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個人研究発表

海域アジアの植民地都市計画−ヨーロッパ人とアジア人の価値観の違い
泉田 英雄 (豊橋技術科学大学)

 植民地都市は,宗主国側と現地住民側の価値観がさまざまな局面で衝突するところである。本稿は,16世紀から20世紀前半まで海域アジアでヨーロッパ諸国によってどのような都市建設が行われてきたのかを時代軸上で整理し,特に18世紀以降都市の物的な計画意図が何であったのかについて議論する。
 植民都市:ポルトガルはもともと地中海沿岸のフォンダコと同じものを開設しようとしたが,イスラーム商人との協調ができず,貿易権益の確保と維持のために自国民の植民を目指した。これを植民都市と呼ぶことにする。ゴアに代表されるように,移住者は自国と同じように教区の中で自らの畑地を耕しながら生活した。
 商館都市:オランダ東インド会社も,バタフィアでは自らの貿易機能を満たすだけではなく最初は自国民を植民させようとした。そのために,オランダの都市建設手法に則りながら"理想的"な都市建設を実施した。これはヨーロッパ都市を強引にアジアの土地に出現させたものであり,後の植民地都市の問題を先取りすることになった。それは道路や歩道などの公共空間に対する認識の違いであり,アジア系住民は歩道を商売の場所と考えた。1670年代,バタフィアに滞在していたニューホフは,屋根のついた歩道が現地住民の間で"カキ・リマ"と呼ばれていたと書きしている。アジア系住民の公共歩道の私的占拠に対し,権力側は命令と警察権で対処した。
 植民地都市:アジア系居住者を植民地都市の必須の要素と見なし,彼らの居住地景観と空間利用になんらかの規律を与えようとした。これは,1822年のラッフルズによるシンガポール都市計画から始まり,"ラッフルズのヴェランダ"はそのための装置であった。"カキ・リマ"は建物の庇下空間であり,必ずしも連続する必要はなかった。それに対し,"ラッフズのヴェランダ"は土地所有者に建物を建てる際に必ず道路際最低6フィートをそのために確保させるもので,公共屋根付き歩廊として機能した。しかしながら,土地所有者はそこはあくまで自分の土地であり,使う権利があると認識していた。同じようにして作られたのが,台湾と旧民国政府下の広東,廈門,泉州などの都市である。それに対して,香港のそれは公共歩道の上に許可制で建て増しされたもので,結果的によく似た形態になった。
 帝国植民地都市:アジア系住民を最重要労働者とみなし,彼らに少しでも健康的な居住基盤を整備しようとした。切っ掛けは,香港など支配側住民がアジア系住民と非常に近接して住むようになり,伝染病と類焼の危険性に脅かされたからである。上下水道が整備され,廃棄物処理が行われ,19世紀末には一定量の光と空気を室内に入れることを義務づける建築確認制度が始まった。
 そして20世紀初頭にはいくつかのモデル健康住宅の建設が行われた。このようにして,権力側は景観・歩道の外部空間から室内空間へと対象を深め,また方法も命令・取締から制度作りへ変化させていった。さらに1910年代には,権力者側はより健康的な労働者の確保の観点から,健全な娯楽の場を提供を始めていった。具体的にいえば,劇場,映画館,遊技場などを備えた公共施設を整備し,旧イギリス領植民地ではパークと呼ばれた。