究科教授)
開会挨拶:池田知久(第19期日本学術会議会員、東洋学研究連絡委員会委員長、大東文化大学文学部教授)
提題:
(1) 大橋一章(早稲田大学文学部教授)「仏教美術の伝播――中国・朝鮮・日本――」(美術史学会)
(2) 蓑豊(大阪市立美術館館長・金沢21世紀美術館館長)「オリエントとは何か」(東洋陶磁学会)
(3) 小松久男(東京大学大学院人文社会系研究科教授)「中央ユーラシア研究の眺望」(日本中東学会)
(4) 石井米雄(大学共同利用機関法人人間文化研究機構機構長)「東洋学と地域研究」(東南アジア史学会)
(5) 内堀基光(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長)「アジアにおける民族学と人類学:
東南アジア島嶼部を中心として」(中谷英昭教授共同研究プロジェクト「総合人間学」)
(6) 藤井正人(京都大学人文科学研究所教授)「総合学としてのインド研究のあり方を探る:
王権・儀礼をテーマとして」(日本印度学仏教学会)
質疑応答・自由討論
閉会挨拶:中谷英昭(東洋学研究連絡委員会委員、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授)

2005年09月06日

第191回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第191回例会を以下のように開催いたします。休日の狭間で
すが、永渕先生による問題提起的発表です。

日時:2005年9月24日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:永渕康之氏(名古屋工業大学)
話題:「いくつもの変容のあとに」

今回は、今後あるべき地域研究・人類学研究・歴史学研究に
ついて、バリ島を主なフィールドとする永渕先生に最近お考
えになっているところを語っていただきますます。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

関西例会9月

東南アジア史学会 第321回 関西例会のお知らせ

2005年9月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2005年9月17日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:北山夏季(大阪大学大学院言語文化研究科)「在外ベトナム人の母語教育について」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室
    ファックス06-6605-2357

※非会員の参加も自由です。

2005年08月02日

2005年6月関東地区例会報告要旨その1

2005年6月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。
(6月は2人の方に御報告を頂きましたが、伊藤毅氏の報告要旨を先にお送りします)


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東南アジア史学会関東地区6月例会
2005年6月25日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
報告者:伊藤毅(一橋大学大学院社会学研究科)
題目:「村から再考する民主主義:インドネシア「改革」時代の国家・社会関係」
コメント:倉沢愛子(慶応義塾大学)

(報告要旨)
 本報告の目的は、民主主義の日常的な意味を西ジャワ州バンドン県に位置するN村
の事例を中心に実証的に検証することである。これまでの民主主義に関する研究は、
民主主義の諸制度に焦点をあてた政治体制研究にとどまってきた。本研究では、民主
主義を諸制度の定着でなく、市民が重要な意志決定過程に参加することととらえ、イ
ンドネシア民主化以降の国家・社会関係のダイナミックな動きを具体的に描写する。
「改革」時代のインドネシアにおいて、国家の社会に対するコントロールは低下した
が、社会による国家のコントロールは依然として困難なままである。村落(N村)単
位の国家・社会関係の変化を分析することで、制度的な変化がこれまで周辺化されて
きた個人・グループのエンパワーメントに至っていないことの要因を探る。
 スハルト大統領の新秩序体制(1966-1998)は、1979年の村落行政法によって村落
を画一化し、行政の末端組織として組み込むことで、国家による管理を強めた。1998
年5月のスハルト体制の崩壊後、ハビビ政権は地方分権化に着手し、1999年5月に地
方行政法を成立させた。1979年の村落行政法と1999年の地方行政法を比較すると、後
者には以下のような特徴がある。㈰村落の多様性を承認、㈪村議会(BPD)設立によ
る村長の権力分散、㈫村財政の自立化等による村落の自治。メガワティ政権による
2004年成立の地方行政法は、行き過ぎた地方自治に歯止めをかけることを目的とし、
村落を行政の末端組織として再編成すること、書記の公務員化などが盛り込まれてい
る。
 報告者が調査を実施した西ジャワ州バンドン県N村は、1983年にW村が二分割されて
成立した村で、住民のほとんどが農民、工場労働者である。地方分権化前後で村組織
に大きな変化はないが、村行政スタッフは高学歴化の傾向にある。1999年の地方行政
法によって成立した村会議BPDのメンバーは、高学歴だがN村のトコー(Tokoh)と呼
ばれるインフォーマル・リーダーでない人々も議員になっているという特徴がある。
村議会の設立は、村長への権力集中を防ぐことを目的としていたが、同時にトコーが
村の意思決定の場から排除されることにつながった。スハルト時代に設立された事実
上の官製組織(婦人会、青年団等)については、スハルト体制崩壊後のN村ではその
機能・目的において大きく変化した。機能が停止した組織は5(18.5%)、事実上機能
していない組織6(22.2%)、名称を変更して機能している組織3(11.1%)、以前と同
様に機能している組織13(48.1%)である。その背景には、上位機関とのつながりが
疎遠になったこと、補助金の廃止などの要因がある。
 「改革」時代において、民主主義の制度は精緻化されたが、住民が開発計画に参加
する権利は持つが参加できない状況にあるなど、制度が意図しない結果を生んでいる
現状がある。村落レベルでは、村のエリートが国家とのつながり(公務員の制服、イ
ンドネシア語の使用、開発プロジェクト)を誇示することで、統治の正統性を獲得す
るというやり方に変化は見られない。これまで周辺化されてきた個人・グループ(特
に村の貧困者、未就学者)は、エリートとの分断を埋めることが出来ないものと理解
しており、政治的な意思決定の場への参加は自らがとるべき行動ではないとし、村落
における自らの役割を受容している。スハルト体制崩壊後も、両者の意識は大きく変
化しておらず、エリート側の意識が一般住民の政策決定の場への「参加」の意識を規
定していると結論づけられる。

コメント:倉沢愛子(慶応義塾大学)
 議論の糸口として、質問・コメントを含め4点を指摘する。㈰村議会BPDの成立
は、村長への権力集中を避けることが目的だったが、興味深かったのはその構造から
排除されたインフォーマル・リーダーであるトコーたちの不満。トコーが村議会に入
れない理由は、年齢かそれとも学歴が問題となるのか?㈪調査を実施したN村の特徴
をもう少し論じてほしかった。㈫村の民主化について、NGOはどう関与しているか?
㈬法改正後の多様性の復活と民主化の活性化について、後者については今回の発表で
データが豊富だが、前者についてはそれが不足している。村のアダット(慣習法)復
活の方向性は、またどのくらいそれは実現しているか?他地域では、村の呼び方が以
前のものに戻った事例もあるが、その点についてはどうか。(倉沢)
 →㈰学歴主義が特徴として挙げられる。しかし、年齢については現時点で十分に把
握していないので、今後の課題としたい。㈪N村の特徴としては、工場への依存度が
高いこと、1980年代になって分割された新しい村であること、都市との距離がバスで
20分ほどと都市から離れていないこと等が挙げられる。㈫NGOが助成金申請のプロ
ポーザル作りなどを指導しており、行政に影響を及ぼす場合もある。㈬調査地では村
の呼び方については、今のところ変化が起こっていない。(伊藤)

(質疑応答)
㈰発表の中で「県・市・郡・村数の増加率(2000−2003年)」データが提示されてい
るが、特に村の増加率が低い。その理由は何か?㈪今回の発表では制度が中心の発表
であり、民主主義そのものについての説明が不足しているように思われた。制度の変
化と住民の意識変化との関係がどのように理解できるか?(内藤) →㈰スハルト時
代にすでに分割されていたこと、補助金問題等が絡んでいる。㈪民主主義の理念とし
ての全員参画は市民の政治的権利として保障されなければならない。その権利が構造
的に阻害されている状況はやはり民主主義の効果がすべての市民に浸透していないこ
とを意味しており、現状が懸念される。

㈰調査地住民の移動、また住民間の階層性はどのようになっているか?㈪村のエリー
トと一般の人とをつなぐ人物は存在するか?(山田) →㈰調査地での人の移動につ
いては、まだ把握していない。住民数で言えば1980年には4000人程度だったのが、
2004年には約7000人と二倍弱の増加となっている。階層性については、資料として提
示した家庭福祉の状況を示すSejahtera指数から特徴をつかむことができ、全体とし
ては貧困層が多い村であるといえる。㈪役人と住民をつなぐ存在としては、経済的有
力者があげられ、またトコーが一役買う場面もある。村役人へのロビー活動を彼らが
行うこともある。
そうした役割を果たす存在として、イスラム指導者についてはどうか?(倉沢)→調
査地はイスラムの強い地域であり、イスラム指導者が住民と役人をつなぐ面もある。

㈰集落という単位に、自然村は残っているか?㈪インドネシアの共同体という枠組
で、スハルト期の住民組織は住民の生活にそれはどう結びついたか?ゴトン・ロヨン
(共同労働・相互扶助)との関わりはどうか?(高田) →㈰集落は基本的には行政
の枠組みであり、自分の村として意識される単位は町内会あるいはカンポンが基本に
なっている。㈪スハルト期には住民組織が政治的に利用され、村のリーダーもそれを
利用してきたが、現在は国家の強い統治力が低下したためにそれがしにくい構造に
なっている。ゴトン・ロヨンについては、村レベルよりも小さいカンポン単位で頻度
は不明だが存在している。

報告の副題にある「国家・社会関係」の国家はどのような意味・単位で用いているか
?報告で使われた住民と市民という言葉については、住民の市民化と考えるか、両者
をイコールと考えるか?それによって民主主義の論じ方が変わってくると思われる。
(左右田)→本報告において、「国家」(State)の単位は、場面によってそれが変
化する。スハルト時代のStateは村落レベルでさまざまな形態(村役場、開発プロ
ジェクト、官製組織)で住民の生活に浸透していた。市民という言葉については、村
レベルの話をする際には、市民=都市のイメージがあるため、住民という言葉を使っ
ている。本報告では「住民」を「市民」と同じ意味で使用している。

ここにあげた以外の点についても参加者の間で活発な議論がなされた。
文責:塩谷もも(東京外国語大学大学院博士課程)

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

2005年07月14日

九州地区研究会のお知らせ(再送)

今年度第二回九州地区研究会を以下のように行います。
以前お送りしたご案内ですが、日程が迫ってきましたので
再送いたします。ご参加の程どうぞよろしくお願いいたします。

*参加費は無料です。

     【記】

日時:2005年7月23日(土)午後2時ー5時

場所:九州大学経済学部 P10(演習室)
住所:〒812-8581 福岡市東区箱崎6丁目10番1号 
*当日は、付近に掲示を出しておきます。

[アクセス方法]
JR 「JR博多駅」→(地下鉄1号線)→「中洲川端駅」下車、
  貝塚方面へ乗換→(地下鉄2号線)→「箱崎九大前駅」で下車
アクセスマップは → http://www.kyushu-u.ac.jp/map/accessmap.html

箱崎キャンパスマップは 
→ http://www.kyushu-u.ac.jp/map/campusmap/hakozaki/hakozaki.html


報告者(敬称略)と報告テーマ:
(1)井口由布 (立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部)
「マラヤ大学設立計画をめぐる考察──技術、知識、植民地主義──」

(2)松永典子(九州大学大学院比較社会文化研究院)
「北ボルネオ」と日本人の関係史に注がれる視点—記憶の再生産の方向性をめぐって

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
田村慶子 Keiko T. Tamura
北九州市立大学法学部
Faculty of Law, The University of Kitakyushu

2005年07月08日

【再送】関西例会7月

先般配信しました、7月例会のご案内について、仮題としておりました報告題目を下記の通り、正式タイトルに差し替えたうえで、再送致します。

東南アジア史学会 第320回 関西例会のお知らせ

2005年7月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2005年7月16日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:桑原季雄(鹿児島大学)「ルンバウにおけるマレーリーダーシップの変遷をめぐる一考察」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室
    ファックス06-6605-2357

※非会員の参加も自由です。

平成15〜17年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))
「不可視の時代の東南アジア史:文献史料読解による脱構築」第 回研究会
 日時: 7月16日(土)関西例会終了後の16:30−19:00
 場所: 大阪駅前第2ビル6階大阪市立大学文化交流センター大セミナー室
 話題: 河野佳春(弓削商船高専)
 ※科研の研究会ですが、参加自由です。

2005年07月05日

2005年5月関東地区例会報告要旨

2005年5月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。


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東南アジア史学会関東地区5月例会
2005年5月28日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
報告者:宮本隆史(東京外国語大学大学院)
題目:「19世紀の海峡植民地における流刑監獄制度:囚人管理のための諸規則に関す
る一考察」
参加者:23名

[報告要旨]
 19世紀の海峡植民地における監獄制度は、インド亜大陸や香港からの囚人の流刑監
獄として機能した1870年以前と、流刑制度の終了に伴い現地住民の収監施設として改
革が行われた以降の時期に二分される。この制度上の歴史は、ヨーロッパにおける近
代的な行刑制度と刑罰思想との影響という文脈の中で理解する必要がある。すなわ
ち、身体刑から懲役刑への転向、強制労働による「矯正」の重視などの諸要素が組み
合わされ、制度化されていったものである。本報告は、流刑監獄として始まった海峡
植民地の監獄制度が、「有益な労働者」の創出から、19世紀後半以降に「社会防衛」
へと課題を移した過程を検証し、制度と刑罰思想がどのように変化し、あるいはどの
ような連続性があったのか考察する。
 海峡植民地の監獄は、18世紀末以降にインド亜大陸の刑務所人口の過密と、新たに
開発されたベンクーレンやペナンでの労働力不足というプッシュ・プル要因により整
備が始まる。制度に関する規定は、1818〜1845年の間に4度にわたり発令・改定が重
ねられたが、それは囚人管理を「生産的」な労働者につくり変え、その労働により
「矯正」するというふたつの企図を軸とするものだった。そのための制度として、囚
人の等級を細分化、階層化し、段階的に「自由」を獲得する階梯が用意された。しか
しその対象となったのは有益な労働者たり得る「健康な成人男性」に限られ、女性や
老齢者・傷病者はひとつの等級にくくられ、「自由」への回路は閉じられていた。つ
まり、体制は植民地建設のために安価な労働力を必要としており、有効な労働力で
あった流刑囚人は、その流れに沿って制度化されたのである。
 1868年に流刑制度が廃止されると、現地囚人の収監施設としての機能が重視され、
独居拘禁が導入された。19世紀半ば以降、移民の流入により自由な労働力が増加した
ため、囚人を「有益な労働者」とする必要性はなくなり、監獄の目的は住民からの隔
離と犯罪再発の防止に移っていった。その背景には、1840年代頃から「ネイティブの
心は改心できない」とする人道的介入の失敗が認識され、危険な人口を収容すること
で、社会を防衛することが監獄の中心課題となっていったことも挙げられる。
しかし報告者は結論として、制度の転換において、断絶よりもむしろ連続性を強調し
ている。ひとつには、「労働による矯正」という考えを基礎とする制度面での連続
性、さらに人道主義という言説レベルでの連続性である。かくして、1872年の監獄条
例では、流刑制度化の等級制度は残り、さらに囚人を正しい品行に導く得点制度が導
入された。つまり新たな監獄制度は、内省に効果的とされたイギリス式の独居拘禁
と、労働による「矯正」という2つの理念備えたのである。ここに、統治のための旧
い制度や言説は、新たな社会経済諸関係の中で、新たな機能を帯びるようになって
いった。このような変容がどのような過程を経て作動するようになったのか、その関
係性を構成したのか明らかにすることが今後の課題である。

[コメント:吉澤誠一郎(東京大学)]
 近代中国における監獄について卒論で論じた記憶をもとにコメントさせていただ
く。1)流刑制度の全体像という視点から説明されたほうが分かりやすかった。場所
的に他の海峡植民地と比較した位置づけや、制度的に刑罰体系において当時の海峡植
民地の流刑がどの程度の重い刑だったかなどの説明がほしかった。2)権力的な人口
再配置、流刑先でのリクルートについて考える必要がある。流刑のエスニシティーな
どの問題について掘り下げてほしかった。3)理念としての刑罰思想のあり方という
ことを考える必要がある。ストレートタイムズ等を用いて刑罰のあり方に対する世論
の議論を見ていくとよい。(吉澤)
 →1)流刑制度の全体像という視点においては、きちんと説明すべき点であった。
刑の重さについては、イングランドでの流刑は死刑に次ぐものである。ヒンドゥー教
徒にとっては伝説上「黒い水を越える」とカーストを失うため、重い刑であると考え
られていた。2)人口再配置との関係について。英領インド内では奴隷貿易が廃止さ
れてから、流刑者が苦力となった。いずれも人道主義が根底にある点では連続性があ
る。3)刑罰思想の理念。囚人の改善と、抑止力であるということでは理論上対立す
るが、実際には両方考えざるを得ない。社会的にいかに作動していたのか、ご指摘の
通りストレートタイムズ等を用いて相互作用を見ていく必要がある。制度の言説を分
析するだけでは足りないので今後の課題としていきたい。(報告者)

[質疑応答]
 女性の流刑が男性と比べて少ない話が出ていたが、女性の流刑にされた罪は具体的
になんだったか。プロスティチュートではないか?(奈良)→殺人であった。程度と
して、プロスティチュート程度の場合は流刑にならない。また、女性の流刑に関して
生産的労働は課されず、労働が明らかにジェンダー化されている。(報告者)→19
Cのジェンダー的労働配分をどう分析するかは問題をはらむが、具体例が見えるとよ
り面白くなる。(奈良)

 歴史社会的に位置づけようとする姿勢を感じた。1)海を越えることによってカー
ストを失うため、ヒンドゥー教徒が流刑を嫌うという記述があったが、イギリス人の
見方ではないか?インド人にとってはベンガル湾のむこうにはいいものがあるという
観念が強かったはずだし、必ずしも流刑によって海を越えることを嫌がっていたとい
うことにはならないはず。インド人側の見方がほしかった。2)近代自由主義的刑罰
と制度の関係は?3)ジェンダー的労働配分の話が出ていたが、この時代に課されて
いた労働について考えると、低開発地域への人口再配置に伴うインフラの整備などで
あり、これらは男性が従事せざるをえない仕事なのではないか?(青山)→1)イン
ド人が実際にどう考えていたのかについては分からない。聞き取りなどで今後とれる
かもしれない。2)近代的刑罰と制度の関係はニートではなかった。はっきり関わる
のは自由刑が現れてから。その同時代性は今回の問題設定のひとつである。3)イン
ドやシンガポールでは女性が道路関係の仕事に従事している。こうした仕事を女性が
やらないということが労働のジェンダー化であると捉えている。女性囚人の位置づけ
は今後の課題としていきたい。(報告者)

 エスニシティーについて。コメントの中で触れられていたが、囚人のエスニシ
ティーの扱い方はどうだったのか。たとえばインドや香港からの流刑者はどのように
扱われていたか。イギリス人は囚人のエスニシティーという点についてどう考えてい
たのか。(坪井)→当時海峡植民地はインドの一部だった為、インディアという概念
が固定せず、流動的であったろうと理解している。具体的には、食事などを見るとビ
ルマ系、中国系、インド系で分けた扱いになっている。監獄内の張り紙の言語は英
語、中国語、ヒンドゥスタン語であった。少なくともこういう具体例においては、囚
人を「エスニシティー」というカテゴリーの中で扱っている。(報告者)

 今回は思想がポイントになると思うが、イギリスの思想を明らかにしたいのか、現
地の影響は視野に入っているのか?相互への影響を考えると、たとえばペナンにおけ
る文書やペナンでの監獄がどのように捉えられていたかという研究はあるのか。(川
島)→相互間影響をふまえてやっていきたいが、今は英文しか読めない為、マレー語
を勉強して現地史料も読んでいくつもりである。(報告者)

ここにあげた以外の点についても参加者の間で活発な議論がなされた。
(文責・工藤裕子・神谷茂子(東大院修士))

2005年07月04日

関西例会7月

東南アジア史学会第320回関西例会のお知らせ

2005年7月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2005年7月16日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:桑原季雄(鹿児島大学)「ルンバウ:リーダーシップの変遷を通してみた地域史」(仮題)


参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

※非会員の参加も自由です。

平成15〜17年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))
「不可視の時代の東南アジア史:文献史料読解による脱構築」第 回研究会
 日時: 7月16日(土)関西例会終了後の16:30−19:00
 場所: 大阪駅前第2ビル6階大阪市立大学文化交流センター大セミナー室
 話題: 河野佳春(弓削商船高専)
 ※科研の研究会ですが、参加自由です。

2005年06月28日

第190回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第190回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

御案内が遅くなりましたが、第190回例会を以下のように開催し
ますので、どうかよろしくお願いいたします。

日時:2005年7月9日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:三木誠(藤田保健衛生大学非常勤講師)
話題:「ボルネオ島の先住民族に関する他者表象と自己表象」

今回は南山大学の森部先生の御協力をいただき、実験的にワークシ
ョップの手法を取り入れてみようと思っております。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2005年06月12日

九州地区研究会のお知らせ

今年度第二回九州地区研究会を以下のように行います。
日程はまだ先ですが、今から手帳に記載していただき、
ぜひご参加いただきますようお願いいたします。

参加費は無料です。

*なおこの研究会は九州・沖縄地区東南アジア研究会と
日本マレーシア研究会(JAMS)九州地区例会(不定期に開催)を
兼ねております。


     【記】

日時:2005年7月23日(土)午後2時ー5時

場所:九州大学経済学部 P10(演習室)
住所:〒812-8581 福岡市東区箱崎6丁目10番1号 
*当日は、付近に掲示を出しておきます。

[アクセス方法]
JR 「JR博多駅」→(地下鉄1号線)→「中洲川端駅」下車、
  貝塚方面へ乗換→(地下鉄2号線)→「箱崎九大前駅」で下車
アクセスマップは → http://www.kyushu-u.ac.jp/map/accessmap.html

箱崎キャンパスマップは → http://www.kyushu-u.ac.jp/map/campusmap/hakozaki/hakozaki.html


報告者(敬称略)と報告テーマ:
(1)井口由布 (立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部)
「マラヤ大学設立計画をめぐる考察──技術、知識、植民地主義──」

(2)松永典子(九州大学大学院比較社会文化研究院)
「北ボルネオ」と日本人の関係史に注がれる視点—記憶の再生産の方向性をめぐって

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
田村慶子 Keiko T. Tamura
北九州市立大学法学部
Faculty of Law, The University of Kitakyushu

2005年06月10日

東南アジア史学会関東部会6月例会のご案内

関東部会6月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。
今回はお二人の方の報告がありますので、いつもより早く始まります。

日時: 6月25日(土)午後1時より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告1:豊田和規(日本ワヤン協会会員、高校講師)
題名 :『プスタカ・ラジャ』に見られるジャワの王権の起源
報告2:伊藤毅(一橋大学大学院社会学研究科)
題名 :村落から再考する民主主義:インドネシア「改革」時代の政府・村落関係

参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区委員 奈良修一


報告内容1

豊田和規:『プスタカ・ラジャ』に見られるジャワの王権の起源

 前回の報告ではスラカルタ王家の宮廷詩人ロンゴワルシトが書き著したジャワ神統記『パラマヨガ』(Paramayoga)を紹介させていただいた。この『パラマヨガ』の続編が大作『プスタカ・ラジャ』(Pustaka Raja)[王の書]である。インドのトゥグル山の天界にいたバタラ・グル(シヴァ神)がジャワに降臨して、ジャワ初代の王としてジャワを統治する。彼はカムラ山の麓にムダン・カムラン国を建設する。続いてバタラ・グルの五人の息子サンボ、ブラフマ、インドラ、ウィスヌそしてバユがジャワの王になる。ジャワの地は五つの王国に分割される。その後、マジャパヒト王国が滅亡するまでヒンドゥ王朝の興亡が繰り返されるが、王位を継承する者は、ブラフマあるいはウィスヌの子孫に限られた。
 イスラム王朝の宮廷詩人であるロンゴワルシトが、ヒンドゥ王朝の興亡の歴史を記した『プスタカ・ラジャ』を書き著した意図は何であろうか。『プスタカ・ラジャ』の記述の中にはマタラム王朝およびスラカルタ王家の支配を正統化するために創り出されたイデオロギーが投影されていると考えられる。『プスタカ・ラジャ』の中に反映されている支配のイデオロギーとは、神王思想である。神王思想とは、天界にいるヒンドゥの神々すなわちシヴァやヴィシュヌ、ブラフマが地上に降臨して王となり、地上の王国を統治するという王権思想である。     本報告では、ロンゴワルシトの集大成ともいえる歴史書『プスタカ・ラジャ』の一部を出来る限り明確に紹介させていただく。そして『プスタカ・ラジャ』の中に見られるジャワの伝統的な王権思想である神王思想を、ジャワの王朝年代記である『ナーガラクルターガマ』や『パララトン』と比較して考察してみたい。今回の報告では、ジャワ文学の大碩学カマジャヤ氏のジャワ語テキストおよびジャワ人研究者プルワディ氏によるインドネシア語テキストを使用させていただく。

報告内容2

伊藤毅:村落から再考する民主主義:インドネシア「改革」時代の政府・村落関係

過去半世紀余りにわたる民主主義に関する研究成果により、次のことに関して相当正確な知識を得ることになった。何が民主主義で何がそうでないか、どのようにして民主主義へ移行するのか、民主主義を醸成する要因は何か、そして、どのようにして民主主義が崩壊あるいは定着するのか。しかしながら、依然として分からないのが、民主化したことにより、市民の生活はどのように改善され、非民主主義体制下での生活とどのように違うのかという問題である。従来の民主主義研究は民主主義を成り立たせる制度やアクターに焦点をあててきたため、民主主義の質そして民主主義の深化に関する研究は未開拓のままであった。本報告はそうした研究途上の領域への学術的貢献を目指したものであり、民主主義の制度の導入により何がどのように変わったのかを実証的に検証する。研究の性格が実証的なものであるため、ここでは報告者が比較的事情に精通しているインドネシアの事例を報告する。インドネシアでは1998年に始まる民主化プロセスの一環として地方分権化が同時に進んでおり、旧システムの抜本的改革が行われている。
 インドネシアにおける民主化・地方分権化の社会的インパクトを考察する際に注目すべき点は、政治制度の変化により国家に従属してきた社会がどれほど自律した領域を拡大することができるのかという点にあるだろう。スハルトの新秩序体制とは、まさしく国家利益を最大限に具現化した政治体制であった。ドナー国からの支援と石油ブームに支えられた新秩序体制は、内務省を中心とした行政機構を全国に整備することで国家権力を強化すると同時に、そのヒエラルキーを利用した全国一様な村落開発を行った。その結果、家父長的な国家と受動的な社会というイメージを固定化することになった。新秩序体制が崩壊して7年、こうした国家・社会関係に、現在どのような変化が起きているのだろうか。本報告はこうして問題意識に立ち、「改革」時代における村落レベルの住民参加、政治制度、住民組織の現状を考察する。
 報告者は民主化・地方分権化がもたらす質的変化を観察するために、西ジャワ州バンドン県のN村を基点として、県政府の地方分権化への取り組みとN村の住民たちの受け取り方を参与観察してきた。本報告では、バンドン県は1999年に地方自治法が成立した直後から積極的に村落問題に取り組んできており、県が構想する村落自治をいくつかの具体的な政策として成立させてきた。そのひとつが、開発計画協議(MPKT)で、これまで市民に閉ざされた県の開発計画の意思決定に市民の参加を促し、市民の声を取り入れた県の開発計画を作成しようという新しい試みである。MPKTは2003年からバンドン県で一斉に実施されたが、N村の村長をはじめとした役人はこれまで通りのやりかたで村の開発議題を決定し、住民もその決定を騒動もなく受け入れた。村の意思決定における住民参加の実現には数多くの障害が残っている。制度が準備されたからといって、住民がそうした制度を自由に利用できるかは全く別の話である。最大の問題は、村役人たちの支配的な考え方に、すべての住民が参加して村の開発議題を決定するという意識が欠如していることである。
 民主化後の村落制度における画期的な変化は、村落議会(BPD)の設立である。村落議会は村長の権力をチェックする機能を持ち、アカウンタビリティが伴った政治を行うことを目的としている。N村の村落議会の議員全員が高校以上の学歴を有し、工場労働者を含めさまざまな職業に従事している。しかし、村落議会は村長と協同する制度として捉えられており、村長と村落議会の間には汚職に近い馴れ合いの慣行がしばしば見られる。N村の村落議会は3年間で18の村落条例を可決したが、いずれもが村落行政に最低限必要なもの(予算関連と村落自治)だけで、斬新なアイディアに基づく村落議会のイニシアティブは認められない。
 スハルト時代、青年団、婦人会、農民グループといった村落レベルの住民組織は、国家目標の実現のために住民を各分野での活動のために動員する役割を果たしてきた。しかし、スハルト後の村落社会は、親父(Bapak)という求心力を失ったため、官主導で始まった一部の住民組織が機能しなくなり始めた。N村では、青年団と農民グループは事実上活動を停止してしまった。青年団と農民グループの活動が停止した直接的な要因には、中央・州・県・郡からヒトやカネが降りてこなくなったことがある。青年団を監督していた情報省が廃止になり、農業指導のために上からヒトが来なくなった。
 こうしたことから、スハルト後の国家・社会関係における変化の点について、次のように結ぶことができるのではないだろうか。すなわち、スハルト体制下において村落レベルの出来事まで監理してきた国家権力は明らかに低下してきている。しかし、このことが必ずしも市民が政府をコントロールするという民主主義の理念の実現を意味しているということではない。市民の政治参加の実現には制度以上の問題が複雑に絡んでいるように思われる。

2005年06月07日

関西例会6月

東南アジア史学会第319回関西例会のお知らせ

 2005年6月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。

   記
日時:2005年6月18日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:見市建(京都大学東南アジア研究所)「出版物から描く現代インドネシアのイスラーム」


参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室
    e-mail:kohdoh@mte.biglobe.ne.jp(岡本弘道)

※非会員の参加も自由です。

平成15〜17年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))
「不可視の時代の東南アジア史:文献史料読解による脱構築」研究会
 日時:6月18日(土)関西例会終了後の16:30−19:00
 場所: 大阪駅前第2ビル6階大阪市立大学文化交流センター大セミナー室
 報告者: 渡邊佳成
 ※科研の研究会ですが、参加自由です。

2005年06月06日

第189回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

昨日の名古屋での東南アジア史学会大会の熱気に刺激されまして、急遽6月の中部例
会を今週の土曜日に開催することに決めました。急なことですがどうかよろしくお願
いいたします。今回は、大学の社会貢献が求められるなかでの臨地調査における地域
とのかかわり、そしてその現代社会における意義を正面から論じる企画です。

日時:2005年6月11日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:馬場雄司(三重看護大学)
話題:「地域とかかわる人類学的営みの意味と意義−タイで、そして日本で」
コメンテーター:赤嶺淳 市民調査の視点から(名古屋市大)
        大橋厚子 開発系の海外・国内実地研修の経験から(名古屋大学)

馬場先生は三重看護大学に勤務されており、保健師さん達と共同の調査もなさってい
ます。日本のフィールドにおける馬場先生の地域の関わり方、それとは異なる保健師
さんの関わり方、さらに馬場先生がタイでのフィールドでの自分の関わり方、感じた
ことをそれぞれ比較しながらお話しいただきます。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2005年05月29日

2005年4月関東地区例会報告要旨

2005年4月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。


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東南アジア史学会関東地区4月例会
2005年4月23日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
報告者:桜井由躬雄(東京大学)
題目:「合作社の時代―バックコック 1960−1981」
参加者:34名

<報告要旨>
 本報告は、報告者が12年間12次に渡って調査を行ってきた、ベトナム紅河デルタの
一地域におけるある合作社の歴史を、インタビューを含む様々な資料・調査方法を用
いて検討するものである。どのように合作社が成立し、運営され、それを主体である
農民がどのように受け止め、行動していたのかを捉えている。この合作社はナムディ
ン省ヴバン県タインロイ社に位置するコックタイン合作社で、ズオンライ村、バック
コック村、フーコック村の3村、8つの生産隊から構成され、人口約3600(約1100戸)
を擁す。ある生産隊の一家あたりの経営面積を平均すると、雨季水田で約1800、畑
地が約240という農業規模である。
 合作社の成立に先立って1957年に土地改革が施行され、この時点で全ての村民が下
位中層化した。この頃の農業生産は、替工組と呼ばれる労働交換組織によって行われ
ていた。59年に人々が配分されて得た土地を再び手放して提供し、替工組を改変する
ことで、集団農業の合作社が成立する。合作社とは、土地と農具が社員の共有とな
り、生産物が労働に応じて分配される生産組織であるが、同時に、行政組織を代行す
る社会組織でもある。その最大の意義は農民の生活向上というより、抗米戦争への準
備、貢献であり、合作社は兵士動員(徴兵が社会的規制の中で行われたため、忌避
は選択肢の外にあった)、抗戦期の農業労働力の確保、内地防衛・後方の確保、
の役割を担った。
 合作社の規模と管理は、初級合作社期(1959−64)と高級合作社(1965−81)で大
きく異なる。初級合作社は、旧ソム(ソムは村の中の集落)の結合を基礎として作ら
れた。各生産隊の下には、ニョムと呼ばれる近隣共同体から成る組織があり、組織は
隊長によって決定された。隊長は労働内容にみあった労働点数をニョムに指示し、
ニョム内で労働配分、労働点数が分配された。どの家がどの労働を担当するかという
労働の配分を、近隣共同体であるニョムが決定することで、最も適当な労働力を便宜
にしたがって配分することが可能であった。
 初級合作社の成立時に関する農民の回想から、「合作社は人民が志願で参加する社
会主義的集団経済組織」であると規定されているものの、実際には合作社への参加に
は地域の社会的規制が働き、また時に強権が発動されたことがわかる。また初級合作
社になったことで、もち米や香米も食べられるようになった、母子家庭は大変助かっ
たといった評価もされている。
 65年には、それまで100戸弱で構成されていた初級合作社が、200−400戸を想定し
た高級合作社に再編された。第1次の統合はすでに61年−63年に起こり、この地域の
合作社は3つに再編され、その後64年には合作社数は同じなまま構成生産隊が組み換
えられ、68年の第3次統合時には、この3合作社はコックタイン合作社1つとなった。
その後10年を経て76年の第4次統合では、この地域を越えた他の2つの合作社とあわさ
り、行政単位タインロイ社と一致した範囲のタインロイ合作社となった。国家が組織
して作った大規模な合作社は、性格が異なり人間関係が希薄な地域を複数統合したこ
とで失敗し、5年後の81年にはもとの地縁組織を母体とするコックタイン合作社へと
戻って現在に至っている。
(ここまでで時間が不足し始め、この先は簡潔に述べられた。)
 高級合作社になった後も、生産隊の下には旧ソムの範囲にほぼ合致するニョム―土
着的な社会主義組織―が存在し続けた。近隣共同体、相互に信じあえる仲であるニョ
ムは、実質的な生産単位として、合作社がいかに改編されようとも時代を通じて存続
してきたのである。この時期の生活は非常に苦しかったが、当時の平等主義を評価す
る人々もいる。
 結論として次のようにまとめられる。合作社は生産増強のための組織であったもの
が、戦争遂行の組織へと変化した。同時に、土着的社会主義組織であったものが、国
家的な集団主義組織へと変化した。この国家的な集団主義である合作社制度と、個人
家族経済の間には、土着的社会主義組織ニョムが常に緩衝材として機能していた。合
作社時代に、人々は過大な戦争負担を耐え、それは75年以降も継続したため、サボ
タージュ、非合作社ビジネスが盛行となり、国家集団主義は解体へと向かう。その時
合作社は、初期合作社へと回帰し、土着社会主義化した。

<質疑応答>
 サボタージュというが、ニョムはなぜその時期になって初めてサボタージュしたの
か。高級合作社時代に管理体制の強化が起こったことと、どう関係するのか。(柳
沢)→ニョムそのものがサボタージュを起こしたわけではない、逆にニョムは流出を
防ぐ作用があり、ニョム制度があまり発達していない地域の方がサボタージュは多
かった。管理体制が厳しくなるのは戦争のための拠出が増加する65年以降。そしてサ
ボタージュが頻発するのは78−79年で、戦時体制の緊張の糸が切れたため。
 サボタージュの時期、75年には前線から多数の兵士が村に戻ってくるという、人力
の供給の問題があったのではないか。(柳沢)→72年頃に老兵が戻る、75年以降も青
年たちは南に留まり、カンボジア紛争・中越戦争に従事する。食糧供出が続くといっ
たことが問題で、人の流れはあまり関係ないと考える。
 合作社に全員参加しなければならなかったのは、村の結束が固かった、戦時動員で
団結が必要だった、人の自由の移動がなかった、などによると見てよいのか。(吉
村)→現在の村の下にある8つの集落ソムは、54年に再編されたもので、もとは15以
上あった。本来結合力が高い集団は、この旧ソムである。さらに、3−15戸のニョム
のレベルは、労働交換組織でかつ婚姻関係にあり、流動的ながらも地縁組織であり、
この伝統的集団が合作社の基礎となった。
 政府は合作社がいかなるものか、どう作るべきかをどのように人々に教育していっ
たのだろうか。(吉村)→県から、字が読める人、小学校へ行っていた人が呼び出さ
れ、3週間ほどの教育を受け、替工組を合作社にするよう指令を受けた。呼び出され
る人は、在地の党幹部が推薦した可能性もある。
 地縁の強さが一貫して強調されているが、ポンプ場建設による割り替えや統合があ
るのに、なぜ地縁の強さが浮かび上がるのか。戦争の存在と何か関係するのか。(広
末)→東南アジアは一般的に流動性が高い地域だが、ここでは日本と近似している。
村落の歴史が長く、集落の配置は設立当初からほとんど変化せず、人が住める場所が
少ないため家族の住地も同様である。商業的要因としては都市の発展が遅く、人の移
動が少ないことが挙げられる。戦禍による移動は47年から起こるが、54年に皆戻って
きてもとの場所に収まる。
 自分が行っているハイズオン省では商業的農業が盛んで、合作社はすでに解体して
いる。ハイズオン省とナムディン省の現状の差には、歴史的な要因があるのか。バッ
クコックはナムディン地域で一般的な例なのか。(岡江)→ハイズオン省などの国道
5号線沿線は港湾の街ハイフォンとハノイの流通経路にのることができるが、ナム
ディンではそれはない。村落手工業もハノイ、ハイフォン周辺の方が発達している。
商品野菜や畜産などの商品作物生産が盛んな地域と自給自足的地域があるが、バック
コックはその中間に当る。デルタのフロンティアには多い形態だと思う。
 ビルマでは地縁より血縁かと思う。地方出身の自分の経験からも、けんかしても離
れられない地縁の結束は確かに重要と思うが。(高橋)→地縁を基盤枠としているだ
けで、隣近所でもその中からセレクトしている。流動的ではあるが、コアは固定的。
 合作社は巨大化してうまく機能しなくなったが、日本では字を超えてもうまくやっ
ていると思うが。(高橋)→現在のコックタイン合作社の範囲も、以前は一つの行政
村・社であった。その範囲ではうまくいっているが、さらに全部で3つの合作社を統
合して大きな組織にした時、生産組織としては非効率であった。行政村としては、こ
の大きな組織はうまく機能している。
 農協の大規模化はどうか。(高橋)→商品作物が少ないので、日本の農協のように
はいかない。
 個人史についてだが、外から戻った人の活躍が目立つが、これはこういう人々を使
用しようとする意図が国家にあったのか、それとも外の知識を入れようとした村の意
図が働いたのか。また合作社幹部は共産党員でもある。サボタージュの時は先頭にも
立つ。どちらにつくかというフレキシビリティはどうしていたのか。(柳沢)→家族
のために働くことは地域の発展につながる。党員はかつての儒教エリートに入れ替
わっている。エリートであるからには地域、村のために頑張るのであり、経済発展と
共産主義がここでは一致していた。
 個別経営になったのでニョムが解体したのか。(岡江)→機能的説明としてはそう
言える。
 ニョムの形成過程に政策は存在したのか。地縁よりも親族の方が近しく思うだが。
(山田)→隊長がすべて把握することが前提であり、ニョムは公的に認められたもの
ではない。調査において表面化してきたのも最近である。遠くの親戚より近くの隣
人。
 土着社会主義では平等化の努力がなされたが、ニョム内のそうした平等には排他性
が働く可能性はないのか。ニョムを超えて平等性を保障する機能を持つものがあった
のか。(国谷)→排他的だったかどうかは不明、今は何とも言えない。しかしこの村
落では公田が多く、分配地の平均化、均質化は非常に徹底している。
 合作社のリーダーに女性がなるなどジェンダーの平等という印象を持ったが、女性
は54年まで学校に行かなかったという伝統があったのでは。(吉村)→文字が読めな
い人と履歴の話をするのは非常に難しく、文字が読めない人が女性には多いため、イ
ンタビューは大変困難であり、不明な点は多い。
(文責:小川有子)

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連絡先:関東地区例会幹事 國谷徹

2005年05月10日

関西例会5月

東南アジア史学会第318回関西例会のお知らせ

2005年5月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。お二方とも6月の第73回研究大会の準備報告となります。


日時:2005年5月21日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題1:菅原由美(天理大学国際文化学部)「19世紀ジャワのイスラム化過程 —ペゴン執筆内容分析から—」
話題2:吉本康子(神戸大学大学院総合人間科学研究科)「チャム・バニの村落社会におけるターン・ムキとポー・アロワッ信仰」

参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室
※非会員の参加も自由です。

平成15〜17年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))
「不可視の時代の東南アジア史:文献史料読解による脱構築」研究会
日時:5月21日(土)関西例会終了後の17:00−19:00
場所: 大阪駅前第2ビル6階大阪市立大学文化交流センター大セミナー室
話題: 早瀬晋三「東南アジア史のなかの西ボルネオ:歴史空間の視点から」
※科研の研究会ですが、参加自由です。

東南アジア史学会九州地区研究会(報告者追加)

5月14日に開催予定の研究会の第三報告者が
確定しましたので、お知らせいたします。
近くにお住まいの方、出張などで九州方面に
いらっしゃるご予定の方は、ぜひお立ち寄りください。
どうかよろしくお願いいたします。

期日  2005年5月14日(土)13:00〜17:00
会場  別府大学(別府キャンパス)32号館多目的ホール
〒874-8501 大分県別府市北石垣82

(終了後に懇親会を予定しています)

【発表者・発表題目】  
細川月子氏(広島大学大学院)「植民地期北アチェのリーダー シップ再考」

平田利文氏(大分大学)「日本とタイにおけるシチズンシップ教育の比較研究」

Dizon,Mary Jane(立命館アジア太平洋大学院)“From the Philippines to Japan:
The Case of (Un)authorized Migration”
  第三報告は英語で行います。サマリーを配布する予定です。

【大学へのアクセス】
●JR日豊本線別府大学駅下車、徒歩10分。
特急利用の場合は、JR日豊本線別府駅下車、上りの普通電車に乗りかえると4分で別府
大学駅に着きます。
●JR日豊本線別府駅下車、亀の井バスで別府大学経由鉄輪行に乗車、別府大学前で下
車、所要時間約20分。
または、亀の井バスで石垣経由国立別府病院行に乗車、別府大学下で下車、徒歩3分。大
分交通では石垣経由亀川駅行に 乗車、別府大学下で下車、いずれも所要時間約20分。
●タクシーの利用は、別府駅から約12分(料金1,200円程度)
●大分空港からは、バスで約40分、別府国際観光港前下車、亀の井バスで別府大学経由
鉄輪行に乗車、別府大学前下車、所要時間約10分。タクシーでは別府国際観光港前から
約5分(料金800円程度)

九州地区理事 田村慶子

2005年05月09日

第188回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

例会を以下のように開催しますので、どうかよろしくお願いいたします。今回は、久々に本格的な歴史研究の発表です。

日時:2005年5月28日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:川口洋史(名古屋大学文学研究科・院生)
話題:「バンコク朝前期における政務処理過程
     —クロム・マハータイ(民部省)を事例として」

川口さんは昨年度文学研究科に修士論文を提出されましたが、今回はその一部を発表していただきます。ご研究はタイ語史料を使用した本格的なものと聞いております。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

2005年05月05日

東南アジア史学会関東部会5月例会のご案内

会員各位

関東部会5月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 5月28日(土)午後2時30分より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告者:宮本隆史(東京外国語大学院生)
題名 :19世紀海峡植民地(ペナン,シンガポール,マラッカ)における流刑監獄制度
―囚人管理のための諸規則を中心として―

参加費:一般200円、学生100円

**************************
連絡先 関東地区委員 奈良修一
nara-shu@mwe.biglobe.ne.jp

報告内容
19世紀海峡植民地(ペナン,シンガポール,マラッカ)における流刑監獄制度
―囚人管理のための諸規則を中心として―
報告者は,19世紀の海峡植民地において,監獄および「囚人」という人間のカテゴ
リーが,植民地の支配構造や,本国および現地社会の諸価値との関係の中でいかなる
歴史的意味をもったかを探ることを研究の目標としている。18世紀末から19世紀後半
にかけて,インド洋の東端に位置する英領植民地は,インド亜大陸からの囚人の流刑
地として機能した。流刑囚たちは当初から植民地公共事業のための安価な労働力とし
て導入され,初期植民地の建設に不可欠な存在であった。そして,流刑監獄は囚人を
「有益な労働者」へと「矯正」するための制度として整備されてゆくことになる。し
かし,老齢者,傷病者,女性など,「有益な」重労働に適さないとされる囚人たち
は,監獄制度の中で,「矯正」不可能な対象として配置されることになった。本報告
では,特に海峡植民地の流刑監獄における囚人管理のための諸規則に焦点を当て,植
民地体制が囚人をいかに把握しようとしたのかを考察する。

2005年04月30日

東南アジア史学会九州・沖縄地区研究会のお知らせ

以下の要領で九州・沖縄地区研究会(東南アジア研究会を兼ねる)をSEAF研究会(中四国支部)との共催で開催いたします。ご都合のつく方はぜひご参加ください。
                 
期日        2005年5月14日(土)13:00〜17:00
会場        別府大学32号館多目的ホール
発表者・発表題目
細川月子氏(広島大学大学院)「植民地期北アチェのリーダーシップ再考」
平田利文氏(大分大学)「日本とタイにおけるシチズンシップ教育の比較研究」
※もう一人立命館アジア太平洋大学の院生の発表を予定していますが、今のところ未定。

懇親会研究発表会終了後、居酒屋にて計画しています。
宿泊所各自でおとり下さい。

参加される方は別府大学の利光正文先生
(toshi@mc.beppu-u.ac.jp)までご連絡下さい。
よろしくお願いいたします。

九州地区理事 田村慶子

2005年04月04日

第187回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第187回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしくお
願いいたします。今回は、新入生のための、地域研究と環境問題
にかかわる入門講義を企画いたしました。学生の皆様にアナウン
スをよろしくお願いいたします。

日時:2005年4月23日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html
話者:赤嶺淳氏(名古屋市立大学)
話題:「地球環境主義から地域環境主義へ—
              開発・環境保全と地域研究」

赤嶺さんといえば、東南アジアのナマコの研究でおなじみで
すが、今回は、このナマコを題材に開発の進む東南アジア海
域で、開発問題の解決に地域研究がなしえる貢献についてお
話しいただきます。環境問題、開発、そして地域研究に関心
のある学生さんにはまたとない機会だと存じます。
皆様多数の御来場をお待ちしております。

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2005年04月03日

東南アジア史学会関東部会4月例会のご案内

関東部会4月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 4月23日(土)午後2時30分より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告者:桜井由躬雄先生(東京大学)
題名 :国家集産主義と村落社会主義、ー1960年ー1981年のベトナム農村

参加費:一般200円、学生100円

**************************
連絡先 関東地区委員 奈良修一

報告内容

国家集産主義と村落社会主義、ー1960年ー1981年のベトナム農村

ドイモイ開始から19年、社会主義ベトナムのイメージは遠くなった。しかし、それは国家集産主義としての社会主義の崩壊であって、農村レベルでの土着的社会主義伝統はなお強固であり、それが社会の安定性に大きく寄与している。では、前ドイモイ期の社会主義の実践そのものであった合作社は、いかなる経営が行われ、いかなる生活があったのか。バックコック研究12年の成果の中から、北部ベトナム社会主義の実態を考える。

2005年03月30日

2005年1月関東地区例会報告要旨

東南アジア史学会関東地区1月例会
2005年1月22日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
出席者:27名

ミニシンポジウム「東南アジアの近代正書法」

基調報告:石井米雄「東南アジアにおける正書法と国民国家の成立」
[報告要旨]
 本報告は、今回のミニシンポジウムの基調報告として、正書法(orthography)を考
えるときに何を考えなければいけないかという論点を提示する。
 正書法は綴りのことではなく、「正しく書く」つまり「正しさ」が問題となる。そ
こで「正しさ」と何かということが議論になる必要がある。正書法の確立は、近代統
一国家成立と国語の成立と関わってくる問題である。
 例えばタイにおいて、二つの政権がある場合、どちらが正しいかという選択が正書
法の問題に入り込むこととなる。近代統一国家成立以前、もしくは成立しつつある時
期のタイの地方文書を見て行くと、ある種の枠はあるものの綴りに揺れがあるのが見
てとれる。インドネシアでは、日本占領後にオランダ語が追放されて日本語が教えら
れ、また、インドネシア語が普及する。1940年代以降、インドネシア語の普及に伴い
辞書の編纂が行なわれていく。
 正書法の制定者はだれかという問題を考えると、例えばイタリアではフィレンツェ
にAccademia della cruscaという知的グループができ、1612年に最古の辞書を作成し
ている。フランスでは1635年にアカデミーフランセーズが設立され、1694年にフラン
ス語の純化を目指す辞書が刊行される。イタリアとフランスではアカデミーが正書法
制定に携わったことが分る。
 タイにおいては国家が担い手となり、教育省が1891年に『タイ国語辞典』を編纂す
る。1927年には教科書局によって『タイ語辞典』が編纂される。日本では1934年に国
語審議会が発足した。タイと日本は国家が正書法に関わっている例である。
 イギリスを見てみると、18世紀半ば頃にはイタリアのアカデミーの存在は知られて
おり、フランスの状況も知られていたが、両国のようなアカデミーの存在はなかっ
た。1755年にサミュエル・ジョンソンが中心になって辞書が作成された。また、ドイ
ツのDuden、アメリカのWebster等は出版社が正書法制定を行なっている例である。イ
ギリス、ドイツ、アメリカの例は、ある学問的権威が正書法に携わっているものであ
る。
 以上見てきたように、先ずは国語の確立と国語の表記を誰がやるのか、という問題
を考える必要があることがわかる。そして、正書法つまり不統一を統一するという作
業の中で矛盾が生まれ、改定の問題が起こる。「正書法」が改定されるには、変わる
方向があることが指摘できる。
 正書法の改定について、ドイツでは1999年にはphがfに変えられる等の改定があ
る。また、つい数年前にも、大文字で書いていた名詞を小文字にすることを決めた
が、反対も起こっている。また英語の事例としては、doughnut(英)、dounut
(米)のように、同じ単語でも綴りが定まっていなかった例がある。また、nightを
niteとふざけて書くような場合もある。
 タイでは、ピブンが[ai]の母音に対応する文字二つを一時期一本化したことがあっ
た。またタイ語にはsの音に対応する文字が5つあるが、やはりピブンが無駄な使用し
ない文字はやめてしまおうと一本化したことがあった。この例からは、誰がどういう
方向に正書法を決めたかという問題点が指摘できる。また、地方文書においては様々
な綴りが使用されている例が多く見受けられるが、これも現在では正書法が定められ
ている。正しさを多くの人に使ってもらうためには簡単な方がよいという改定の方向
性が見られ、中国の簡体字も同じような例である。しかし、ピブンが行なったような
正書法改定は語源を無視したことになるという問題が出てくる。
 その他の改定の例として、英語のadmiralという単語の例をあげると、もとは
amiralという綴りであったものを、ある知識人が間違って「これはラテン語の
admiraleだ」と発言したことから、それが正しい綴りになってしまったものである。
正書法の決定には時々このような突然変異が起こり、正しい方向にばかりいくのでは
ないことも指摘される。
[コメント及び質疑応答]
「ヨーロッパではアカデミーや辞典出版社が正書法に携わっていたということだが、
日本の国語審議会のような国家関与は何に淵源があるのだろうか。日本、中国、イン
ドネシア、ベトナムでは国家が規定する綴字が正書法になっている。アジアにおける
正書法とヨーロッパにおける正書法は違うのではないか。正しさの権威が国家にある
国とそうではない国があるのではないか」(桜井)
Q.「地方文書を見ていくと、正書法は必ずしも国家と関係がないのではないか。これ
が正しいと言った人が正しいとされる場合がある」(川島)−A.「しかし、例えば子
供の言葉遣いの間違いを指摘する人は何を『正しさ』と捉えているのか。必ずしも国
民国家と結び付けて考える必要はないが、『正しさ』というものがあることが前提に
なる。タイのアカデミーができる前は正書法には揺れがあった。そのような状況の
中、タイのサンガはパーリ語だけで文章を書いており、タイ語を書くチャンスは少な
かったが、タイ語への翻訳の際に規則はあったことから、『正しさ』の権威があった
ことは考えられる」
Q.「正書法は綴りの問題ではないと指摘されたが、何が正しいかというポイントは誰
が正しさを判定したか、なぜそう判定したか、ということになるのか」(押川)ーA.
「その点が重要になる」
Q.「orthographyの“ortho”は権威と正統性の二つの意味を持つと思われるが、この
二つは区別して考えるのか。権威は外から決められるものだが、書く人自身が『正し
い』と感じる場合はどうなるのか」(桜井)ーA.「正書法は共時的な議論であり、権
威と正統性は区別しない」
「フィリピンでは国家というものが存在しない時期、複数の権威が存在した。また、
アジアとヨーロッパの区別はそれほどする必要はないのではないか」(川島)
「nationとstateを分けて考えた方がよいのではないか。サミュエル・ジョンソンは
個人とはいえ、『これがEnglishだ』という意識のもとで辞書編纂に携わったと考え
ることができるのではないか」(青山)

第一報告:奥平龍二「ビルマ(ミャンマー)語の正書法について」
[報告要旨]
 本報告は、ビルマ語の綴字法典と正書法典編纂の流れを分析したものである。ビル
マ語は現在でも言文一致でなく、発音と綴字の違いは国内においても大きな問題であ
る。本報告では、綴字法典編纂と正書法編纂への動きの背景には仏典の解釈の問題が
大きく関係を持つことが示唆される。
1.ビルマ語文字の変遷
 ビルマ文字は西暦11世紀までに確立されたと考えられる。サンスクリット語、パー
リ語、モン語、ピュー語と接触し文字を選択していっただけでなく、ビルマ語独自の
母音に対応する文字も作られた。
2.ビルマ語綴字法典の編纂と活用の歴史
 パガン時代から綴字法典は存在し、タウングー時代のタールン王(1629-1648)はビ
ルマ語の綴字に大きな関心を持っていたといわれる。マハーダンマヤーザディーパ
ティ王(1733-1752)治世、Wannabodhana That-inという綴字法典が編纂される。さら
にコンバウン時代には多数の綴字法典が編纂された。
3.ビルマ語正書法の標準化
 以上のように多数の綴字法典が編纂されてきた中で、ビルマ語正書法の標準化が行
なわれていく。パガン、ピンヤ時代の初期の諸王は文字の区別と韻の正しい綴りを遵
守したが、タウングー時代末期まで正書法の標準の性格については不明である。ただ
し、これらは石碑文などの信憑性の高い文字資料により推測し再構築が可能である。
 現代のビルマ語辞典(1991)及び英緬辞典(1993)に例証される正書法以前のビルマ語
正書法にはいくつかの改革がある。しかし、ひとたび書き方が確立されると、その後
の発展の歴史は改革の連続体に過ぎない。
 第一期(Old Written Burmese)として12〜13世紀が想定される。ナラパティスィー
ドゥー王(1174-1211)の即位後に正書法の標準化が起こったと想定される。この時期
は、それまでのモン語中心からビルマ語が使用されるようになった時期である。
チャースワ王(1234-1299)の要請により、最初のビルマ語綴字法典が編纂された。
 第二期(Middle Written Burmese)の15世紀末には、一つの標準的正書法として15世
紀始めに編纂されたThatbinnyanan-kci-thatpounという綴字法典の権威を後代のイン
ワ諸王が承認した。古い書き方におけるlの文字がrまたはyに変わる等の変化が起こ
り、15世紀末頃に完成する。
 第三紀(Early Modern Written Burmese)は19世紀末〜20世紀前半と想定される。
1878年、ビルマ最後のティーボー王(1878-1885)の命により、28名からなる正書法検
討委員会が開催され、綴字の標準化問題が討議された。既存の18種類の綴字法典を標
準的正書法典として公認した。ここでの最も決定的な変化は、介子音の口蓋化及び長
母音と短母音の母音符号の厳密な区分、第2と第3声調記号の明確化である。
 英領植民地時代の正書法に関しては不明だが、恐らく教科書委員会という一つの権
威による正書法の規定が行なわれていたと推測される。
 第四期(Modern Written Burmese)は独立後〜現代と考えられるが、ビルマ語正書法
は既におおむね第三期のEarly Modern Written Burmeseで完成されており、あえて区
分する必要性はない。新設ビルマ語委員会のもとで、綴字の若干の修正、既存のもの
の手直し程度が行なわれる。
4.伝統的綴字法典の特徴
 伝統的綴字法典の特徴は、まず、学識者個々人による「正書法」編纂の試みがパガ
ン時代以降コンバウン時代末期まで行なわれてきたことである。もう一つの特徴は、
国王の「正書法」問題への関与である。王室顧問官が推薦する複数の綴字法典の中か
ら最終的に王が1〜2の異なる形式の法典を「正書法典」として選択し権威付けていた
ようである。しかし、最終的な一つを選ぶところまではいかなかった。特にコンバウ
ン時代のバドン王は綴字法典に関心を示し、綴字の間違いは最終的には仏典の語句の
解釈、仏教の理解に支障を来たし、人々の不幸を招来すると詔勅の中で述べている。
5.近代正書法の成立
 ネーウィン政権時代(1962-1988)、政府・教育省によって正書法の成立が進められ
た。ネーウィン自身が1964年に「『書く時は正しい綴りで書き、読む時は発音通り
に』という伝統的な規則は困ったことだ」と発言しており、辞典・正書法委員会が結
成されて「正書法」編纂が開始されている。その後、組織は数回にわたって改編し、
正書法典編纂へのステップが踏まれてきた。
 これら編纂の基本理念は、a.伝統的文字の保存、b. 信頼できる参考文献、c.明白
な由来と明確な意味、d.使用頻度の多さの4点である。しかし、「規定書」としては
未だ定まらず「指南書」であるに留まっていた。
 この「指南書」から「正書法」の編纂が意図され、1980年代以降検討会が開催され
た。1981年のネーウィン社会主義計画党総裁の訓話では「『書く時は正しい綴りで書
き、読む時は発音の慣例に従って』を厳しく遵守すべし」とあり、先にあげた1964年
の訓示と矛盾した発言がなされている。
 正書法の編纂過程では、僧侶・一般人からのアイディアやアドバイス及び批判に照
らし合わせて、全国民が一致して遵守できる法典が目指される。
 現政権下(1988年以降〜現代)の正書法と辞典として、政府・教育省ビルマ語文協
会によって1991年以降の『ビルマ語辞典』が編纂され、『緬英辞典』がそれに続く。
1996年には『綴字法典』が出版されるが、これは改訂の余地をまだ含んでいる。
(おわりに)
 以上、ビルマ語の綴字問題には伝統的に公的機関・王が関与し、その背景には仏典
をきちんと読むためには間違った綴りは仏典の理解に支障をきたすという意識が見ら
れる。1986年の正書法典をもって国の統一的な正書法とされているが、改訂の余地が
まだある。また綴字法は辞書作りにも関わり、未だ「正書法」の決定版は出ていない
という状況である。ビルマでは古きにたずねる傾向があり、綴字法典の作成も、現代
に合わせることが志向されつつも、古いところを参照している。このことは、今にい
たるまで言文一致が生まれない理由ともなっている。また、正書法と国民統合との関
係はあまり触れられず、国民統合の面から綴字法典の編纂、正書法への動きをどう見
るかは今後の課題である。ビルマはパーリ化した地域であり、文化的なアプローチや
言語学的に見て行く必要もある。
[質疑応答]
Q.「王朝時代に、王が正書法に関心を持ち、また仏典とのかかわりがあったというこ
とだが、他方で世俗または散文の面では、当時の知識人たちが関心を寄せていたとい
う資料はあるか」(岩城)−A.「綴字法典の編者はほとんど王室と関係ない学識者や
僧侶であり、一般的にも正書法に対して関心があったのではないかと考えられる」
Q.「バドン王時代にナーガリ文書をビルマ語に翻訳したとのことだが、ナーガリ文字
とは何語だったのか」(青山)−A.「デーバナーガリ文字を指し、サンスクリット語
だったのではないかと考えられる」
Q.「ティーボー王時代に王室内の正書法関係検討委員会が王に提出した36点の綴字法
典から最終的に18点が選ばれたとのことだが、18点とは18の綴字のシステムが存在す
るということか、それとも18点で一つのシステムを構成しているということか」(青
山)−A.「全ての綴字が異なるシステムが18点存在するということではなく、異なる
法典間では同じ綴りの単語も含む。どれか1点のみが採用されるという形ではなく、
この18点を比較照合しながら使用するという形が取られた」
Q.「1980年代以降については、正書法の議論というよりもかなりの部分が語彙の議論
になっているのはどういうことか。ビルマ語において語彙の問題を考える必要がある
ということか」(青山)−A.「ビルマ語には同音異義語が多く、綴字は語彙の問題に
関係する。ビルマにおいて正書法は未だ確立しておらず、そのため綴字の問題として
論じる部分が多くなる」
「18点の綴字法典のどれでもよいということになれば、正書法にならないであろう」
(石井)
「複数の辞書があって、そのどれを使用してもよいという意味だろうか」(桜井)
「しかし、バドン王時代に、綴字の間違いを犯した者は国務院にて刑罰に処すべしと
王の勅令にあるくらい厳しいとなると、18点も綴字法典があったら不都合なのではな
いか。そこで言う『間違い』の定義は何なのか」(石井)
(文責:井上さゆり)

第二報告:菊地陽子「東南アジアの「近代正書法」:ラオスの場合」
[報告要旨]
1. はじめに
 ラオスでは、現在まで何度か正書法体系の改訂が行なわれており、現在の体系が全
国的に知られるようになったのは、ここ20数年のことに過ぎない。現在でも、各人の
好みや世代によって表記にばらつきがある。また、ラオス文字が表音文字であるた
め、発音の変化に影響されて正書法が揺れやすいという特徴が指摘できる。
 ラオス語は、タイ・カダイ語族タイ諸語南西タイ語群に属する言語であるが、その
詳細な文字史は不明である。現在では、基本子音字27文字と基本母音記号28種類、お
よび声調符号4つを用い、原則として1音が1文字ずつに対応する表音文字である。
2. ラオス語正書法体系確立の沿革
 ラオス語の表記をめぐる問題の発生は、1918年1月10日にフランス植民地政府のル
アンパバーン弁務官メリエールがラオス文字に替わってシャム文字を採用することを
提案したことによる。同年8月4日には「ラオス語の表記体と正書法を確定する委員会
(ノルドゥマン委員会)」が開催されたが、ここではシャム文字の採用に反対するレ・
キ・フォンやペサラートの主張に対する検討がなされ、結果的にシャム文字の採用は
見送られた。同様の委員会は1923年10月23日、1929年10月1日にも開催されたが、そ
の結果についてはよく分からない。この間、1926年には理事長官布告においてラオス
語による教科書の作成が指示されていたようであり、教育問題への関心から正書法の
問題が発生していたことがうかがえる(教科書は1932年に出版された)。
 次いで1932年には、ペサラートを会長とする仏教協会が独自にラオス語正書法の確
定を行なった。ここでは、ラオス文学研究を刷新し、仏教聖典の理解を容易にするこ
とが目的とされ、既存のラオス文字に14の新しい文字を付け加えることで、サンスク
リットやパーリ語の語源が明確に判別できるような表記法の確立が目指された。しか
し、この正書法が教育や一般社会において使用されることはなかった。
 1937年7月21日、植民地政府のラオス教育長官テュリーが新たなラオス語正書法検
討委員会の組織化を提案し、翌年、「ラオス語表記体及び正書法確定推進のための委
員会」が実施された。同委員会では、教育の普及を重視する立場からできるだけ簡単
な正書法を主張する意見と、仏教協会方式の正書法を主張する意見の間に対立が見ら
れたが、1938年10月にはできるだけ簡素化された正書法が委員会で承認され、これに
従って39年8月9日、理事長官布告によってラオス語の正書法が制定された。ただしこ
こでは、仏教協会や仏典においては仏教協会方式の正書法を用いてもよいとされてい
た。しかしこの正書法も、そもそもの識字率の低さや出版活動の未発達などの理由に
より、あまり普及しなかった。
 一方で、ラオス語のローマ字化を推進しようとする動きが高まっていた。1942年9
月1日の『ラーオニャイ』新聞において、習得のしやすさ、フランス語を学ぶ際にも
有利であることなどの理由からローマ字化推進の主張がなされた。43年にはインドシ
ナ総督ドクーやジョルジュ・セデスなどもローマ字化推進の意図を表していた。ロー
マ字化が支持された理由としては、ラオス刷新運動の一政策としてタイの文化的影響
を遮断する効果が期待されたこと、子供たちの教育に適しているという点でラオス人
エリートたち(例えばスパヌウォン)の支持を得たこと、が指摘できる。ただし、ペサ
ラートのように、ラオスの文化価値が損なわれるという理由からこれに反対する意見
もあった。44年6月にはローマ字化の方法が確定したが、その決定直後に日本軍が侵
攻したため、結局採用されずに終わった。
 独立後の王国政府は、47年に憲法においてラオス語をフランス語と並ぶ公用語と定
め、翌年には「ラオス語正書法の基本的規則協議のためのラオス文字委員会」を開催
した。翌49年には、国王令によって「発音どおりに綴る」、すなわちできるだけ簡素
な正書法を原則とすることが規定された。51年に設置されたラオス文学委員会でも正
書法の議論がなされ、ここでも「発音どおりに綴る」のがラオス語の伝統である、と
の見解が出された。しかし、同時期の教育言語がほぼフランス語だったこともあっ
て、統一された正書法体系が普及するまでには至らなかった。
 一方パテート・ラーオにおいては、1967年にプーミが『ラオス語文法』を著し、音
と文字を一対一で対応させるという原則に基づいて正書法を作った。以後、解放区に
おいてはこの正書法を用いた教育が行なわれると同時に、識字運動が推進された。
 現政権成立後は、全国においてプーミの正書法による識字教育が行なわれた。1994
年には教科書改訂委員会が正書法の統一を行ない、2000年にはプーミの文法書を改良
した『普通教育用 現代ラオス語文法』が出版された。ただし実際は、現在でも世代
によって表記法がばらばらなのが実情である。
[質疑応答]
Q. ルアンパバーン方言ではaiとauの発音を区別するが、これが正書法に採用されな
かったのはなぜか(園江)→A. この点についてはほとんど議論された形跡がない。
Q. 僧侶及び仏教が果たした役割はどうであったか。彼ら自身も彼らなりに近代への
対応を模索していたはずであり、そうした動きの影響はなかったか。また、仏典の記
述についてはどうであったのか(笹川)→A. マハーシラー及び仏教協会を除いて
は、フランス史料を見る限り目立った動きはない。ラオスでは仏典をタム文字で書い
ていたため、ラオス文字は一般教育だけに関わる問題と見なされたのかもしれない。
Q. 表音文字であることが問題というより、「発音どおりに綴る」という原則を立て
たことが問題であると思われる。様々な発音と表記のずれを統一することが問題と
なったと思われるが、時代による発音の変化が問題となることはなかったか(川島)
→A. 特に問題とされたのは、タイ語の発音の影響。

第三報告:舟田京子「マレー語の近代正書法」
[報告要旨]
1. 近代以前の文字
 マレー語(インドネシア語)の場合、近代以前に数種類の文字が使用されていたこと
が特徴の一つである。まずパラワ文字があげられるが、これは3〜5世紀頃に使用され
た、南インド・スリランカの文字に類似する前期パラワ文字と、7〜8世紀に使用され
た、カウィ文字に類似する後期パラワ文字に分けられる。前者についてはカリマンタ
ンのクタイの4世紀頃の碑文やジャワのタルマの4世紀末-5世紀の碑文が知られる。後
者については、683年のスマトラのクドゥカンブキット、686年のバンカ島のコタカ
プール、732年の中部ジャワのチャンガルなどの碑文がある。
 ジャワ語の文学や宮廷においてはカウィ文字が使用された。前期カウィ文字につい
てはスマランの750年の碑文などが知られる。後期カウィ文字は925年から1250年まで
の間に、大部分が東ジャワで発見されているが、バリ、スンダ、スマトラのごく一部
にもみられる。
 その後、13世紀のイスラム教の本格的到来以後、ジャウィ文字が用いられた。ブル
ネイで1048年の墓石、クランタンで1161年の墓石、アチェで1297年の墓石が発見され
ている。ジャウィ文字については、マレーシアでは現在まで一部で使用されており、
1938年にZa'baがその表記法を整備し、1949年に“Daftar Ejaan Melayu”を出版し
た。
2. 近代以降の綴り
 マレー語を初めてローマ字で表記したのは、1521年に来航したイタリア人アントニ
オ・ピガフェッタである。彼は会話をもとに書き取った約426語の単語集を作成した
が、ここでは(現代の表記と比較すると)語末のt、kや弱音のhが表記されない、eがa
に、rがlに、kがchに変わるなどの特徴がある。
 その後、1596年に来航したオランダ人C. de Houtmanも会話から単語を書き取り、
これが後に出版されたが、ここでの表記法はピガフェッタよりシステマティックでな
く、fがvに、wがvに、dhがddに変わるなどの特徴がある。
2-1. インドネシア国内
 その後、1608年にF. de Houtman、1623年にC. WiltensとS. Dancaert、1653年に
J.Romanなどのオランダ人が会話からの聞き取りをもとにした単語集・辞書を作っ
た。Romanの綴りには、syaをsja、uをoeと綴るなど、一部オランダ語の影響が見られ
る。
 1901年、オランダ植民地政府の依頼を受けたvan Ophuijsenがマレー語の綴字法を
作成した(オップハイゼン綴り)。これが、インドネシアにおける多少なりとも統一的
な綴字法の始まりであり、植民地政府の文書などにおいて使用された。ここではオラ
ンダ語綴りの影響が大きく、uがoe、syがsj、jがdj、yがjなどと表記された。
 1938年、民族運動の流れのなかで第1回インドネシア語会議が開かれ、新しい綴り
が提案されたが、日本軍占領により中断し、独立後、これを引き継いだ教育文化相ス
ワンディを中心とする委員会が、1947年に新しい綴りを作成した。ここではオップハ
イゼン綴りを基本としつつ、非合理的な箇所が改善され、oe→u、'→kなどの変更が
なされた。
 1954年には第2回インドネシア語会議において教育文化相モハマッド・ヤミンが新
綴り作成の決定を下し、これに基づいて57年に改新綴りと呼ばれる綴りが作成され
た。ここでは1音1文字の原則が採用され、合理的かつ学術的な文字が目指されたが、
その成果が公表されるにはいたらなかった。
 1959年、インドネシアとマレーシアの友好条約が結ばれたのを受けて、スラメット
ムルヨノ、シェッド・ナシール・ビン・イスマイルを中心とする委員会が結成され、
両国の統一綴りの作成作業が開始された。この背景には、独立直後のマレーシアにマ
レー語の専門家が少なかったため、マレー語の国語化にあたってインドネシア側の協
力を期待したということがあった。この新しい綴りはMelindo綴りと呼ばれたが、新
綴りを発表する前にマレーシア対決が起こり、国交が断絶したため、発表にいたらな
かった。
 その後もインドネシア国内では教育文化省言語・文学局において綴りの改善が進め
られ、1966年にLBK(言語・文学局)綴りと呼ばれる新綴りが制定された。翌年2月21日
にはマレーシアでもLBK綴りが承認された。しかし、インドネシア国内では反マレー
シア感情からLBK綴りへの反発が大きく、またアラビア語起源の綴りを改定すること
に対しても反対があり、受け入れられなかった。
 とはいえ、政治、経済、教育上の理由から両国の綴りの統一の必要性は高まった。
1972年、プンチャックで開かれたインドネシア語セミナーでこの問題が検討され、同
年5月23日には両国が共同コミュニケを発表して、言語・教育面での協力を宣言し
た。同年8月16日、「完全インドネシア語綴り」が発表され、12月29日には両国共同
の言語審議会(MBIM)が設立された。同審議会は、綴りだけでなく語彙の統一も目的と
し、現在まで活動を続けている。1975年には完全インドネシア語綴り一般指導書が出
版された。
2-2. マレーシア国内
 1701年にThomas Bowrey、1812年にW. Marsden、1820年にC.H. Thomsenが辞書や単
語集などを作成したが、一般には西洋人もローマ字よりジャウィを使用することが多
かった。
1848年にJohn Crawfordがジャウィからアルファベットへの転換を試み、1878年には
マレー連合州においてアルファベット表記システム作成委員会が設立された。同委員
会の提案した表記法は、MaxwellやShellabearの批判を受け、発表にはいたらなかっ
た。
1904年、Wilkinsonを中心とする委員会が学校教育のためにマレー語のローマ字綴り
を作成し、“Romanised Malay Spelling”を発表した。1914年にはR.O.Winstedtが
“Malay Grammar”を出版した。
 マレー人では、1933年にZa'baが初めて綴字法を作成し、1949年に“Daftar Ejaan
Melayu Jawi-Rumi”を出版した。これはWilkinsonの綴りを基礎としつつ、その誤り
を改訂したものであった。
 1956年には、54年の第2回インドネシア語会議の影響を受けて、インドネシア側の
改新綴りと対応する新しい綴りが作成されたが、発表にはいたらなかった。1972年に
は、先述の通りインドネシアと共同で作成したマレーシア語新綴りが作成され、発表
された。
[質疑応答・コメント]
・インドの文字の影響について。デーヴァナーガリ文字は北インドの文字であり、ま
た成立が遅いので、東南アジアへの影響はない。3〜5世紀に東南アジアに入ったの
は、南インド系のブラフミー文字と呼ぶのが正しい。(青山)←特に東南アジアに強く
影響した文字は南方グランタ文字であるとされる。(桜井)←グランタ文字は、タミル
語話者がサンスクリット語経典を表記するためにブラフミー文字を改良したもの。当
時はインドにおいても文字が体系的に確立していたわけではないので、より一般的
に、「東南アジアに入ったのは南方系ブラフミー文字」と理解したほうがよい。(青
山)
・カウィ文字については、文字としてはパラワ文字との連続性が強い。(青山)
・インドネシアの現行綴りにおけるsyという表記は、日本占領期における日本のロー
マ字(訓令式)の影響ではないか。(桜井)←1933年のZa'baの綴りでもsyが使われて
いる。ただし、マレーシア側の古い文書ではshの表記もある。(左右田)
・改新綴りにおける「合理性」とは、1音1文字で表記するということであるが、反
面、発音記号を付加するなど不都合な面もある。タイプライターで打つ際の利便性な
ど、「合理性」にも様々な方向がある。(川島)←改新綴りでは、文字を少なくして印
刷資源を節約するということが目的のひとつであった。(舟田)
・マレーシアの場合、ローマ字とジャウィのどちらを選択するかの決定が非常に遅い
(1950年代)。そこでローマ字が選択された理由は、印刷・出版上の利便性、習得のし
やすさ。(左右田)

総合討論
1. 他地域の諸事例
・カンボジアの場合:ラオスより2年早く、1916年に僧侶を中心とする辞書編纂委員
会が設立された。しかし、ここでは音韻重視の立場と語源重視の立場の対立があり、
議論がまとまらなかった。その後、1920年代に、若手の改革派僧侶を含めた新しい委
員会が設置され、ここでは語源重視の方針が定められた。辞書は1938年に出版され
た。独立後は、あまり大きな揺れは見られないが、1979年以降、恐らくベトナムから
の影響で、教育・出版界を中心に音韻重視の表記法を主張する人々も出てきている。
(笹川)
・ベトナムの場合:固有の文字を持たなかったために、ローマ字化が比較的容易で
あったという面がある。1930年代にフランス植民地政府が学校教育に力を入れたこと
が、クオック・グーの普及に貢献した。綴りの統一に関しては、1917年に発行された
『Nam Phuong(南風)』紙が先駆けであり、その後、1920年代を通じて小学校教科書で
使用された綴りが、ある程度標準化していったと思われる。現在のベトナム語の綴り
は、1954年に作られた言語委員会で議論されたものがもとである。ここでは、地方語
を表記する必要性に配慮した結果、1音1文字の原則は廃棄された。(桜井)
・フィリピンのタガログ語の場合、宣教師による聖書の現地語訳が早くから行なわれ
ており、それが後の正書法にも大きな影響を与えている。マレー語に起源をもつ言葉
が多いが、マレー語と表記を統一させようというような考えは見られない。(川島)
・ビルマの場合、植民地化や宣教師の活動が下ビルマからひろがったために、上ビル
マを中心とする「伝統的」な表記法と植民地期のエリートたちのそれとの間に齟齬や
断絶が見られるかもしれない(土佐)
2. 国家権力・権威との関係をめぐる議論
・いずれにせよ、正書法はコミュニケーション手段としてはむしろ不適(もしくは不
必要)である場合が多く、やはり権威による強制的な行為と考えるべきではないか(桜
井)←コミュニケーションにおいては簡略化が進むとしても、「正しい」区別の仕方
を維持するものとして正書法は必要(石井)←その言語を母語としない人々も巻き込ん
で「国民」を形成しなければならない場合に、そのような意味での正書法の必要性が
高まる。(笹川)
・誰が正書法を定めるのかという問題について、これを近代の植民地支配〜独立とい
う流れの中に位置付けるためには、国家(state)と国民(nation)を区別する必要があ
る。必ずしも国家とは関係のないところで、民族の統一的な「正書法」を作ろうとす
る意識が生まれる例もあり(例えば、民間の知識人による辞書の編纂など)、こうした
場合と、国家が正書法に対して権威・強制力を行使する場合とは区別して考えるべき
ではないか。(青山)←東南アジアの場合、独自の文字を持たず、他文明の文字を借用
してきたという歴史的特徴がある。その場合、正書法に対する要求がなぜ生じるかを
考えるためには、社会における文字に対する需要がどのようなものであるか、何のた
めに文字が必要になるのかという問題を考慮する必要がある(桜井)
・正書法に対する地方側の様々なレスポンスについても考慮する必要がある。インド
ネシアの場合、バタック語のようにインドネシア語の正書法を流用して地方語を表記
する例もあるし、ジャワ語やバリ語のローマ字表記におけるように、独自の「正書
法」を作り出す場合もある。(青山)←地方において中央の「正書法」を借用して自ら
の言語を表記しようとするような場合、どのような文字を借用するかは合理性や利便
性の問題ではなく、文明的価値観の問題になる。ベトナムの場合、知識人の間に漢字
志向からフランス語志向への転換が見られる。(桜井)←前近代におけるインド系文字
の流入も、インド文明に対する尊敬がその背景にある。(青山)
・マレー語におけるインド系文字→ジャウィ→ローマ字のように、使用される文字が
時代によって変化する場合がある。その場合、どの文字を選択したかということが正
書法の問題にも影響を与えている。ラオスやカンボジアにおける、語源重視と発音重
視という2つの立場の対立は、仏教経典を記述しなくてはならない大陸部諸国に特有
の問題である。これと比べると、マレー語の場合、聖典であるクルアーンはアラビア
語・アラビア文字でのみ書かれるものであるため、正書法に関する議論が比較的単純
である。(青山)
・言語学においては、「正書法」とはある言語を研究対象とするために体系的な表記
法を作り出すこと。特に地方語の問題を考える場合、この意味での「正書法」につい
ても考慮するべきではないか。(川島)←そのような表記法が権威を持ち得るかどうか
が問題。(青山)←正書法とは、ある特定の表記法が社会的・政治的に強制力を伴うと
いうこと。(桜井)←ただ、その場合、国家による強制が必ずしも成功するとは限らな
いし、正当性の源泉は国家だけではない。例えば宗教的理由から、国家が強制する表
記法を拒否して独自の「正しい」表記法を固持するような場合も考えられる。(川
島)←国家は、特定の表記法を強制することはできても、言語や文字に対する権威・
正当性は持ち得ない。(青山)←ただ、教育の場においては、国家権力の体現者である
教師が子供たちにとっては権威を持った存在でありうる。(左右田)
・この他にも様々な議論が出されたが、省略する。
(文責:國谷徹)

2005年03月25日

東南アジア史学会第317回関西例会のお知らせ

2005年4月例会を下記の通り開催いたします。今回は、このたび定年を迎えられる吉川利治先生にご報告頂きます。皆様、どうぞ奮ってご参加ください。


日時:2005年4月16日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:吉川利治「王権の活性化をめぐるチュラーロンコーン王とダムロン親王」


参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

2005年03月05日

第186回東南アジア史学会中部例会のお知らせ

第186回例会を以下のように開催しますので、どうかよろしく
お願いいたします。今回は近代的組織の中における近代技術と
地域の文化のぶつかり合いおよびその比較のお話しです。外文
明と内世界にご興味のおありの方々のご来場をお待ちしており
ます。

日時:2005年3月26日(土) 午後2時−5時
場所:名古屋大学大学院国際開発研究科 5階 第6演習室
以下の地図の45番です。
   http://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/higasiyama.html

話者:佐土井有里氏(名城大学)
話題:「マレーシアと中国の技術形成比較(自動車部品国産化
    から見る)」

連絡先:大橋厚子
名古屋大学大学院国際開発研究科

2005年02月24日

関西例会3月の案内

東南アジア史学会第316回関西例会のお知らせ

2005年3月例会を下記の通り開催いたします。どうぞ奮ってご参加ください。


日時:3月19日(土)13:30〜16:30 於.大阪市立大学文化交流センター
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:冨岡三智(大阪市立大学大学院文学研究科)
   「芸術創造を牽引するもの 〜ジャワ舞踊スラカルタ様式の場合〜」


参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

※非会員の参加も自由です。

2005年02月19日

2004年11月関東地区例会報告要旨

2004年11月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。

*******************************************************
東南アジア史学会関東地区11月例会
2004年11月27日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室

[報告1]
報告者:池田一人(東京大学大学院)
題目:「植民地期ビルマにおけるカレン民族史諸ヴァージョンの検討 ——仏教徒お
よびキリスト教徒カレンの自己イメージ——」
コメント:土佐桂子(東京外国語大学)

報告要旨
 ビルマにおいて「カレン」という民族範疇はどのように生成し問題化したのか。戦
後ビルマの公定史観においては、カレンを最大とした民族問題の根源が例外なく英国
植民地時代の分割統治に帰せられてきた。また、カレン民族問題の一方の当事者たる
カレン反政府勢力に対しては「分離主義的なカレン」というイメージが西側メディア
の報道に織り込まれてきた。これらに通底するのは「ビルマ民族に対抗的なカレン」
なる表象である。このような表象は植民地空間における主に英植民地権力やキリスト
教宣教師の「名づけ」の作用によって、カレンという民族範疇の形成と相即して成立
した。
 しかし、この「名づけ」に対応する応答としての「名乗り」には、これらの名づけ
を裏切らないようなバプティスト派スゴー・カレンによる自己規定とともに、それと
は相容れない異質な仏教徒カレンの自己表明も入り混じる。ここでは、ビルマ植民地
時代末期に成立した3つのカレン史テキストを用い、後に主流とならずに周辺化ある
いは捨象されたような要素に注目し、「カレン」という民族観の担い手が誰であった
のかを明らかにする。次にこれら要素がどのように周辺化されたのかについて展望を
示し、「カレン」が問題化した過程に関する仮説を提示する。
㈵.3つのカレン史
 カレンはビルマ全人口のおよそ10%を占め、下ビルマに限ればその人口の20%を占
めている。また、カレンは地図に示されているとおり、タトンや現カレン州のあるビ
ルマ東部およびデルタ地帯にその多くが居住しているが、なかでもデルタ地帯のカレ
ンは、カレン全人口の3分の1を占める。また、キリスト教徒はカレン全人口の16%弱
となっている。
 今回取り上げるカレン史テキストは下記のものである。
 ㈰ U Pyinnya(ウ・ピンニャ)著 ”Kayin Yazawin” (カイン王統史)1929年、
ビルマ語。著者は1860年代生まれ、タトンの作家で、仏教徒。カレン系パオ人?
 ㈪ U Saw (ウ・ソオ)著 “Kuyin Maha Yazawindawgyi”  (クゥイン大王統
記)1931年、ビルマ語。著者は仏教徒で、総督府翻訳部門のパーリ語翻訳官。カレン
系(スゴー?)。
 ㈫ Saw Aung Hla (ソオ・アウンフラ)著 “Pgakanyaw Alidasisoteso” (プア
カニョウの歴史)1939年、スゴー語。著者は1883年頃タウングー生まれで、ラングー
ンの警察長官事務所の官吏を勤めた。1943年没。バプティスト派キリスト教徒スゴー
・カレン。
㈼.3つのカレン史の表すところ
 3つのカレン民族史は、ともにカレンという民族の独自性を証明するために書かれ
た。ここでは「名称の起源と文字」「集団の起源と分類」「王統と王国」「他宗教と
他民族との関係」の4点を重視して3つのカレン史を比較する。
㈽.3つのカレン史の連なるところ
 3つのカレン史の共通項は「宗教」であるが、仏教もキリスト教も無際限に「ビル
マ」(ビルマ文化の影響域)の外へは延長されない。ビルマ内のビルマやモン文化と
の関係性の上にカレンが定義される。しかし、3人の著者の背景の違いからそれぞれ
の歴史にずれが見られる。㈫には均質なビルマ大のネットワークに裏打ちされたバプ
ティスト・カレンのコミュニティが現れている。この歴史は出版後に諸カレン宣教師
学校の副教材として使われた。㈰はタトンというモン文化の中心地から発話されてい
るが、デルタの仏教徒カレンがそのまなざしから欠落し、デルタはカレン仏教の「周
縁」として存在する。㈪は仏教パーリ的世界の抽象性の中にビルマ諸族を通してカレ
ンを埋め込み、しかもここで歴史は完結しない。
 そして、㈰と㈪で表現された仏教徒カレンの「カレン観」は、現実の植民地ビルマ
社会における仏教徒カレン自体の内部の多様性に対応している。すなわち、一方で
は、㈰の著者に代表されるようなタトンや現カレン州の東部仏教徒カレンにおいて、
「カレン仏教」という伝統が存在し、モン仏教とのつながりの上で、カレン仏教徒と
しての意識形成が進行していた。だがその一方、㈪の著者に代表されるようなラン
グーン以西の仏教徒カレンにおいては、デルタにカレン人口の3分の1が集まり、その
ほとんどが仏教徒であるにもかかわらず、モン仏教とのつながりという資源を活用で
きず、そのため㈪の著者はパーリ仏教知識の中にカレンを位置づけようとした。
 この二種類の仏教徒カレンは、植民地期末期から国民国家形成期のビルマ社会展開
の中でなされたカレンの名乗りの過程において、ビルマやモンなどに親和的に連なろ
うとしていたにもかかわらず周辺化されていった。
㈿.3つのカレン史の置かれたところ〜展望として
1930年代について残っている主要なカレンの社会政治資料はバプティスト・スゴーの
ものである。また、インドからの分離を前に活発な民族政治が行われていた植民地議
会では、バプティスト・スゴーが「カレン」を代弁して社会・政治活動を行ってお
り、㈫が描いたようなカレン観がビルマ社会で定着してきた。
その一方、仏教徒カレンの発言と活動の痕跡も見られるが、これらの動きは散発的
で、一部はバプティスト・スゴーに動員されたとも考えられる。社会集団として未成
熟であったために「ビルマ民族に親和的なカレン」という仏教徒カレンの民族観が主
流とはならなかった。このような組織化されていない仏教徒カレンが、初めてカレン
としての集団的な経験をしたのが1942年の「カイン=バマー・アディガヨン(カレン
=ビルマ紛争)」である。
こうして、反ビルマ民族的なカレン観が定着し、主流化していくことになる。こうし
たカレン観の担い手は、従来から言われている英国植民地主義者と宣教師であり、当
事者のバプティスト・スゴーであった。また、親和的なカレン観が傍流化していった
のは、仏教徒カレン自身が社会集団として未成熟であったこと、カレンにまつわる言
説のヘゲモニーをバプティスト・カレンが握っていたこと、日本占領期以降に激化し
たカレン=ビルマ紛争において、より外郭の明確な「ビルマ民族に対抗的なカレン」
という構図がタキン勢力によって作られていったこと、などの理由による。

コメント

民族運動以降という扱いのカレン研究が多い中で、池田氏のような研究はこれまでに
見られないものである。3つのカレン史に見られるカレンの呼称についても大変興味
深い。また、仏教徒系カレンとキリスト教系カレンについては、仏教徒系が主流にな
らなかった背景についても触れながら分析している。
ただ、今回の報告では、エスニシティ/民族という概念を自明に捉えすぎていない
か。民族の違いは単なる違いとして、王朝時代から存在した。ここの例では、ソオ・
アウンフラは意識的に「プアカニョウ」を使っているが、あとの2人による「カイ
ン」と「クゥイン」については単なる区別としか考えられない。また、民族紛争プラ
ス宗教という形で議論されているが、宗教の違いによる排斥は以前から見られたもの
であって、分岐点は違うところにあるのではないか。
また、歴史書の内容分析においてはインドへの言及について触れていたが、ここにあ
らわれている「インド」とは場所ではなく、仏教の源泉としての「ブッダ」を表して
いて、単なるビルマ仏教徒としての書き方であろう。宗教に関連して言えば、民族と
宗教という分類が前提となっているのだが、「カレン」という民族が宗教より上位と
なるのはいつのことか。

→ここでは「名づけ」「名乗り」とその中間の過程を見ていくことにより、「カレ
ン」を相対化した。民族という概念を自明に捉えすぎている、という部分は考え中で
ある。また、民族が宗教より上位となるのは1930年代であり、そこが題材となってい
る。(池田)

質疑応答(一部コメント含む)

○筆者はカレン人であるが、カレンという意識を主題とせずに、書いたような著作は
ないか。(弘末)→ありうるが発見できていない。(池田)
○バプティスト派カレンによって書かれたカレンの歴史および彼らのカレン観が流布
しているようだが、仏教徒カレンによって書かれた歴史はどのような状況か。(弘
末)→戦後、1960年代に当初書かれた歴史の改訂版などが出されているが、仏教徒カ
レンの場合は書き手が限られていた。仏教徒カレンはカレンとしての意識が強くな
かった。(池田)
○ 1980年代、タイのカレンの村で調査をしたが、そのときの村人は「カレン」を知
らなかった。彼らは精霊信仰で、キリスト教徒カレンとは一緒にくくられないものと
思っていた。今回の発表の場合、仏教徒とキリスト教徒が1930年代にひとつになって
いく、という点がとても重要。二つの仏教徒カレンが出てきたが、彼らは言葉の違い
以外に仏教に対する認識の違いを持っていたのか。(吉松)→認識の違いはよくわ
かっていない。仏教徒カレンという括りがあるようだが、これもよくわからない。
ミャウンミャ事件に対する聞き取りの結果によれば、デルタに居住するカレンも現在
では東部のカレンを意識している。1930年代には両者の交流はほとんどなく、彼らが
どこの仏教を意識するかといえば、隣村のビルマ人仏教徒の仏教である。19世紀半ば
以降、東部にはカレン化を志向した仏教があったのではないか。(池田)
○相対的に少数のキリスト教徒が声を上げるようになったのは、教育、経済力、民主
主義に調和する世界観を持っていたことが理由といえるか。(吉松)→そのとおり
で、大きなネットワークを持っていた。(池田)
○王統史について。ジャワ・マレーでも基本的には宮廷の中から生み出されたもので
ある。ビルマにおいて宮廷との関係はどうなっているのか。また、王統史の背景、カ
レンの宮廷または王統史との関係、宮廷のない中での王統史の意味、自称と他称の問
題、たとえばジャワではジャワ人意識が確立された中での王統史であるが、カレンは
どうか。(青山)→カレンに宮廷は存在しない。「昔あったが今はない」という意識
の共有が見られる。1930年代になぜカレン史が出てきたかについては興味深いが詳細
はわからない。タイやベトナムなど他国でもナショナルなものが出てきている。(池
田)
○1942年カレン=ビルマ紛争でカレン人の被害によりカレン人という意識が高まると
いうことだが、王統史との年代は逆になっている。意識の高まりで王統史が出てきた
のではないとすれば、意識の高まりについてはどう考えるか。(青山)→42年以降の
逆照射で、カレン意識がすくい出されて高まった、という説明だが、さらに研究が必
要。(池田)
○優れたカレン王国の存在を作り出すという戦略は成功したのか。(青山)→三つの
カレン史とも今でも流通している。政治的局面ではソオ・アウンフラの書いたもの
が、とくにKNU(カレン民族同盟)などでは強く影響している。これら三つのカレン
史は目的が少しずつずれているのであるが、三つを融合させようという動きもある。
(池田)
○三つのカレン史の内容比較における4つの要素重視の意味がわからない。個別に分
析するより本の全体として言いたいことを表すほうがわかりやすい。ナショナリズム
の時代に民族意識が高まるというのは先入観であって、テキストの中から引き出すべ
き。王統史とプアカニョウの歴史とは性格が違う。民族との関係で、何のための王統
史かを明らかにすべき。(川島)→例えばウ・ピンニャは「王統史(ヤーザウィ
ン)」というタイトルをつけているが、彼が書きたかったのは歴史(英語の副題参
照)。王国の伝統を軸に記述しているが中心は「民族の歴史」で、ある種の権威付け
のために「王統史」を使用したと考えられる。4つの要素重視の意味はここから「民
族」を述べようとしたもの。(池田)
○ビルマ語で「民族」にあたる言葉は何か。王統史は民族という言葉を使わずに書け
るはずのもの。それぞれにあらわれた民族起源などを明示すべき。→民族は「ルー
ミョウ」で人の種類のこと。この言葉が頻繁に使用される。(池田)
○宗教という枠組みはキリスト教によって導入された。その結果差異化が進み、3つ
に分化したと考えられる。㈰キリスト教徒カレン㈪仏教徒カレン㈫どちらでもないカ
レン(言語・宗教・地域差など)。そしてそれぞれの正当性を確立するため歴史をよ
りどころに文字化したテキストを作成した。これも「王統(近代と伝統の融合)」
「救済(イスラエルのディアスポラという概念)」「テキスト化されない歴史(口頭
伝承)」というように分けられる。そして流用され変形していった。今回の報告では
上述の㈫のカレンの動きが消えてしまうので、このようなまとめ方はどうか、という
提案。(鈴木)→正当性確立に関しては、キリスト教導入による動きが大きく、仏教
徒カレンでの動きは一部であった。(池田)
○1930年代、他国とも共通しているが、歴史という意識は出てこない。1927年(執筆
完了)に少数民族の側が歴史を出しているということは、その時期に少数民族が歴史
を意識したということ。ビルマではなぜ時期が早いのか。カレンの身に起こったこと
は何か。(桜井)→19世紀はじめごろからバプティスト派の宣教が行われたが、仏教
徒の中にも何かあったのでは、という仮説を立てている。この時期に東ポー語での貝
葉文書が存在したのだが、僧院の場所とバプティスト派宣教の場所が重なっているこ
とから、カレンに危機感を覚えた僧侶が書いたのではないか(仮説)。カレンに危機
感を覚えた人々が1930年代にカレン史を書いたのかもしれない。(池田)
○キリスト教徒カレンが主流になるという危機感があらわれたこと、つまり宗教とい
う概念が生まれ社会分化が起こるのは1920年代のこと。また同時期にエリートとして
のカレンが出現している。キリスト教徒エリートと仏教徒大衆という対立を具体的に
描けると面白い。(桜井)
このほか、パゴダ縁起や王統史など印刷媒体が出た時期との関係、タイでの地方史編
纂、王統史のはじまりや使用されている暦、などいろいろな視点から活発な議論が行
われた。
(文責:斎藤紋子)
「発表者よりのコメント:関東例会でのコメントと批判をもとに大幅な報告趣旨の修
正を施し、12月11日の東南アジア史学会の自由研究報告を行いました。関東例会に出
席のうえコメントと批判を下さった方々に記して感謝申し上げます。」

[報告2]
報告者:伊藤未帆(東京大学大学院)
題目:「ベトナムにおける少数民族幹部養成政策と民族寄宿学校の役割—1990年代の
『第7プログラム』に関する検討を中心として—」
コメント:桜井由躬雄(東京大学)

報告要旨

本報告は、「ベトナムにおける少数民族幹部養成政策と民族寄宿学校の役割—1990年
代の『第7プログラム』に関する検討を中心として—」という題目を設定し、ベトナ
ムのドイモイ政策以降の少数民族幹部養成政策と民族寄宿学校の目的、および実態を
検討する内容であった。
報告者の基本的問いは、ベトナム政府がドイモイ期における少数民族政策として「多
民族の尊重」という、いわば「多文化主義的」とでもいえる理念を掲げる中で、具体
的な少数民族教育政策の制度化を通じてどのような多民族社会のあり方を模索してい
るのかという点にある。そこで報告者は、㈰ドイモイ期における民族政策理念が教育
政策の面で制度化された事例として「民族寄宿学校」を扱い、ベトナム政府が目指す
多民族社会のあり方の具体的肖像を明らかにすること、㈪その上で、少数民族社会の
側でこのドイモイ期の民族政策理念をどのように受け止めているかという状況を示
す、という二点を研究の目的とした。また本研究は、報告者自身によるランソン省チ
ラン県におけるインタビューおよびアンケート調査に主拠している。
まず第1節の「ベトナム政府によるドイモイ期の民族政策と少数民族幹部の養成」で
は、「キン族中心主義」から「少数民族主体」へというベトナム政府の民族政策の方
針転換が検討された。ドイモイ期における民族政策への転換は、1989年11月の「政治
局第22号決議」、1990年3月の「閣僚会議第72号決定」を経て実現されるのである
が、そこでの課題は、平野部のキン族幹部派遣という従来の構造をいかに転換し、
「地元」「少数民族」幹部をどのように養成していくか、ということであった。1980
年代末にそれまでのキン族幹部派遣構造が限界を露呈し、さらにドイモイ政策の導入
で山間部地域の経済・社会状況にマイナスの影響が顕在化していく過程で、ベトナム
政府は「地元」「少数民族」幹部を養成する必要性を強く認識する。そこで、教育訓
練省によって「民族寄宿学校」という新しい学校制度の建設が本格的に着手されるこ
ととなった。この背景には、基層レベルの「地元」幹部の育成を目的としてきた、山
間部地域における旧型「幹部養成学校」(「民族青年学校」)の存在があった。
第2節「『第7プログラム』実施による『新しい』民族寄宿学校の建設」では、少数民
族地域における教育の強化と発展を目指す、「第7プログラム」と呼ばれる教育政策
が検討された。「第7プログラム」の目的とは、「民族寄宿学校」の設立と拡大で
あった。具体的には、旧型の「幹部養成学校」の廃止と「民族寄宿学校」としての統
一的制度の構築、少数民族地域における新たな増設を通じた全国的なネットワーク化
である。この「新しい」民族寄宿学校の内容としては、入学対象として「第三地域」
(最貧困地域)の少数民族を最優先すること、ベトナム語を教授言語とし普通教育と
同カリキュラムを採ること、教育課程についても普通教育と同等とし高等教育機関へ
の進学を目的とすること、学費を無償化した上で生活費に充当する奨学金の授与と
いった経済的優遇措置、が挙げられる。
第3節「『新しい』民族寄宿学校の二つの機能」では、民族寄宿学校制度の現状と成
果が検討された。第一の機能は、「僻地」の「少数民族」を直接・間接的に国民教育制度
へと動員させたことである。報告者は、ランソン省チラン県の事例に拠りつつ、経済
的優遇措置などを通じて、民族寄宿学校が「第三地域」における少数民族の教育状況の
改善に貢献している状況を明らかにした。直接的にみると入学者数は依然として限定
的であるものの、民族寄宿学校をめぐる様々な優遇措置の実施を通じて、少数民族社
会内での認知度が高まっている状況が間接的影響として評価された。第二に、エリー
ト養成学校としての機能である。報告者は、大学や高等専門学校への「比較的」高い合
格率や、推薦入学制度に対する優先的割り当て措置など高等教育機関への進学傾向に
加え、高等教育機関を卒業した生徒が地元へUターン就職を望む傾向が高いことを挙
げ、民族寄宿学校が本来の目的である「地元」「少数民族」幹部の育成に積極的な効果
を挙げていると分析した。
第4節「『新しい』民族寄宿学校の限界」では、一方でこの政策が抱える制度的限界が
検討された。第一に、「僻地」の少数民族に特化したことの限界である。入学の対象
を「第三地域」出身者に限定したため、結果的に他地域の生徒との間で、民族寄宿学校
をめぐる認識に温度差が生じた。こうした認識のズレは、社内での選抜競争の激化な
どを背景に「第三地域」内部でも顕在化しつつある。第二に、エリート学校としての限
界である。卒業生の高等教育機関への進学動向を見ると、進学者は地元の高等専門学
校が中心で、ハノイなど都市部の大学への進学は依然として困難であり、また推薦入
学についても実際には全体的な合格枠が限られている。さらには、民族寄宿学校の卒
業生であっても、必ずしも地元で就職する義務や規定はないことから、近年、地元以
外での就職を望む生徒の出現といった兆候も指摘された。
最後に、ドイモイ期民族政策の理念と民族寄宿学校についての評価を検討し、本研究
の結論をまとめた。すなわちドイモイ期の「多民族性の尊重」という民族政策理念
は、「地元」「少数民族」幹部養成のための民族寄宿学校という教育制度の上に具現
化された。この民族寄宿学校は、「地元」「少数民族」幹部の育成に貢献するのみな
らず、少数民族に対する優遇政策を可視化させたことにより、この学校の存在を通じ
て「僻地」の少数民族が国民教育システム全体を見通せるようになったという点にお
いて、教育制度面での「少数民族性」のシンボルとして認識されている点を指摘し
た。この「民族寄宿学校」に見られるように、国家の側から「少数民族性」を提示す
るという手段によって、制度を多元化させることなく少数民族を国民教育制度へ動員
させようとする方法が、ベトナム政府が目指すドイモイ期の多民族社会のあり方であ
ると結論した。その上で、こうしたあり方を今後「ベトナム型多文化主義」と位置づ
ける可能性について示唆的見解を述べた。(文責:田中健郎)

2005年02月04日

2004年12月関東地区例会報告要旨

2004年12月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。


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東南アジア史学会関東地区12月例会
2004年12月18日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
報告者:鈴木陽一(下関市立大学)
題目:「東南アジア諸国連合成立への道—現地のイニシアティブと英米の冷戦戦略」
コメント:山影進(東京大学)


<報告要旨>
ASEANの性格については、政治的に中立な社会的経済的組織だとする加盟国の公式見
解や、反共同盟だとする修正見解に加えて、公式見解を批判しつつも、反共だけでは
くくりきれないASEANの性格、たとえば、東南アジア諸国が自国の国家建設のために
近隣国と協力したという点に着目するポスト修正見解が存在する。本報告は、第三の
立場をとりつつ、いまだ明らかにされたとはいいがたい東南アジア諸国間の利害対立
や、その背後にあった英米戦略の変容に留意しながら、ASEAN成立史を捉えなおす試
みである。
まず、第二次世界大戦を契機として東南アジア戦域が形成されていく過程が概説され
る。共産主義への対抗のため、英米諸国が東南アジアのナショナリズムと接近したこ
とが、地域協力を推し進めることになった。地域協力には、英米戦略の一環として行
われたもの(コロンボ計画、SEATO)と、現地のイニシアティブのもとで進められた
もの(ASA、マフィリンド)があったが、両者は必ずしも両立しなかった。
1960年代半ば以降、インドネシア・タイを中心として地域統合へ向けた動きが盛んに
なる。930事件後、インドネシアは対決政策解消の過程で地域統合に乗り出した。一
方タイは、インドシナ戦争のエスカレートにもかかわらず、介入しようとしない
SEATOの態度に孤立感を強め、別の拠り所を求め始めた。こうして1966年末には、タ
イの外相タナットがSEAARC草案をつくり、インドネシア外相アンワール・サニがこれ
を持って各国を訪問することになった。この草案は、経済的なASAと政治的なマフィ
リンドの折衷案ともいえるものだったが、安全保障上の責任を共有するという条項を
含むなど、かなり政治的色彩の濃いものであった。また、この時期にアメリカは東南
アジアへの関心を強め、地域協力プロジェクトへの支援を行っていた。
マレーシアは、一貫してイギリス帝国の力を背景とした地域秩序を模索しており、イ
ンドネシアへの敵意やアメリカ主導の地域主義構想への警戒から、1967年1月にタ
ナット提案への反対を表明した。シンガポールもアメリカの地域構想に危機感を持
ち、マレーシアと歩調を合わせようとした。ところが、ベトナム戦争の仲介工作に失
敗したイギリスが、同年3月にスエズ以東からの撤退を決定すると、マレーシアは政
策を転換し、5月には新機構への参加を表明するにいたった。その後、新機構の性格
や開催場所、参加国、名称などをめぐって加盟国間で議論されたが、安全保障上の共
同責任に関する条項が削除されたことを除けば、ほとんどがインドネシアの思惑が反
映される結果となった。
最後に報告者は、インドネシアが反共同盟の目的をもってASEANの創設を主導したと
主張するとともに、英米が冷戦戦略として地域協力を促したことの影響もASEAN成立
の重要な要因であったと結論した。

<コメント:山影進>
歴史学=史料にもとづく議論、という意味では、本発表は中間報告的なものだろう。
特に、アメリカの関与についての説明が不明瞭であったことは残念だ。
4つの疑問点を提示する。1)「英米戦略の影響」の概念規定:地域協力機構形成へ
向けた英米の思惑、働きかけ、評価を考えなければいけない。また、それらを東南ア
ジアの指導者たちがどう見たのかということも重要である。2)マフィリンドの位置
づけ:なぜタナットはマフィリンドとASAの折衷案を提出したか。それは、マフィリ
ンドはASEAN以上に同床異夢であったため、構成国の間で妥協点を見出せず、その復
活によってコンフロンタシを解消することなどできなかったから。3)インドネシア
の反共:当時のインドネシアは一枚岩ではなかった。反華人・反共・親米の国軍と、
非同盟スカルノ路線での国際社会への復帰を目指す外務省の対立を考慮すべき。政府
として、地域協力機構にどれだけ反共性をもとめたかは疑問。4)マレーシアの姿勢
:同様にマレーシアも一枚岩ではなかった。とはいえ、インドネシアを地域の責任主
体として地域協力をしてもよいと考える外務省の方針に対して、トゥンク・アブドゥ
ル・ラーマンはそれを遅らせることはできても、もはや変更することはできなかっ
た。(山影)
→1)たしかに概念規定に関しては、もっと詳細に考える必要がある。2)1963年時
点では、マフィリンドは成立していないと考えるのは妥当だ。しかし、マフィリンド
を軍事同盟として復活させようとするインドネシア国軍の欲求は重視すべき。3)強
硬な軍部とよりマイルドなマリクとの間で路線の違いがあり、一枚岩の反共ではな
かった。地域協力に関して、軍がインドネシア版のマフィリンド復活を目指したのに
対し、マリクは軍事的つながりを持つことには冷淡であった。4)マレーシアは、
ASAを基礎とする地域協力を目指していたが、軍事的なものにはしたくなかった。ま
た、トゥンクは最終決定権を握っていたと考えられる。(報告者)

<質疑応答>
現地のイニシアティブとして「反共」を強調するよりは、「東南アジア性」や「マ
レー性」に言及してほしかった。(川島)→東南アジア性の表れとして反華人意識を
捉えたい。(報告者)→ASEAN形成過程と東南アジア性を結びつけるのであれば、な
ぜシンガポールが入ったのか説明する必要がある。(山影)

ASEAN成立時の東南アジアの指導者たちは、他所での地域統合をどう評価したのか。
モデルはあるのか。(吉村)→ASAは、EECなどの機能主義的な地域統合をモデルとし
たが、ASEANは違う。これは疑問。(報告者)

諸国の思惑が同床異夢であったことについて、1)インドネシアの影響力の強い新機
構にマレーシアが加わっていく狙いは何か、2)なぜアメリカの介入を警戒するの
か。(弘末)→1)押されて仕方なく参加しただけではない。マレーシアは防衛協定
への反対と中立化構想を掲げて積極的に参加した。2)マレーシアは、軍をベトナム
へ派遣しなければならなくなるような事態を恐れた。シンガポールは、イギリスの影
響が薄れたときの宗主国の協力者=華人の命運に不安を感じた。(報告者)

1967年の時点で地域統合と言えるところまで議論は踏み込んでいたのか。地域協力の
レベルではないか。(青山)→たしかに成立翌年にサバをめぐって緊張が高まるが、
そうした危機にも関わらず存続したことが重要。ここにおいて「外部の力を利用して
団結をはかる」というパターンが出現し、それがregional corporationの起源とな
る。(報告者)

ASEAN史の時代区分をした方がわかりやすい。(青山)→「初期ASEAN」はいつまで
か。(報告者)→善隣外交のための信頼が醸成され、その後の基本構造が形作られる
1976年が画期になる。(山影)

反共と反華人、反中国は別に考えるべき。インドネシアではすべて結びつくが、マ
レーシアでは反共かつ反中国だが反華人にはならないなど、国ごとに事情がことな
る。(左右田)→どの国でも反共という点では一致していた。マレーシアにも程度の
差こそあれ反華人感情はあった。(報告者)

ASEANは二国間関係の集まりと捉えられるか。(青山)→大使館がない状況において
は二カ国間での相互訪問は難しく、ASEANが諸国の外務大臣に集まる機会を提供した
ことが、外交チャンネルを密にするうえで大きな意味を持った。(山影)

ここにあげた以外の点についても参加者の間で活発な議論がなされた。
<文責・長田紀之(東大院修士)>


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連絡先:関東地区例会幹事  國谷 徹

2005年01月21日

関西例会2月

南アジア史学会第315回関西例会のお知らせ

 2005年2月例会を下記の通り開催いたします。今回は長年にわたって関西例会のみならず東南アジア研究全体の発展にご尽力くださり、このたび還暦をお迎えになる桜井由躬雄先生をお招きします。還暦をお祝いしこれまでの学恩に感謝する意味を込めて、桜井先生がかつて教鞭を執られ、関西例会発祥の地でもある京都にて開催いたします。皆様、ふるってご参加下さい。

日時:2005年2月12日(土)13:30−16:30
場所:京大会館・102号室(通常とは会場が異なりますのでご注意ください)
話題:桜井由躬雄(東京大学大学院人文社会系研究科)
   「バックコックの人々の60年 1945-2005」

 なお、例会終了後、17:00より同館212号室にて懇親会を開催いたしますので、併せて御参加いただければ幸いです。

 また、京大会館への行き方については、下のURLを御参照ください。
http://www.kyodaikaikan.jp/access.html

2005年01月08日

東南アジア史学会関東部会1月例会のご案内

関東部会1月例会のご案内をお送りいたします。
今回はミニシンポジウムを企画いたしました。
皆様のご参加をお待ちしています。

日時: 1月22日(土)午後1時より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
    849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
  そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
テーマ:東南アジアの「近代正書法」

基調報告: 石井米雄
パネリスト 奥平龍二
菊池陽子
舟田京子
(五十音順)

参加費:一般200円、学生100円

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連絡先 関東地区委員 奈良修一

2005年01月05日

関西例会1月の案内

東南アジア史学会第314回関西例会のお知らせ

2005年1月例会を下記の通り開催いたします。本年もよろしくお願いいたします。



日時:2005年1月15日(土)13:30−16:30
場所:大阪駅前第2ビル6階・大阪市立大学文化交流センター・大セミナー室
話題:細川月子(広島大学大学院文学研究科)
   「植民地期北アチェのリーダーシップ再考−自治領首長を巡る諸関係から−(仮)」


参加費:一般400円 大学院生200円 学部学生無料
連絡先:〒558-8585 大阪府大阪市住吉区杉本3-3-138
    大阪市立大学文学部 早瀬晋三研究室

※非会員の参加も自由です。