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2005年4月関東地区例会報告要旨

2005年4月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。


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東南アジア史学会関東地区4月例会
2005年4月23日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
報告者:桜井由躬雄(東京大学)
題目:「合作社の時代―バックコック 1960−1981」
参加者:34名

<報告要旨>
 本報告は、報告者が12年間12次に渡って調査を行ってきた、ベトナム紅河デルタの
一地域におけるある合作社の歴史を、インタビューを含む様々な資料・調査方法を用
いて検討するものである。どのように合作社が成立し、運営され、それを主体である
農民がどのように受け止め、行動していたのかを捉えている。この合作社はナムディ
ン省ヴバン県タインロイ社に位置するコックタイン合作社で、ズオンライ村、バック
コック村、フーコック村の3村、8つの生産隊から構成され、人口約3600(約1100戸)
を擁す。ある生産隊の一家あたりの経営面積を平均すると、雨季水田で約1800、畑
地が約240という農業規模である。
 合作社の成立に先立って1957年に土地改革が施行され、この時点で全ての村民が下
位中層化した。この頃の農業生産は、替工組と呼ばれる労働交換組織によって行われ
ていた。59年に人々が配分されて得た土地を再び手放して提供し、替工組を改変する
ことで、集団農業の合作社が成立する。合作社とは、土地と農具が社員の共有とな
り、生産物が労働に応じて分配される生産組織であるが、同時に、行政組織を代行す
る社会組織でもある。その最大の意義は農民の生活向上というより、抗米戦争への準
備、貢献であり、合作社は兵士動員(徴兵が社会的規制の中で行われたため、忌避
は選択肢の外にあった)、抗戦期の農業労働力の確保、内地防衛・後方の確保、
の役割を担った。
 合作社の規模と管理は、初級合作社期(1959−64)と高級合作社(1965−81)で大
きく異なる。初級合作社は、旧ソム(ソムは村の中の集落)の結合を基礎として作ら
れた。各生産隊の下には、ニョムと呼ばれる近隣共同体から成る組織があり、組織は
隊長によって決定された。隊長は労働内容にみあった労働点数をニョムに指示し、
ニョム内で労働配分、労働点数が分配された。どの家がどの労働を担当するかという
労働の配分を、近隣共同体であるニョムが決定することで、最も適当な労働力を便宜
にしたがって配分することが可能であった。
 初級合作社の成立時に関する農民の回想から、「合作社は人民が志願で参加する社
会主義的集団経済組織」であると規定されているものの、実際には合作社への参加に
は地域の社会的規制が働き、また時に強権が発動されたことがわかる。また初級合作
社になったことで、もち米や香米も食べられるようになった、母子家庭は大変助かっ
たといった評価もされている。
 65年には、それまで100戸弱で構成されていた初級合作社が、200−400戸を想定し
た高級合作社に再編された。第1次の統合はすでに61年−63年に起こり、この地域の
合作社は3つに再編され、その後64年には合作社数は同じなまま構成生産隊が組み換
えられ、68年の第3次統合時には、この3合作社はコックタイン合作社1つとなった。
その後10年を経て76年の第4次統合では、この地域を越えた他の2つの合作社とあわさ
り、行政単位タインロイ社と一致した範囲のタインロイ合作社となった。国家が組織
して作った大規模な合作社は、性格が異なり人間関係が希薄な地域を複数統合したこ
とで失敗し、5年後の81年にはもとの地縁組織を母体とするコックタイン合作社へと
戻って現在に至っている。
(ここまでで時間が不足し始め、この先は簡潔に述べられた。)
 高級合作社になった後も、生産隊の下には旧ソムの範囲にほぼ合致するニョム―土
着的な社会主義組織―が存在し続けた。近隣共同体、相互に信じあえる仲であるニョ
ムは、実質的な生産単位として、合作社がいかに改編されようとも時代を通じて存続
してきたのである。この時期の生活は非常に苦しかったが、当時の平等主義を評価す
る人々もいる。
 結論として次のようにまとめられる。合作社は生産増強のための組織であったもの
が、戦争遂行の組織へと変化した。同時に、土着的社会主義組織であったものが、国
家的な集団主義組織へと変化した。この国家的な集団主義である合作社制度と、個人
家族経済の間には、土着的社会主義組織ニョムが常に緩衝材として機能していた。合
作社時代に、人々は過大な戦争負担を耐え、それは75年以降も継続したため、サボ
タージュ、非合作社ビジネスが盛行となり、国家集団主義は解体へと向かう。その時
合作社は、初期合作社へと回帰し、土着社会主義化した。

<質疑応答>
 サボタージュというが、ニョムはなぜその時期になって初めてサボタージュしたの
か。高級合作社時代に管理体制の強化が起こったことと、どう関係するのか。(柳
沢)→ニョムそのものがサボタージュを起こしたわけではない、逆にニョムは流出を
防ぐ作用があり、ニョム制度があまり発達していない地域の方がサボタージュは多
かった。管理体制が厳しくなるのは戦争のための拠出が増加する65年以降。そしてサ
ボタージュが頻発するのは78−79年で、戦時体制の緊張の糸が切れたため。
 サボタージュの時期、75年には前線から多数の兵士が村に戻ってくるという、人力
の供給の問題があったのではないか。(柳沢)→72年頃に老兵が戻る、75年以降も青
年たちは南に留まり、カンボジア紛争・中越戦争に従事する。食糧供出が続くといっ
たことが問題で、人の流れはあまり関係ないと考える。
 合作社に全員参加しなければならなかったのは、村の結束が固かった、戦時動員で
団結が必要だった、人の自由の移動がなかった、などによると見てよいのか。(吉
村)→現在の村の下にある8つの集落ソムは、54年に再編されたもので、もとは15以
上あった。本来結合力が高い集団は、この旧ソムである。さらに、3−15戸のニョム
のレベルは、労働交換組織でかつ婚姻関係にあり、流動的ながらも地縁組織であり、
この伝統的集団が合作社の基礎となった。
 政府は合作社がいかなるものか、どう作るべきかをどのように人々に教育していっ
たのだろうか。(吉村)→県から、字が読める人、小学校へ行っていた人が呼び出さ
れ、3週間ほどの教育を受け、替工組を合作社にするよう指令を受けた。呼び出され
る人は、在地の党幹部が推薦した可能性もある。
 地縁の強さが一貫して強調されているが、ポンプ場建設による割り替えや統合があ
るのに、なぜ地縁の強さが浮かび上がるのか。戦争の存在と何か関係するのか。(広
末)→東南アジアは一般的に流動性が高い地域だが、ここでは日本と近似している。
村落の歴史が長く、集落の配置は設立当初からほとんど変化せず、人が住める場所が
少ないため家族の住地も同様である。商業的要因としては都市の発展が遅く、人の移
動が少ないことが挙げられる。戦禍による移動は47年から起こるが、54年に皆戻って
きてもとの場所に収まる。
 自分が行っているハイズオン省では商業的農業が盛んで、合作社はすでに解体して
いる。ハイズオン省とナムディン省の現状の差には、歴史的な要因があるのか。バッ
クコックはナムディン地域で一般的な例なのか。(岡江)→ハイズオン省などの国道
5号線沿線は港湾の街ハイフォンとハノイの流通経路にのることができるが、ナム
ディンではそれはない。村落手工業もハノイ、ハイフォン周辺の方が発達している。
商品野菜や畜産などの商品作物生産が盛んな地域と自給自足的地域があるが、バック
コックはその中間に当る。デルタのフロンティアには多い形態だと思う。
 ビルマでは地縁より血縁かと思う。地方出身の自分の経験からも、けんかしても離
れられない地縁の結束は確かに重要と思うが。(高橋)→地縁を基盤枠としているだ
けで、隣近所でもその中からセレクトしている。流動的ではあるが、コアは固定的。
 合作社は巨大化してうまく機能しなくなったが、日本では字を超えてもうまくやっ
ていると思うが。(高橋)→現在のコックタイン合作社の範囲も、以前は一つの行政
村・社であった。その範囲ではうまくいっているが、さらに全部で3つの合作社を統
合して大きな組織にした時、生産組織としては非効率であった。行政村としては、こ
の大きな組織はうまく機能している。
 農協の大規模化はどうか。(高橋)→商品作物が少ないので、日本の農協のように
はいかない。
 個人史についてだが、外から戻った人の活躍が目立つが、これはこういう人々を使
用しようとする意図が国家にあったのか、それとも外の知識を入れようとした村の意
図が働いたのか。また合作社幹部は共産党員でもある。サボタージュの時は先頭にも
立つ。どちらにつくかというフレキシビリティはどうしていたのか。(柳沢)→家族
のために働くことは地域の発展につながる。党員はかつての儒教エリートに入れ替
わっている。エリートであるからには地域、村のために頑張るのであり、経済発展と
共産主義がここでは一致していた。
 個別経営になったのでニョムが解体したのか。(岡江)→機能的説明としてはそう
言える。
 ニョムの形成過程に政策は存在したのか。地縁よりも親族の方が近しく思うだが。
(山田)→隊長がすべて把握することが前提であり、ニョムは公的に認められたもの
ではない。調査において表面化してきたのも最近である。遠くの親戚より近くの隣
人。
 土着社会主義では平等化の努力がなされたが、ニョム内のそうした平等には排他性
が働く可能性はないのか。ニョムを超えて平等性を保障する機能を持つものがあった
のか。(国谷)→排他的だったかどうかは不明、今は何とも言えない。しかしこの村
落では公田が多く、分配地の平均化、均質化は非常に徹底している。
 合作社のリーダーに女性がなるなどジェンダーの平等という印象を持ったが、女性
は54年まで学校に行かなかったという伝統があったのでは。(吉村)→文字が読めな
い人と履歴の話をするのは非常に難しく、文字が読めない人が女性には多いため、イ
ンタビューは大変困難であり、不明な点は多い。
(文責:小川有子)

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連絡先:関東地区例会幹事 國谷徹