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個人研究発表

チャム・バニの村落社会におけるターン・ムキとポー・アロワッ信仰
吉本 康子(神戸大学大学院)

 本報告は、ベトナムにおいて「回教徒」と位置づけられているチャム・バニの事例を取り上げて、イスラーム的な要素の受容によって生じた宗教的複合状況の実態と人々の宗教的自意識との関係について論じる。
 現在、ベトナムにはおよそ6万3千人(1999年の国勢調査による)の回教徒が暮らしており、その大半が「チャム」と呼ばれる民族カテゴリーに属す人々で占められている。チャム・バニとはチャムの下位集団のひとつで、17世紀から19世紀ごろにかけてイスラーム的な要素を受容したとみられている。チャム・バニの各村落には「ターン・ムキ」と呼ばれる礼拝堂があり、そこで人々が定期的に実修している「コーラン」の読誦を伴う礼拝は、イスラームのモスクにおける礼拝に相応するチャム・バニのイスラーム実践として一般的には捉えられている。
 しかし村落における人々の宗教実践のあり方を観察していくと、当事者たちはターン・ムキへの参拝やポー・アロワッに対する礼拝を「イスラームの実践」として実修している訳ではなく、またそうした行為を通していわゆるイスラーム共同体の成員としてのアイデンティティを形成しているわけでもないことがわかる。チャム・バニの社会は制度上、宗教職能者(ハラウ・チャナン)、「在家」(キヘー)という二つのカテゴリーで構成されており、ポー・アロワッに対する信仰とその実践のあり方は、男性の宗教職能者、女性の宗教職能者、男性の在家、女性の在家などでそれぞれ異なっている。ここで特徴的なのは、こうした分類に基づけば、「コーラン」を読誦し、その知識に基づいて儀礼を執行するのは男性の宗教職能者のみということになり、「在家」は儀礼の執行に必要となる供物の寄進などの行為によってその役割を果たしているということである。なお、ターン・ムキにおける儀礼には、ポー・アロワッだけではなく村落の各出自集団の祖霊に対する供養を目的とする過程がみられる。つまりターン・ムキへの参拝は、ポー・アロワッに対する信仰だけではなく、祖霊に対する信仰とも関連しているのである。
 チャム・バニを「回教徒」とみる外部のまなざしに対してチャム出身の知識人らは、チャム・バニの宗教はイスラームではなく、同じチャム族のバラモン教徒すなわちチャム・バラモンと共に同じ世界観を共有する「民族宗教」であるという「当事者」側の解釈を主張している。こうした言説は、イスラーム的な要素と土着の要素との世界観のレベルにおける「融合」に焦点を当ててチャム・バニの宗教現象を説明し、それをイスラームという世界宗教に包括されない、チャム族独自の創造性の表れとして位置づける傾向にある。以上の事例から言えることは、チャム・バニは確かにイスラーム的な要素を有する信仰を実修しているが、その住民は「イスラーム化」している訳ではないということである。