« 読書会のご案内 | | 海域アジア史研究会4月例会のお知らせ »

2005年1月関東地区例会報告要旨

東南アジア史学会関東地区1月例会
2005年1月22日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
出席者:27名

ミニシンポジウム「東南アジアの近代正書法」

基調報告:石井米雄「東南アジアにおける正書法と国民国家の成立」
[報告要旨]
 本報告は、今回のミニシンポジウムの基調報告として、正書法(orthography)を考
えるときに何を考えなければいけないかという論点を提示する。
 正書法は綴りのことではなく、「正しく書く」つまり「正しさ」が問題となる。そ
こで「正しさ」と何かということが議論になる必要がある。正書法の確立は、近代統
一国家成立と国語の成立と関わってくる問題である。
 例えばタイにおいて、二つの政権がある場合、どちらが正しいかという選択が正書
法の問題に入り込むこととなる。近代統一国家成立以前、もしくは成立しつつある時
期のタイの地方文書を見て行くと、ある種の枠はあるものの綴りに揺れがあるのが見
てとれる。インドネシアでは、日本占領後にオランダ語が追放されて日本語が教えら
れ、また、インドネシア語が普及する。1940年代以降、インドネシア語の普及に伴い
辞書の編纂が行なわれていく。
 正書法の制定者はだれかという問題を考えると、例えばイタリアではフィレンツェ
にAccademia della cruscaという知的グループができ、1612年に最古の辞書を作成し
ている。フランスでは1635年にアカデミーフランセーズが設立され、1694年にフラン
ス語の純化を目指す辞書が刊行される。イタリアとフランスではアカデミーが正書法
制定に携わったことが分る。
 タイにおいては国家が担い手となり、教育省が1891年に『タイ国語辞典』を編纂す
る。1927年には教科書局によって『タイ語辞典』が編纂される。日本では1934年に国
語審議会が発足した。タイと日本は国家が正書法に関わっている例である。
 イギリスを見てみると、18世紀半ば頃にはイタリアのアカデミーの存在は知られて
おり、フランスの状況も知られていたが、両国のようなアカデミーの存在はなかっ
た。1755年にサミュエル・ジョンソンが中心になって辞書が作成された。また、ドイ
ツのDuden、アメリカのWebster等は出版社が正書法制定を行なっている例である。イ
ギリス、ドイツ、アメリカの例は、ある学問的権威が正書法に携わっているものであ
る。
 以上見てきたように、先ずは国語の確立と国語の表記を誰がやるのか、という問題
を考える必要があることがわかる。そして、正書法つまり不統一を統一するという作
業の中で矛盾が生まれ、改定の問題が起こる。「正書法」が改定されるには、変わる
方向があることが指摘できる。
 正書法の改定について、ドイツでは1999年にはphがfに変えられる等の改定があ
る。また、つい数年前にも、大文字で書いていた名詞を小文字にすることを決めた
が、反対も起こっている。また英語の事例としては、doughnut(英)、dounut
(米)のように、同じ単語でも綴りが定まっていなかった例がある。また、nightを
niteとふざけて書くような場合もある。
 タイでは、ピブンが[ai]の母音に対応する文字二つを一時期一本化したことがあっ
た。またタイ語にはsの音に対応する文字が5つあるが、やはりピブンが無駄な使用し
ない文字はやめてしまおうと一本化したことがあった。この例からは、誰がどういう
方向に正書法を決めたかという問題点が指摘できる。また、地方文書においては様々
な綴りが使用されている例が多く見受けられるが、これも現在では正書法が定められ
ている。正しさを多くの人に使ってもらうためには簡単な方がよいという改定の方向
性が見られ、中国の簡体字も同じような例である。しかし、ピブンが行なったような
正書法改定は語源を無視したことになるという問題が出てくる。
 その他の改定の例として、英語のadmiralという単語の例をあげると、もとは
amiralという綴りであったものを、ある知識人が間違って「これはラテン語の
admiraleだ」と発言したことから、それが正しい綴りになってしまったものである。
正書法の決定には時々このような突然変異が起こり、正しい方向にばかりいくのでは
ないことも指摘される。
[コメント及び質疑応答]
「ヨーロッパではアカデミーや辞典出版社が正書法に携わっていたということだが、
日本の国語審議会のような国家関与は何に淵源があるのだろうか。日本、中国、イン
ドネシア、ベトナムでは国家が規定する綴字が正書法になっている。アジアにおける
正書法とヨーロッパにおける正書法は違うのではないか。正しさの権威が国家にある
国とそうではない国があるのではないか」(桜井)
Q.「地方文書を見ていくと、正書法は必ずしも国家と関係がないのではないか。これ
が正しいと言った人が正しいとされる場合がある」(川島)−A.「しかし、例えば子
供の言葉遣いの間違いを指摘する人は何を『正しさ』と捉えているのか。必ずしも国
民国家と結び付けて考える必要はないが、『正しさ』というものがあることが前提に
なる。タイのアカデミーができる前は正書法には揺れがあった。そのような状況の
中、タイのサンガはパーリ語だけで文章を書いており、タイ語を書くチャンスは少な
かったが、タイ語への翻訳の際に規則はあったことから、『正しさ』の権威があった
ことは考えられる」
Q.「正書法は綴りの問題ではないと指摘されたが、何が正しいかというポイントは誰
が正しさを判定したか、なぜそう判定したか、ということになるのか」(押川)ーA.
「その点が重要になる」
Q.「orthographyの“ortho”は権威と正統性の二つの意味を持つと思われるが、この
二つは区別して考えるのか。権威は外から決められるものだが、書く人自身が『正し
い』と感じる場合はどうなるのか」(桜井)ーA.「正書法は共時的な議論であり、権
威と正統性は区別しない」
「フィリピンでは国家というものが存在しない時期、複数の権威が存在した。また、
アジアとヨーロッパの区別はそれほどする必要はないのではないか」(川島)
「nationとstateを分けて考えた方がよいのではないか。サミュエル・ジョンソンは
個人とはいえ、『これがEnglishだ』という意識のもとで辞書編纂に携わったと考え
ることができるのではないか」(青山)

第一報告:奥平龍二「ビルマ(ミャンマー)語の正書法について」
[報告要旨]
 本報告は、ビルマ語の綴字法典と正書法典編纂の流れを分析したものである。ビル
マ語は現在でも言文一致でなく、発音と綴字の違いは国内においても大きな問題であ
る。本報告では、綴字法典編纂と正書法編纂への動きの背景には仏典の解釈の問題が
大きく関係を持つことが示唆される。
1.ビルマ語文字の変遷
 ビルマ文字は西暦11世紀までに確立されたと考えられる。サンスクリット語、パー
リ語、モン語、ピュー語と接触し文字を選択していっただけでなく、ビルマ語独自の
母音に対応する文字も作られた。
2.ビルマ語綴字法典の編纂と活用の歴史
 パガン時代から綴字法典は存在し、タウングー時代のタールン王(1629-1648)はビ
ルマ語の綴字に大きな関心を持っていたといわれる。マハーダンマヤーザディーパ
ティ王(1733-1752)治世、Wannabodhana That-inという綴字法典が編纂される。さら
にコンバウン時代には多数の綴字法典が編纂された。
3.ビルマ語正書法の標準化
 以上のように多数の綴字法典が編纂されてきた中で、ビルマ語正書法の標準化が行
なわれていく。パガン、ピンヤ時代の初期の諸王は文字の区別と韻の正しい綴りを遵
守したが、タウングー時代末期まで正書法の標準の性格については不明である。ただ
し、これらは石碑文などの信憑性の高い文字資料により推測し再構築が可能である。
 現代のビルマ語辞典(1991)及び英緬辞典(1993)に例証される正書法以前のビルマ語
正書法にはいくつかの改革がある。しかし、ひとたび書き方が確立されると、その後
の発展の歴史は改革の連続体に過ぎない。
 第一期(Old Written Burmese)として12〜13世紀が想定される。ナラパティスィー
ドゥー王(1174-1211)の即位後に正書法の標準化が起こったと想定される。この時期
は、それまでのモン語中心からビルマ語が使用されるようになった時期である。
チャースワ王(1234-1299)の要請により、最初のビルマ語綴字法典が編纂された。
 第二期(Middle Written Burmese)の15世紀末には、一つの標準的正書法として15世
紀始めに編纂されたThatbinnyanan-kci-thatpounという綴字法典の権威を後代のイン
ワ諸王が承認した。古い書き方におけるlの文字がrまたはyに変わる等の変化が起こ
り、15世紀末頃に完成する。
 第三紀(Early Modern Written Burmese)は19世紀末〜20世紀前半と想定される。
1878年、ビルマ最後のティーボー王(1878-1885)の命により、28名からなる正書法検
討委員会が開催され、綴字の標準化問題が討議された。既存の18種類の綴字法典を標
準的正書法典として公認した。ここでの最も決定的な変化は、介子音の口蓋化及び長
母音と短母音の母音符号の厳密な区分、第2と第3声調記号の明確化である。
 英領植民地時代の正書法に関しては不明だが、恐らく教科書委員会という一つの権
威による正書法の規定が行なわれていたと推測される。
 第四期(Modern Written Burmese)は独立後〜現代と考えられるが、ビルマ語正書法
は既におおむね第三期のEarly Modern Written Burmeseで完成されており、あえて区
分する必要性はない。新設ビルマ語委員会のもとで、綴字の若干の修正、既存のもの
の手直し程度が行なわれる。
4.伝統的綴字法典の特徴
 伝統的綴字法典の特徴は、まず、学識者個々人による「正書法」編纂の試みがパガ
ン時代以降コンバウン時代末期まで行なわれてきたことである。もう一つの特徴は、
国王の「正書法」問題への関与である。王室顧問官が推薦する複数の綴字法典の中か
ら最終的に王が1〜2の異なる形式の法典を「正書法典」として選択し権威付けていた
ようである。しかし、最終的な一つを選ぶところまではいかなかった。特にコンバウ
ン時代のバドン王は綴字法典に関心を示し、綴字の間違いは最終的には仏典の語句の
解釈、仏教の理解に支障を来たし、人々の不幸を招来すると詔勅の中で述べている。
5.近代正書法の成立
 ネーウィン政権時代(1962-1988)、政府・教育省によって正書法の成立が進められ
た。ネーウィン自身が1964年に「『書く時は正しい綴りで書き、読む時は発音通り
に』という伝統的な規則は困ったことだ」と発言しており、辞典・正書法委員会が結
成されて「正書法」編纂が開始されている。その後、組織は数回にわたって改編し、
正書法典編纂へのステップが踏まれてきた。
 これら編纂の基本理念は、a.伝統的文字の保存、b. 信頼できる参考文献、c.明白
な由来と明確な意味、d.使用頻度の多さの4点である。しかし、「規定書」としては
未だ定まらず「指南書」であるに留まっていた。
 この「指南書」から「正書法」の編纂が意図され、1980年代以降検討会が開催され
た。1981年のネーウィン社会主義計画党総裁の訓話では「『書く時は正しい綴りで書
き、読む時は発音の慣例に従って』を厳しく遵守すべし」とあり、先にあげた1964年
の訓示と矛盾した発言がなされている。
 正書法の編纂過程では、僧侶・一般人からのアイディアやアドバイス及び批判に照
らし合わせて、全国民が一致して遵守できる法典が目指される。
 現政権下(1988年以降〜現代)の正書法と辞典として、政府・教育省ビルマ語文協
会によって1991年以降の『ビルマ語辞典』が編纂され、『緬英辞典』がそれに続く。
1996年には『綴字法典』が出版されるが、これは改訂の余地をまだ含んでいる。
(おわりに)
 以上、ビルマ語の綴字問題には伝統的に公的機関・王が関与し、その背景には仏典
をきちんと読むためには間違った綴りは仏典の理解に支障をきたすという意識が見ら
れる。1986年の正書法典をもって国の統一的な正書法とされているが、改訂の余地が
まだある。また綴字法は辞書作りにも関わり、未だ「正書法」の決定版は出ていない
という状況である。ビルマでは古きにたずねる傾向があり、綴字法典の作成も、現代
に合わせることが志向されつつも、古いところを参照している。このことは、今にい
たるまで言文一致が生まれない理由ともなっている。また、正書法と国民統合との関
係はあまり触れられず、国民統合の面から綴字法典の編纂、正書法への動きをどう見
るかは今後の課題である。ビルマはパーリ化した地域であり、文化的なアプローチや
言語学的に見て行く必要もある。
[質疑応答]
Q.「王朝時代に、王が正書法に関心を持ち、また仏典とのかかわりがあったというこ
とだが、他方で世俗または散文の面では、当時の知識人たちが関心を寄せていたとい
う資料はあるか」(岩城)−A.「綴字法典の編者はほとんど王室と関係ない学識者や
僧侶であり、一般的にも正書法に対して関心があったのではないかと考えられる」
Q.「バドン王時代にナーガリ文書をビルマ語に翻訳したとのことだが、ナーガリ文字
とは何語だったのか」(青山)−A.「デーバナーガリ文字を指し、サンスクリット語
だったのではないかと考えられる」
Q.「ティーボー王時代に王室内の正書法関係検討委員会が王に提出した36点の綴字法
典から最終的に18点が選ばれたとのことだが、18点とは18の綴字のシステムが存在す
るということか、それとも18点で一つのシステムを構成しているということか」(青
山)−A.「全ての綴字が異なるシステムが18点存在するということではなく、異なる
法典間では同じ綴りの単語も含む。どれか1点のみが採用されるという形ではなく、
この18点を比較照合しながら使用するという形が取られた」
Q.「1980年代以降については、正書法の議論というよりもかなりの部分が語彙の議論
になっているのはどういうことか。ビルマ語において語彙の問題を考える必要がある
ということか」(青山)−A.「ビルマ語には同音異義語が多く、綴字は語彙の問題に
関係する。ビルマにおいて正書法は未だ確立しておらず、そのため綴字の問題として
論じる部分が多くなる」
「18点の綴字法典のどれでもよいということになれば、正書法にならないであろう」
(石井)
「複数の辞書があって、そのどれを使用してもよいという意味だろうか」(桜井)
「しかし、バドン王時代に、綴字の間違いを犯した者は国務院にて刑罰に処すべしと
王の勅令にあるくらい厳しいとなると、18点も綴字法典があったら不都合なのではな
いか。そこで言う『間違い』の定義は何なのか」(石井)
(文責:井上さゆり)

第二報告:菊地陽子「東南アジアの「近代正書法」:ラオスの場合」
[報告要旨]
1. はじめに
 ラオスでは、現在まで何度か正書法体系の改訂が行なわれており、現在の体系が全
国的に知られるようになったのは、ここ20数年のことに過ぎない。現在でも、各人の
好みや世代によって表記にばらつきがある。また、ラオス文字が表音文字であるた
め、発音の変化に影響されて正書法が揺れやすいという特徴が指摘できる。
 ラオス語は、タイ・カダイ語族タイ諸語南西タイ語群に属する言語であるが、その
詳細な文字史は不明である。現在では、基本子音字27文字と基本母音記号28種類、お
よび声調符号4つを用い、原則として1音が1文字ずつに対応する表音文字である。
2. ラオス語正書法体系確立の沿革
 ラオス語の表記をめぐる問題の発生は、1918年1月10日にフランス植民地政府のル
アンパバーン弁務官メリエールがラオス文字に替わってシャム文字を採用することを
提案したことによる。同年8月4日には「ラオス語の表記体と正書法を確定する委員会
(ノルドゥマン委員会)」が開催されたが、ここではシャム文字の採用に反対するレ・
キ・フォンやペサラートの主張に対する検討がなされ、結果的にシャム文字の採用は
見送られた。同様の委員会は1923年10月23日、1929年10月1日にも開催されたが、そ
の結果についてはよく分からない。この間、1926年には理事長官布告においてラオス
語による教科書の作成が指示されていたようであり、教育問題への関心から正書法の
問題が発生していたことがうかがえる(教科書は1932年に出版された)。
 次いで1932年には、ペサラートを会長とする仏教協会が独自にラオス語正書法の確
定を行なった。ここでは、ラオス文学研究を刷新し、仏教聖典の理解を容易にするこ
とが目的とされ、既存のラオス文字に14の新しい文字を付け加えることで、サンスク
リットやパーリ語の語源が明確に判別できるような表記法の確立が目指された。しか
し、この正書法が教育や一般社会において使用されることはなかった。
 1937年7月21日、植民地政府のラオス教育長官テュリーが新たなラオス語正書法検
討委員会の組織化を提案し、翌年、「ラオス語表記体及び正書法確定推進のための委
員会」が実施された。同委員会では、教育の普及を重視する立場からできるだけ簡単
な正書法を主張する意見と、仏教協会方式の正書法を主張する意見の間に対立が見ら
れたが、1938年10月にはできるだけ簡素化された正書法が委員会で承認され、これに
従って39年8月9日、理事長官布告によってラオス語の正書法が制定された。ただしこ
こでは、仏教協会や仏典においては仏教協会方式の正書法を用いてもよいとされてい
た。しかしこの正書法も、そもそもの識字率の低さや出版活動の未発達などの理由に
より、あまり普及しなかった。
 一方で、ラオス語のローマ字化を推進しようとする動きが高まっていた。1942年9
月1日の『ラーオニャイ』新聞において、習得のしやすさ、フランス語を学ぶ際にも
有利であることなどの理由からローマ字化推進の主張がなされた。43年にはインドシ
ナ総督ドクーやジョルジュ・セデスなどもローマ字化推進の意図を表していた。ロー
マ字化が支持された理由としては、ラオス刷新運動の一政策としてタイの文化的影響
を遮断する効果が期待されたこと、子供たちの教育に適しているという点でラオス人
エリートたち(例えばスパヌウォン)の支持を得たこと、が指摘できる。ただし、ペサ
ラートのように、ラオスの文化価値が損なわれるという理由からこれに反対する意見
もあった。44年6月にはローマ字化の方法が確定したが、その決定直後に日本軍が侵
攻したため、結局採用されずに終わった。
 独立後の王国政府は、47年に憲法においてラオス語をフランス語と並ぶ公用語と定
め、翌年には「ラオス語正書法の基本的規則協議のためのラオス文字委員会」を開催
した。翌49年には、国王令によって「発音どおりに綴る」、すなわちできるだけ簡素
な正書法を原則とすることが規定された。51年に設置されたラオス文学委員会でも正
書法の議論がなされ、ここでも「発音どおりに綴る」のがラオス語の伝統である、と
の見解が出された。しかし、同時期の教育言語がほぼフランス語だったこともあっ
て、統一された正書法体系が普及するまでには至らなかった。
 一方パテート・ラーオにおいては、1967年にプーミが『ラオス語文法』を著し、音
と文字を一対一で対応させるという原則に基づいて正書法を作った。以後、解放区に
おいてはこの正書法を用いた教育が行なわれると同時に、識字運動が推進された。
 現政権成立後は、全国においてプーミの正書法による識字教育が行なわれた。1994
年には教科書改訂委員会が正書法の統一を行ない、2000年にはプーミの文法書を改良
した『普通教育用 現代ラオス語文法』が出版された。ただし実際は、現在でも世代
によって表記法がばらばらなのが実情である。
[質疑応答]
Q. ルアンパバーン方言ではaiとauの発音を区別するが、これが正書法に採用されな
かったのはなぜか(園江)→A. この点についてはほとんど議論された形跡がない。
Q. 僧侶及び仏教が果たした役割はどうであったか。彼ら自身も彼らなりに近代への
対応を模索していたはずであり、そうした動きの影響はなかったか。また、仏典の記
述についてはどうであったのか(笹川)→A. マハーシラー及び仏教協会を除いて
は、フランス史料を見る限り目立った動きはない。ラオスでは仏典をタム文字で書い
ていたため、ラオス文字は一般教育だけに関わる問題と見なされたのかもしれない。
Q. 表音文字であることが問題というより、「発音どおりに綴る」という原則を立て
たことが問題であると思われる。様々な発音と表記のずれを統一することが問題と
なったと思われるが、時代による発音の変化が問題となることはなかったか(川島)
→A. 特に問題とされたのは、タイ語の発音の影響。

第三報告:舟田京子「マレー語の近代正書法」
[報告要旨]
1. 近代以前の文字
 マレー語(インドネシア語)の場合、近代以前に数種類の文字が使用されていたこと
が特徴の一つである。まずパラワ文字があげられるが、これは3〜5世紀頃に使用され
た、南インド・スリランカの文字に類似する前期パラワ文字と、7〜8世紀に使用され
た、カウィ文字に類似する後期パラワ文字に分けられる。前者についてはカリマンタ
ンのクタイの4世紀頃の碑文やジャワのタルマの4世紀末-5世紀の碑文が知られる。後
者については、683年のスマトラのクドゥカンブキット、686年のバンカ島のコタカ
プール、732年の中部ジャワのチャンガルなどの碑文がある。
 ジャワ語の文学や宮廷においてはカウィ文字が使用された。前期カウィ文字につい
てはスマランの750年の碑文などが知られる。後期カウィ文字は925年から1250年まで
の間に、大部分が東ジャワで発見されているが、バリ、スンダ、スマトラのごく一部
にもみられる。
 その後、13世紀のイスラム教の本格的到来以後、ジャウィ文字が用いられた。ブル
ネイで1048年の墓石、クランタンで1161年の墓石、アチェで1297年の墓石が発見され
ている。ジャウィ文字については、マレーシアでは現在まで一部で使用されており、
1938年にZa'baがその表記法を整備し、1949年に“Daftar Ejaan Melayu”を出版し
た。
2. 近代以降の綴り
 マレー語を初めてローマ字で表記したのは、1521年に来航したイタリア人アントニ
オ・ピガフェッタである。彼は会話をもとに書き取った約426語の単語集を作成した
が、ここでは(現代の表記と比較すると)語末のt、kや弱音のhが表記されない、eがa
に、rがlに、kがchに変わるなどの特徴がある。
 その後、1596年に来航したオランダ人C. de Houtmanも会話から単語を書き取り、
これが後に出版されたが、ここでの表記法はピガフェッタよりシステマティックでな
く、fがvに、wがvに、dhがddに変わるなどの特徴がある。
2-1. インドネシア国内
 その後、1608年にF. de Houtman、1623年にC. WiltensとS. Dancaert、1653年に
J.Romanなどのオランダ人が会話からの聞き取りをもとにした単語集・辞書を作っ
た。Romanの綴りには、syaをsja、uをoeと綴るなど、一部オランダ語の影響が見られ
る。
 1901年、オランダ植民地政府の依頼を受けたvan Ophuijsenがマレー語の綴字法を
作成した(オップハイゼン綴り)。これが、インドネシアにおける多少なりとも統一的
な綴字法の始まりであり、植民地政府の文書などにおいて使用された。ここではオラ
ンダ語綴りの影響が大きく、uがoe、syがsj、jがdj、yがjなどと表記された。
 1938年、民族運動の流れのなかで第1回インドネシア語会議が開かれ、新しい綴り
が提案されたが、日本軍占領により中断し、独立後、これを引き継いだ教育文化相ス
ワンディを中心とする委員会が、1947年に新しい綴りを作成した。ここではオップハ
イゼン綴りを基本としつつ、非合理的な箇所が改善され、oe→u、'→kなどの変更が
なされた。
 1954年には第2回インドネシア語会議において教育文化相モハマッド・ヤミンが新
綴り作成の決定を下し、これに基づいて57年に改新綴りと呼ばれる綴りが作成され
た。ここでは1音1文字の原則が採用され、合理的かつ学術的な文字が目指されたが、
その成果が公表されるにはいたらなかった。
 1959年、インドネシアとマレーシアの友好条約が結ばれたのを受けて、スラメット
ムルヨノ、シェッド・ナシール・ビン・イスマイルを中心とする委員会が結成され、
両国の統一綴りの作成作業が開始された。この背景には、独立直後のマレーシアにマ
レー語の専門家が少なかったため、マレー語の国語化にあたってインドネシア側の協
力を期待したということがあった。この新しい綴りはMelindo綴りと呼ばれたが、新
綴りを発表する前にマレーシア対決が起こり、国交が断絶したため、発表にいたらな
かった。
 その後もインドネシア国内では教育文化省言語・文学局において綴りの改善が進め
られ、1966年にLBK(言語・文学局)綴りと呼ばれる新綴りが制定された。翌年2月21日
にはマレーシアでもLBK綴りが承認された。しかし、インドネシア国内では反マレー
シア感情からLBK綴りへの反発が大きく、またアラビア語起源の綴りを改定すること
に対しても反対があり、受け入れられなかった。
 とはいえ、政治、経済、教育上の理由から両国の綴りの統一の必要性は高まった。
1972年、プンチャックで開かれたインドネシア語セミナーでこの問題が検討され、同
年5月23日には両国が共同コミュニケを発表して、言語・教育面での協力を宣言し
た。同年8月16日、「完全インドネシア語綴り」が発表され、12月29日には両国共同
の言語審議会(MBIM)が設立された。同審議会は、綴りだけでなく語彙の統一も目的と
し、現在まで活動を続けている。1975年には完全インドネシア語綴り一般指導書が出
版された。
2-2. マレーシア国内
 1701年にThomas Bowrey、1812年にW. Marsden、1820年にC.H. Thomsenが辞書や単
語集などを作成したが、一般には西洋人もローマ字よりジャウィを使用することが多
かった。
1848年にJohn Crawfordがジャウィからアルファベットへの転換を試み、1878年には
マレー連合州においてアルファベット表記システム作成委員会が設立された。同委員
会の提案した表記法は、MaxwellやShellabearの批判を受け、発表にはいたらなかっ
た。
1904年、Wilkinsonを中心とする委員会が学校教育のためにマレー語のローマ字綴り
を作成し、“Romanised Malay Spelling”を発表した。1914年にはR.O.Winstedtが
“Malay Grammar”を出版した。
 マレー人では、1933年にZa'baが初めて綴字法を作成し、1949年に“Daftar Ejaan
Melayu Jawi-Rumi”を出版した。これはWilkinsonの綴りを基礎としつつ、その誤り
を改訂したものであった。
 1956年には、54年の第2回インドネシア語会議の影響を受けて、インドネシア側の
改新綴りと対応する新しい綴りが作成されたが、発表にはいたらなかった。1972年に
は、先述の通りインドネシアと共同で作成したマレーシア語新綴りが作成され、発表
された。
[質疑応答・コメント]
・インドの文字の影響について。デーヴァナーガリ文字は北インドの文字であり、ま
た成立が遅いので、東南アジアへの影響はない。3〜5世紀に東南アジアに入ったの
は、南インド系のブラフミー文字と呼ぶのが正しい。(青山)←特に東南アジアに強く
影響した文字は南方グランタ文字であるとされる。(桜井)←グランタ文字は、タミル
語話者がサンスクリット語経典を表記するためにブラフミー文字を改良したもの。当
時はインドにおいても文字が体系的に確立していたわけではないので、より一般的
に、「東南アジアに入ったのは南方系ブラフミー文字」と理解したほうがよい。(青
山)
・カウィ文字については、文字としてはパラワ文字との連続性が強い。(青山)
・インドネシアの現行綴りにおけるsyという表記は、日本占領期における日本のロー
マ字(訓令式)の影響ではないか。(桜井)←1933年のZa'baの綴りでもsyが使われて
いる。ただし、マレーシア側の古い文書ではshの表記もある。(左右田)
・改新綴りにおける「合理性」とは、1音1文字で表記するということであるが、反
面、発音記号を付加するなど不都合な面もある。タイプライターで打つ際の利便性な
ど、「合理性」にも様々な方向がある。(川島)←改新綴りでは、文字を少なくして印
刷資源を節約するということが目的のひとつであった。(舟田)
・マレーシアの場合、ローマ字とジャウィのどちらを選択するかの決定が非常に遅い
(1950年代)。そこでローマ字が選択された理由は、印刷・出版上の利便性、習得のし
やすさ。(左右田)

総合討論
1. 他地域の諸事例
・カンボジアの場合:ラオスより2年早く、1916年に僧侶を中心とする辞書編纂委員
会が設立された。しかし、ここでは音韻重視の立場と語源重視の立場の対立があり、
議論がまとまらなかった。その後、1920年代に、若手の改革派僧侶を含めた新しい委
員会が設置され、ここでは語源重視の方針が定められた。辞書は1938年に出版され
た。独立後は、あまり大きな揺れは見られないが、1979年以降、恐らくベトナムから
の影響で、教育・出版界を中心に音韻重視の表記法を主張する人々も出てきている。
(笹川)
・ベトナムの場合:固有の文字を持たなかったために、ローマ字化が比較的容易で
あったという面がある。1930年代にフランス植民地政府が学校教育に力を入れたこと
が、クオック・グーの普及に貢献した。綴りの統一に関しては、1917年に発行された
『Nam Phuong(南風)』紙が先駆けであり、その後、1920年代を通じて小学校教科書で
使用された綴りが、ある程度標準化していったと思われる。現在のベトナム語の綴り
は、1954年に作られた言語委員会で議論されたものがもとである。ここでは、地方語
を表記する必要性に配慮した結果、1音1文字の原則は廃棄された。(桜井)
・フィリピンのタガログ語の場合、宣教師による聖書の現地語訳が早くから行なわれ
ており、それが後の正書法にも大きな影響を与えている。マレー語に起源をもつ言葉
が多いが、マレー語と表記を統一させようというような考えは見られない。(川島)
・ビルマの場合、植民地化や宣教師の活動が下ビルマからひろがったために、上ビル
マを中心とする「伝統的」な表記法と植民地期のエリートたちのそれとの間に齟齬や
断絶が見られるかもしれない(土佐)
2. 国家権力・権威との関係をめぐる議論
・いずれにせよ、正書法はコミュニケーション手段としてはむしろ不適(もしくは不
必要)である場合が多く、やはり権威による強制的な行為と考えるべきではないか(桜
井)←コミュニケーションにおいては簡略化が進むとしても、「正しい」区別の仕方
を維持するものとして正書法は必要(石井)←その言語を母語としない人々も巻き込ん
で「国民」を形成しなければならない場合に、そのような意味での正書法の必要性が
高まる。(笹川)
・誰が正書法を定めるのかという問題について、これを近代の植民地支配〜独立とい
う流れの中に位置付けるためには、国家(state)と国民(nation)を区別する必要があ
る。必ずしも国家とは関係のないところで、民族の統一的な「正書法」を作ろうとす
る意識が生まれる例もあり(例えば、民間の知識人による辞書の編纂など)、こうした
場合と、国家が正書法に対して権威・強制力を行使する場合とは区別して考えるべき
ではないか。(青山)←東南アジアの場合、独自の文字を持たず、他文明の文字を借用
してきたという歴史的特徴がある。その場合、正書法に対する要求がなぜ生じるかを
考えるためには、社会における文字に対する需要がどのようなものであるか、何のた
めに文字が必要になるのかという問題を考慮する必要がある(桜井)
・正書法に対する地方側の様々なレスポンスについても考慮する必要がある。インド
ネシアの場合、バタック語のようにインドネシア語の正書法を流用して地方語を表記
する例もあるし、ジャワ語やバリ語のローマ字表記におけるように、独自の「正書
法」を作り出す場合もある。(青山)←地方において中央の「正書法」を借用して自ら
の言語を表記しようとするような場合、どのような文字を借用するかは合理性や利便
性の問題ではなく、文明的価値観の問題になる。ベトナムの場合、知識人の間に漢字
志向からフランス語志向への転換が見られる。(桜井)←前近代におけるインド系文字
の流入も、インド文明に対する尊敬がその背景にある。(青山)
・マレー語におけるインド系文字→ジャウィ→ローマ字のように、使用される文字が
時代によって変化する場合がある。その場合、どの文字を選択したかということが正
書法の問題にも影響を与えている。ラオスやカンボジアにおける、語源重視と発音重
視という2つの立場の対立は、仏教経典を記述しなくてはならない大陸部諸国に特有
の問題である。これと比べると、マレー語の場合、聖典であるクルアーンはアラビア
語・アラビア文字でのみ書かれるものであるため、正書法に関する議論が比較的単純
である。(青山)
・言語学においては、「正書法」とはある言語を研究対象とするために体系的な表記
法を作り出すこと。特に地方語の問題を考える場合、この意味での「正書法」につい
ても考慮するべきではないか。(川島)←そのような表記法が権威を持ち得るかどうか
が問題。(青山)←正書法とは、ある特定の表記法が社会的・政治的に強制力を伴うと
いうこと。(桜井)←ただ、その場合、国家による強制が必ずしも成功するとは限らな
いし、正当性の源泉は国家だけではない。例えば宗教的理由から、国家が強制する表
記法を拒否して独自の「正しい」表記法を固持するような場合も考えられる。(川
島)←国家は、特定の表記法を強制することはできても、言語や文字に対する権威・
正当性は持ち得ない。(青山)←ただ、教育の場においては、国家権力の体現者である
教師が子供たちにとっては権威を持った存在でありうる。(左右田)
・この他にも様々な議論が出されたが、省略する。
(文責:國谷徹)