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2004年11月関東地区例会報告要旨

2004年11月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。

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東南アジア史学会関東地区11月例会
2004年11月27日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室

[報告1]
報告者:池田一人(東京大学大学院)
題目:「植民地期ビルマにおけるカレン民族史諸ヴァージョンの検討 ——仏教徒お
よびキリスト教徒カレンの自己イメージ——」
コメント:土佐桂子(東京外国語大学)

報告要旨
 ビルマにおいて「カレン」という民族範疇はどのように生成し問題化したのか。戦
後ビルマの公定史観においては、カレンを最大とした民族問題の根源が例外なく英国
植民地時代の分割統治に帰せられてきた。また、カレン民族問題の一方の当事者たる
カレン反政府勢力に対しては「分離主義的なカレン」というイメージが西側メディア
の報道に織り込まれてきた。これらに通底するのは「ビルマ民族に対抗的なカレン」
なる表象である。このような表象は植民地空間における主に英植民地権力やキリスト
教宣教師の「名づけ」の作用によって、カレンという民族範疇の形成と相即して成立
した。
 しかし、この「名づけ」に対応する応答としての「名乗り」には、これらの名づけ
を裏切らないようなバプティスト派スゴー・カレンによる自己規定とともに、それと
は相容れない異質な仏教徒カレンの自己表明も入り混じる。ここでは、ビルマ植民地
時代末期に成立した3つのカレン史テキストを用い、後に主流とならずに周辺化ある
いは捨象されたような要素に注目し、「カレン」という民族観の担い手が誰であった
のかを明らかにする。次にこれら要素がどのように周辺化されたのかについて展望を
示し、「カレン」が問題化した過程に関する仮説を提示する。
㈵.3つのカレン史
 カレンはビルマ全人口のおよそ10%を占め、下ビルマに限ればその人口の20%を占
めている。また、カレンは地図に示されているとおり、タトンや現カレン州のあるビ
ルマ東部およびデルタ地帯にその多くが居住しているが、なかでもデルタ地帯のカレ
ンは、カレン全人口の3分の1を占める。また、キリスト教徒はカレン全人口の16%弱
となっている。
 今回取り上げるカレン史テキストは下記のものである。
 ㈰ U Pyinnya(ウ・ピンニャ)著 ”Kayin Yazawin” (カイン王統史)1929年、
ビルマ語。著者は1860年代生まれ、タトンの作家で、仏教徒。カレン系パオ人?
 ㈪ U Saw (ウ・ソオ)著 “Kuyin Maha Yazawindawgyi”  (クゥイン大王統
記)1931年、ビルマ語。著者は仏教徒で、総督府翻訳部門のパーリ語翻訳官。カレン
系(スゴー?)。
 ㈫ Saw Aung Hla (ソオ・アウンフラ)著 “Pgakanyaw Alidasisoteso” (プア
カニョウの歴史)1939年、スゴー語。著者は1883年頃タウングー生まれで、ラングー
ンの警察長官事務所の官吏を勤めた。1943年没。バプティスト派キリスト教徒スゴー
・カレン。
㈼.3つのカレン史の表すところ
 3つのカレン民族史は、ともにカレンという民族の独自性を証明するために書かれ
た。ここでは「名称の起源と文字」「集団の起源と分類」「王統と王国」「他宗教と
他民族との関係」の4点を重視して3つのカレン史を比較する。
㈽.3つのカレン史の連なるところ
 3つのカレン史の共通項は「宗教」であるが、仏教もキリスト教も無際限に「ビル
マ」(ビルマ文化の影響域)の外へは延長されない。ビルマ内のビルマやモン文化と
の関係性の上にカレンが定義される。しかし、3人の著者の背景の違いからそれぞれ
の歴史にずれが見られる。㈫には均質なビルマ大のネットワークに裏打ちされたバプ
ティスト・カレンのコミュニティが現れている。この歴史は出版後に諸カレン宣教師
学校の副教材として使われた。㈰はタトンというモン文化の中心地から発話されてい
るが、デルタの仏教徒カレンがそのまなざしから欠落し、デルタはカレン仏教の「周
縁」として存在する。㈪は仏教パーリ的世界の抽象性の中にビルマ諸族を通してカレ
ンを埋め込み、しかもここで歴史は完結しない。
 そして、㈰と㈪で表現された仏教徒カレンの「カレン観」は、現実の植民地ビルマ
社会における仏教徒カレン自体の内部の多様性に対応している。すなわち、一方で
は、㈰の著者に代表されるようなタトンや現カレン州の東部仏教徒カレンにおいて、
「カレン仏教」という伝統が存在し、モン仏教とのつながりの上で、カレン仏教徒と
しての意識形成が進行していた。だがその一方、㈪の著者に代表されるようなラン
グーン以西の仏教徒カレンにおいては、デルタにカレン人口の3分の1が集まり、その
ほとんどが仏教徒であるにもかかわらず、モン仏教とのつながりという資源を活用で
きず、そのため㈪の著者はパーリ仏教知識の中にカレンを位置づけようとした。
 この二種類の仏教徒カレンは、植民地期末期から国民国家形成期のビルマ社会展開
の中でなされたカレンの名乗りの過程において、ビルマやモンなどに親和的に連なろ
うとしていたにもかかわらず周辺化されていった。
㈿.3つのカレン史の置かれたところ〜展望として
1930年代について残っている主要なカレンの社会政治資料はバプティスト・スゴーの
ものである。また、インドからの分離を前に活発な民族政治が行われていた植民地議
会では、バプティスト・スゴーが「カレン」を代弁して社会・政治活動を行ってお
り、㈫が描いたようなカレン観がビルマ社会で定着してきた。
その一方、仏教徒カレンの発言と活動の痕跡も見られるが、これらの動きは散発的
で、一部はバプティスト・スゴーに動員されたとも考えられる。社会集団として未成
熟であったために「ビルマ民族に親和的なカレン」という仏教徒カレンの民族観が主
流とはならなかった。このような組織化されていない仏教徒カレンが、初めてカレン
としての集団的な経験をしたのが1942年の「カイン=バマー・アディガヨン(カレン
=ビルマ紛争)」である。
こうして、反ビルマ民族的なカレン観が定着し、主流化していくことになる。こうし
たカレン観の担い手は、従来から言われている英国植民地主義者と宣教師であり、当
事者のバプティスト・スゴーであった。また、親和的なカレン観が傍流化していった
のは、仏教徒カレン自身が社会集団として未成熟であったこと、カレンにまつわる言
説のヘゲモニーをバプティスト・カレンが握っていたこと、日本占領期以降に激化し
たカレン=ビルマ紛争において、より外郭の明確な「ビルマ民族に対抗的なカレン」
という構図がタキン勢力によって作られていったこと、などの理由による。

コメント

民族運動以降という扱いのカレン研究が多い中で、池田氏のような研究はこれまでに
見られないものである。3つのカレン史に見られるカレンの呼称についても大変興味
深い。また、仏教徒系カレンとキリスト教系カレンについては、仏教徒系が主流にな
らなかった背景についても触れながら分析している。
ただ、今回の報告では、エスニシティ/民族という概念を自明に捉えすぎていない
か。民族の違いは単なる違いとして、王朝時代から存在した。ここの例では、ソオ・
アウンフラは意識的に「プアカニョウ」を使っているが、あとの2人による「カイ
ン」と「クゥイン」については単なる区別としか考えられない。また、民族紛争プラ
ス宗教という形で議論されているが、宗教の違いによる排斥は以前から見られたもの
であって、分岐点は違うところにあるのではないか。
また、歴史書の内容分析においてはインドへの言及について触れていたが、ここにあ
らわれている「インド」とは場所ではなく、仏教の源泉としての「ブッダ」を表して
いて、単なるビルマ仏教徒としての書き方であろう。宗教に関連して言えば、民族と
宗教という分類が前提となっているのだが、「カレン」という民族が宗教より上位と
なるのはいつのことか。

→ここでは「名づけ」「名乗り」とその中間の過程を見ていくことにより、「カレ
ン」を相対化した。民族という概念を自明に捉えすぎている、という部分は考え中で
ある。また、民族が宗教より上位となるのは1930年代であり、そこが題材となってい
る。(池田)

質疑応答(一部コメント含む)

○筆者はカレン人であるが、カレンという意識を主題とせずに、書いたような著作は
ないか。(弘末)→ありうるが発見できていない。(池田)
○バプティスト派カレンによって書かれたカレンの歴史および彼らのカレン観が流布
しているようだが、仏教徒カレンによって書かれた歴史はどのような状況か。(弘
末)→戦後、1960年代に当初書かれた歴史の改訂版などが出されているが、仏教徒カ
レンの場合は書き手が限られていた。仏教徒カレンはカレンとしての意識が強くな
かった。(池田)
○ 1980年代、タイのカレンの村で調査をしたが、そのときの村人は「カレン」を知
らなかった。彼らは精霊信仰で、キリスト教徒カレンとは一緒にくくられないものと
思っていた。今回の発表の場合、仏教徒とキリスト教徒が1930年代にひとつになって
いく、という点がとても重要。二つの仏教徒カレンが出てきたが、彼らは言葉の違い
以外に仏教に対する認識の違いを持っていたのか。(吉松)→認識の違いはよくわ
かっていない。仏教徒カレンという括りがあるようだが、これもよくわからない。
ミャウンミャ事件に対する聞き取りの結果によれば、デルタに居住するカレンも現在
では東部のカレンを意識している。1930年代には両者の交流はほとんどなく、彼らが
どこの仏教を意識するかといえば、隣村のビルマ人仏教徒の仏教である。19世紀半ば
以降、東部にはカレン化を志向した仏教があったのではないか。(池田)
○相対的に少数のキリスト教徒が声を上げるようになったのは、教育、経済力、民主
主義に調和する世界観を持っていたことが理由といえるか。(吉松)→そのとおり
で、大きなネットワークを持っていた。(池田)
○王統史について。ジャワ・マレーでも基本的には宮廷の中から生み出されたもので
ある。ビルマにおいて宮廷との関係はどうなっているのか。また、王統史の背景、カ
レンの宮廷または王統史との関係、宮廷のない中での王統史の意味、自称と他称の問
題、たとえばジャワではジャワ人意識が確立された中での王統史であるが、カレンは
どうか。(青山)→カレンに宮廷は存在しない。「昔あったが今はない」という意識
の共有が見られる。1930年代になぜカレン史が出てきたかについては興味深いが詳細
はわからない。タイやベトナムなど他国でもナショナルなものが出てきている。(池
田)
○1942年カレン=ビルマ紛争でカレン人の被害によりカレン人という意識が高まると
いうことだが、王統史との年代は逆になっている。意識の高まりで王統史が出てきた
のではないとすれば、意識の高まりについてはどう考えるか。(青山)→42年以降の
逆照射で、カレン意識がすくい出されて高まった、という説明だが、さらに研究が必
要。(池田)
○優れたカレン王国の存在を作り出すという戦略は成功したのか。(青山)→三つの
カレン史とも今でも流通している。政治的局面ではソオ・アウンフラの書いたもの
が、とくにKNU(カレン民族同盟)などでは強く影響している。これら三つのカレン
史は目的が少しずつずれているのであるが、三つを融合させようという動きもある。
(池田)
○三つのカレン史の内容比較における4つの要素重視の意味がわからない。個別に分
析するより本の全体として言いたいことを表すほうがわかりやすい。ナショナリズム
の時代に民族意識が高まるというのは先入観であって、テキストの中から引き出すべ
き。王統史とプアカニョウの歴史とは性格が違う。民族との関係で、何のための王統
史かを明らかにすべき。(川島)→例えばウ・ピンニャは「王統史(ヤーザウィ
ン)」というタイトルをつけているが、彼が書きたかったのは歴史(英語の副題参
照)。王国の伝統を軸に記述しているが中心は「民族の歴史」で、ある種の権威付け
のために「王統史」を使用したと考えられる。4つの要素重視の意味はここから「民
族」を述べようとしたもの。(池田)
○ビルマ語で「民族」にあたる言葉は何か。王統史は民族という言葉を使わずに書け
るはずのもの。それぞれにあらわれた民族起源などを明示すべき。→民族は「ルー
ミョウ」で人の種類のこと。この言葉が頻繁に使用される。(池田)
○宗教という枠組みはキリスト教によって導入された。その結果差異化が進み、3つ
に分化したと考えられる。㈰キリスト教徒カレン㈪仏教徒カレン㈫どちらでもないカ
レン(言語・宗教・地域差など)。そしてそれぞれの正当性を確立するため歴史をよ
りどころに文字化したテキストを作成した。これも「王統(近代と伝統の融合)」
「救済(イスラエルのディアスポラという概念)」「テキスト化されない歴史(口頭
伝承)」というように分けられる。そして流用され変形していった。今回の報告では
上述の㈫のカレンの動きが消えてしまうので、このようなまとめ方はどうか、という
提案。(鈴木)→正当性確立に関しては、キリスト教導入による動きが大きく、仏教
徒カレンでの動きは一部であった。(池田)
○1930年代、他国とも共通しているが、歴史という意識は出てこない。1927年(執筆
完了)に少数民族の側が歴史を出しているということは、その時期に少数民族が歴史
を意識したということ。ビルマではなぜ時期が早いのか。カレンの身に起こったこと
は何か。(桜井)→19世紀はじめごろからバプティスト派の宣教が行われたが、仏教
徒の中にも何かあったのでは、という仮説を立てている。この時期に東ポー語での貝
葉文書が存在したのだが、僧院の場所とバプティスト派宣教の場所が重なっているこ
とから、カレンに危機感を覚えた僧侶が書いたのではないか(仮説)。カレンに危機
感を覚えた人々が1930年代にカレン史を書いたのかもしれない。(池田)
○キリスト教徒カレンが主流になるという危機感があらわれたこと、つまり宗教とい
う概念が生まれ社会分化が起こるのは1920年代のこと。また同時期にエリートとして
のカレンが出現している。キリスト教徒エリートと仏教徒大衆という対立を具体的に
描けると面白い。(桜井)
このほか、パゴダ縁起や王統史など印刷媒体が出た時期との関係、タイでの地方史編
纂、王統史のはじまりや使用されている暦、などいろいろな視点から活発な議論が行
われた。
(文責:斎藤紋子)
「発表者よりのコメント:関東例会でのコメントと批判をもとに大幅な報告趣旨の修
正を施し、12月11日の東南アジア史学会の自由研究報告を行いました。関東例会に出
席のうえコメントと批判を下さった方々に記して感謝申し上げます。」

[報告2]
報告者:伊藤未帆(東京大学大学院)
題目:「ベトナムにおける少数民族幹部養成政策と民族寄宿学校の役割—1990年代の
『第7プログラム』に関する検討を中心として—」
コメント:桜井由躬雄(東京大学)

報告要旨

本報告は、「ベトナムにおける少数民族幹部養成政策と民族寄宿学校の役割—1990年
代の『第7プログラム』に関する検討を中心として—」という題目を設定し、ベトナ
ムのドイモイ政策以降の少数民族幹部養成政策と民族寄宿学校の目的、および実態を
検討する内容であった。
報告者の基本的問いは、ベトナム政府がドイモイ期における少数民族政策として「多
民族の尊重」という、いわば「多文化主義的」とでもいえる理念を掲げる中で、具体
的な少数民族教育政策の制度化を通じてどのような多民族社会のあり方を模索してい
るのかという点にある。そこで報告者は、㈰ドイモイ期における民族政策理念が教育
政策の面で制度化された事例として「民族寄宿学校」を扱い、ベトナム政府が目指す
多民族社会のあり方の具体的肖像を明らかにすること、㈪その上で、少数民族社会の
側でこのドイモイ期の民族政策理念をどのように受け止めているかという状況を示
す、という二点を研究の目的とした。また本研究は、報告者自身によるランソン省チ
ラン県におけるインタビューおよびアンケート調査に主拠している。
まず第1節の「ベトナム政府によるドイモイ期の民族政策と少数民族幹部の養成」で
は、「キン族中心主義」から「少数民族主体」へというベトナム政府の民族政策の方
針転換が検討された。ドイモイ期における民族政策への転換は、1989年11月の「政治
局第22号決議」、1990年3月の「閣僚会議第72号決定」を経て実現されるのである
が、そこでの課題は、平野部のキン族幹部派遣という従来の構造をいかに転換し、
「地元」「少数民族」幹部をどのように養成していくか、ということであった。1980
年代末にそれまでのキン族幹部派遣構造が限界を露呈し、さらにドイモイ政策の導入
で山間部地域の経済・社会状況にマイナスの影響が顕在化していく過程で、ベトナム
政府は「地元」「少数民族」幹部を養成する必要性を強く認識する。そこで、教育訓
練省によって「民族寄宿学校」という新しい学校制度の建設が本格的に着手されるこ
ととなった。この背景には、基層レベルの「地元」幹部の育成を目的としてきた、山
間部地域における旧型「幹部養成学校」(「民族青年学校」)の存在があった。
第2節「『第7プログラム』実施による『新しい』民族寄宿学校の建設」では、少数民
族地域における教育の強化と発展を目指す、「第7プログラム」と呼ばれる教育政策
が検討された。「第7プログラム」の目的とは、「民族寄宿学校」の設立と拡大で
あった。具体的には、旧型の「幹部養成学校」の廃止と「民族寄宿学校」としての統
一的制度の構築、少数民族地域における新たな増設を通じた全国的なネットワーク化
である。この「新しい」民族寄宿学校の内容としては、入学対象として「第三地域」
(最貧困地域)の少数民族を最優先すること、ベトナム語を教授言語とし普通教育と
同カリキュラムを採ること、教育課程についても普通教育と同等とし高等教育機関へ
の進学を目的とすること、学費を無償化した上で生活費に充当する奨学金の授与と
いった経済的優遇措置、が挙げられる。
第3節「『新しい』民族寄宿学校の二つの機能」では、民族寄宿学校制度の現状と成
果が検討された。第一の機能は、「僻地」の「少数民族」を直接・間接的に国民教育制度
へと動員させたことである。報告者は、ランソン省チラン県の事例に拠りつつ、経済
的優遇措置などを通じて、民族寄宿学校が「第三地域」における少数民族の教育状況の
改善に貢献している状況を明らかにした。直接的にみると入学者数は依然として限定
的であるものの、民族寄宿学校をめぐる様々な優遇措置の実施を通じて、少数民族社
会内での認知度が高まっている状況が間接的影響として評価された。第二に、エリー
ト養成学校としての機能である。報告者は、大学や高等専門学校への「比較的」高い合
格率や、推薦入学制度に対する優先的割り当て措置など高等教育機関への進学傾向に
加え、高等教育機関を卒業した生徒が地元へUターン就職を望む傾向が高いことを挙
げ、民族寄宿学校が本来の目的である「地元」「少数民族」幹部の育成に積極的な効果
を挙げていると分析した。
第4節「『新しい』民族寄宿学校の限界」では、一方でこの政策が抱える制度的限界が
検討された。第一に、「僻地」の少数民族に特化したことの限界である。入学の対象
を「第三地域」出身者に限定したため、結果的に他地域の生徒との間で、民族寄宿学校
をめぐる認識に温度差が生じた。こうした認識のズレは、社内での選抜競争の激化な
どを背景に「第三地域」内部でも顕在化しつつある。第二に、エリート学校としての限
界である。卒業生の高等教育機関への進学動向を見ると、進学者は地元の高等専門学
校が中心で、ハノイなど都市部の大学への進学は依然として困難であり、また推薦入
学についても実際には全体的な合格枠が限られている。さらには、民族寄宿学校の卒
業生であっても、必ずしも地元で就職する義務や規定はないことから、近年、地元以
外での就職を望む生徒の出現といった兆候も指摘された。
最後に、ドイモイ期民族政策の理念と民族寄宿学校についての評価を検討し、本研究
の結論をまとめた。すなわちドイモイ期の「多民族性の尊重」という民族政策理念
は、「地元」「少数民族」幹部養成のための民族寄宿学校という教育制度の上に具現
化された。この民族寄宿学校は、「地元」「少数民族」幹部の育成に貢献するのみな
らず、少数民族に対する優遇政策を可視化させたことにより、この学校の存在を通じ
て「僻地」の少数民族が国民教育システム全体を見通せるようになったという点にお
いて、教育制度面での「少数民族性」のシンボルとして認識されている点を指摘し
た。この「民族寄宿学校」に見られるように、国家の側から「少数民族性」を提示す
るという手段によって、制度を多元化させることなく少数民族を国民教育制度へ動員
させようとする方法が、ベトナム政府が目指すドイモイ期の多民族社会のあり方であ
ると結論した。その上で、こうしたあり方を今後「ベトナム型多文化主義」と位置づ
ける可能性について示唆的見解を述べた。(文責:田中健郎)