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2006年5月関東地区例会報告要旨

会員各位

2006年5月の関東例会の報告要旨をお届けします。

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日時:2006年5月27日(土)14:30-
会場:東京大学赤門総合研究棟849教室
報告者:樫村あい子(一橋大学大学院)
報告題目:「日本軍政下『昭南島』における日本語教育の実態—馬来軍政監部国語学
校の事例と「教え」と「学び」の意味づけ—」
コメンテーター:倉沢愛子(慶應義塾大学)

[報告要旨]
 本報告は、日本占領下におけるシンガポールの日本語教育の実態を明らかにしつ
つ、元教育者と元被教育者のインタビューから彼らの現在の記憶のなかでの日本語教
育の意味づけを検討するものである。
 東南アジア地域における日本軍の日本語教育などの文教政策は、日本の研究史上で
の評価も低く、シンガポールでは「奴隷教育」などと称されて批判されてきた。日本
における従来の研究は、日本軍による軍政の一部としての日本語教育が描かれるのみ
で、加害者としての日本という視点が所与のものとされる。一方で、シンガポールで
は日本占領期におけるオーラル・ヒストリー研究が盛んになってきているが、これも
シンガポールナショナル・ヒストリーのなかに位置づけられるものであり、加害と被
害という二項対立にとどまっている。本報告は、馬来軍政監部国語学校の元教師、元
学生への聞き取りをもとにその実態を解明するとともに、「教え」と「学び」の意味
づけを検証する。
 シンガポールにおける日本語教育機関としての馬来軍政監部国語学校は、1942年に
第25軍の宣伝班の主導により設立された。生徒は成人も含まれるなど幅広い年齢層に
またがり、民族構成も華人、インド人、マレー人、ユーラシアンなど多様だった。内
容は日常会話が基本であり、授業は全て日本語で行われた。教育は行政の円滑化を目
的とするものであったが、民族ごとに教育政策が分かれていたシンガポールでは、こ
れらの学校が生徒たちにシンガポーリアンとして体験を共有する場を提供した。
 学校の女性教師であったMさんは、27歳のときにシンガポールに派遣され、文教科
に配属後教師となった。彼女は南洋での日本語教師としての体験を「懐旧の情」を
持って振り返っている。ただし、この感情が生まれたのは主に現在に至る環境の変化
によるものである。すなわち、敗戦の結果彼我の立場が逆転し、彼女が生徒たちの立
場が理解できるようになったこと、生徒たちとの交流が戦後にまで継続したことが大
きな要因である。
 シンガポールにおいては、占領下の日本による教育が「愚民教育」であったとする
マスター・ナラティブが存在する。これが成立した背景には、日本の物的・人的資源
の欠乏により教育が停滞したこと、中国系住民が愛国心から日本の教育に抵抗を示し
たことがある。
しかし、日本語教育を受けた元生徒は当時の教師に「思慕の念」を示す人もある。祖
籍は客家で戦前英語教育を受けた後日本語教育を受けたC氏は、学校での体験を肯定
的にとらえ、学校の教師や出会った日本人に対して愛着を抱いている。これに関して
も、教師とのコミュニケーションの結果生まれたというよりも、占領下の日本語教育
という場での体験を戦後に彼のなかで意味づけを行った結果生じたものとみることが
できる。
 本報告では、人の記憶がナショナルなものを超える可能性を提示した。今後の課題
として、個人レベルのオーラル・ヒストリーを収集して読み解く作業を行うととも
に、マスター・ナラティブの成立過程もたどる必要がある。さらに、情報の精緻化の
ため文書資料とのつきあわせやインタビュー間のつきあわせの作業が必要である。

[コメント・質疑応答]
コメント(倉沢愛子):事例の解釈を深めていくためには、その社会的背景をより明
らかにする必要がある。報告をシンガポールの地域研究として位置づけるならば、ラ
イフ・ヒストリーに焦点を絞り、個人の歴史を通じて地域の歴史を浮かび上がらせる
というアプローチも考えられるのではないか。(以下質問)①マスター・ナラティブ
に個人の聞き取りの事例を対置することの目的とは何か?②「国語学校」という用語に
ついて、東南アジアでは皇民化政策は行われず、「国語」ではなく「日本語」教育と
呼ばれることが多いが?③「思慕の念」というのはシンガポールに限らず同世代で日
本語教育を受けた多くの人びとが持っているものであり、支配・被支配という関係で
はないのではないか?④文書資料は利用しないのか?—A.①加害・被害という二項対
立の図式ではみえないものを明らかにすることを目的とする。②この事例は一般の皇
民化政策とは別の文脈である。③そうした感情が存在することに加えて、過去の記憶
が現在の文脈で解釈されていることが重要である。④利用はしているが本報告は聞き
取りの事例に限定した。
Q. ここで教育を受けた人は戦後日本とどう関わったのか(鳥居)?—A. C氏の場
合、戦後日本とのかかわりはなかった。
Q. ①馬来軍政監部の所属は?②日本語学校設立の経緯はどのようなものか?③女性
教師について、どのような形で派遣されたのか?④全体のインタビュー数は?C氏の
話には信憑性に疑問が残る部分が多く、テキスト・クリティークが必要。そのために
は一定の数を集めることも重要ではないか(桜井)。—A. ①第29軍だと思われた
(が再確認したところ25軍であった。)②学校を管轄していたのは馬来軍政監部の
宣伝班。③軍属としてではないか。④男性7、女性3の10名。
Q. ①通っていた生徒の社会階層はどのようなものか?②生徒の募集はどのように行
われていたのか(國谷)?—A. ①ほぼ無試験であったため、上層から下層に至るま
で多様であったと思われる。②試験はなく、官報などで告知して集まってきたもの
で、口コミによるところが大きいのではないか。
(文責:坪井祐司(東京大学大学院))

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連絡先:関東地区例会委員 國谷徹

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