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2006年9月関東地区例会報告要旨

会員各位

大変遅くなりましたが、2006年9月の関東地区例会の報告要旨をお届けします。

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日時:2006年9月30日(土)14:30-
会場:東京大学赤門総合研究棟849教室
報告者:林英一(慶應義塾大学)
報告題目:「<残留日本兵神話>の起源と終焉—ラフマット・小野のみたインドネシア独立戦争」
コメント:倉沢愛子(慶應義塾大学)
出席者:15名

<報告要旨>
 本報告は、第二次世界大戦後、現地に残留した日本兵を、「祖国日本に捨てられた棄民」や「異国の戦争で活躍した英雄」として描く従来の言説を、実像から乖離した「残留日本兵神話」であると断じ、新史料の発掘・読解を通じて、その実像に迫ろうとするものである。事例として、インドネシアの元日本兵・小野盛(さかり)(ラフマット・小野)を取り上げ、報告者独自の調査によって入手した、小野の「陣中日誌(1945〜1948年)」や「自伝」、インタビュー記録などをもとに、彼の個人史の一環として、日本の敗戦後、インドネシア独立戦争へ参加していく経緯を再構成し、歴史的背景の中へ位置づける作業を行った。なお、敗戦後にインドネシアに残留した日本兵の数は約1000人であり、そのうち約500人が独立戦争下で戦病死または行方不明となり、独立戦争後に日本へ帰国したものが100〜200人であるので、その後も残留し日系インドネシア人となった人は約300人いる。2006年10月現在、健在の元残留日本兵の数は7人である。
 まず、小野の略歴が紹介された。小野盛は1919年に北海道に生まれ、青年学校研究科卒業後、1939年に旭川第七師団第二十八連隊中隊へ入隊、陸軍教導学校を経て、1942年に南方総軍補充要員として出征、サイゴン、シンガポールを経由してジャワへ上陸した。当地では、1944年1月以降、独立混成第二十七旅団司令部において、機密書類の取り扱い、経理、人事功績などの任務にあたった。敗戦後は、「インドネシア独立の約束を反故にした日本への義憤」を感じて、日本軍を離脱し、インドネシア名「ラフマット」を名乗って、独立戦争へ身を投じた。その後、インドネシア正規軍に入り、ゲリラ戦の参考書づくりや新兵教育、実線参加などで貢献した。独立戦争後、日本帰国を拒み、「日系インドネシア人」として第二の人生を歩み始める。1950年に結婚し、 1953年に国籍編入手続きと「独立戦争参加章」の上申を行った。生業は当初、農業に従事していたが、生活苦のため1965年からジャカルタで就業し、職を転々とする。1982年に退職し、恩給生活に入る。
 次に、1946年ごろの情勢について、「陣中日誌」にみられるラフマット・小野の動向を中心に詳しく述べられた。日本軍離脱後の1946年1 月、インドネシア独立軍の総軍司令部教育部長の要請で遊撃戦参考書作成の任にあたっていたラフマット・小野は、そのための軍書を日本軍部隊より入手し、それらを参考にしつつ、およそ2ヶ月かけて自ら遊撃戦参考書を執筆した。その遊撃戦参考書は、同じく残留した日本兵でラフマット・小野への影響の大きかったアブドゥル・ラフマンこと市来龍夫がインドネシア語に翻訳したというが、現存が確認できていない。同年3月より、ラフマット・小野らはスパイ養成のために開校された情報学校で教官を務めた。しかし、同年4月から9月までは、「陣中日誌」に記述がない。
 ここで、ラフマット・小野ら残留日本人に対する当時の諸勢力の認識について、報告者による検討がなされる。すなわち、この時期、ジャワを代理占領していた英印軍は、独立軍の訓練や武器供与に関わる残留日本兵に対する警戒を強めており、また、日本軍の西部地区隊は、彼らを「雑兵に過ぎず」と報告してイギリスを刺激しないように務めるとともに、離隊逃亡者への勧告により帰国を促そうとしていた。また、インドネシア側も、日本人がイギリス・オランダ軍による再植民地化に利用される可能性に脅威を抱いていた。残留日本兵をとりまくこうした状況のなかで、ラフマット・小野はアブドゥル・ラフマン・市来を中心に再編された日本人部隊に幹部として参加したが、1946年11月、オランダとインドネシアの停戦交渉からリンガルジャティ協定成立にいたる過程で、日本人部隊は解散を余儀なくされた。
 最後に、ラフマット・小野の「陣中日誌」から明らかとなる残留日本兵の役割は、「翻訳者」、「教育者」、「実践者」としてのそれであったことが主張された。

<コメント:倉沢愛子>
 まず、卒業論文段階の研究としては、独自の史料を発掘したという点で高く評価できる。しかし、今後、研究としてどのように展開していくかが課題になるだろう。(以下、コメント箇条書き。)1)これまでの著作と自分の研究の相違点を強調する必要がある(特に方法論に関して)。2)インドネシア革命史にはすでに厖大な研究蓄積が存在するので、事実の確認として新しい発見がなされる期待は薄い。3)個人のライフヒストリーから全体の歴史を見通すことはできないか。例えば、小野氏の気持ちの振幅や、思想的変遷は興味深い。コメンテーターの印象では、日本兵が軍を離脱する際の動機としては、戦犯になることを恐れたとか、現地の女性と別れがたかったとか、日本に帰国してもどうすればよいかわからなかったとか、インドネシア革命軍に拉致されたとかさまざまであるようだ。そのように動機はさまざまであれ、生きていくためには革命軍に身を寄せるほかなかった人々が、段々とインドネシア革命に情熱を燃やすようになったのであれば、その転機が何であるのか考察する価値がある。もっとも、小野氏は日本軍離脱当初から燃えていたようなので、例外的な存在なの�
→1)過去の著作では、残留日本兵が「棄民」か「英雄」と捉えられることが多かったが、残留日本人たち自身は自らをそのように位置づけはしない。自分の研究では、彼らが実際に送っていた生活を、彼らの認識に即して明らかにしていきたい。(報告者)

<質疑応答>
 これまでの著作は全て、「棄民」か「英雄」のいずれかに神話に属するのか?(倉沢)→そうではない。第三の部類としては、旅行記の類がある。(報告者)→残留した当人が書き残したものもあるのでは?(倉沢)→ノンフィクション・ライターの著作に加えて、自伝も存在するが、それらは戦争の記憶に後付けの説明をしたものであるから、戦争体験そのものではない。戦争体験そのものに光を当てて、既存の像とは別の像を描きたい。(報告者)→史実をもって言説の神話性を崩すのは困難だろう。言説そのものを扱っていく方が生産的ではないか?(内藤)→「棄民」、「英雄」とは違う、報告者独自のモデルを提示できないか?(木村)→「英雄」や「棄民」といった言説は、現状としては渾然一体となっているので、類型化するのであればより緻密な類型化をする必要がある。(小林)
 本報告で用いている「陣中日誌」などは貴重な史料である。まず、これを全て活字化し、それに註を振って公表するべき。(奈良)
 聞き取りの道具は何を用いたか?(小林)→基本的にテープ・レコーダーで、試験的にビデオも利用した。(報告者)→テープおこしは全てすべき。そうすることで、行間に重要な事実が見えてくることもある。(小林) 脱走兵が部隊へ戻って資料をとってくることは可能だったのか?(倉沢)→可能だった。上官次第である。(報告者)→脱走兵は通常、厳罰に処されるものであるから、このような事例は極めて興味深い。(奈良) 小野氏のライフヒストリーを叙述するのであれば、その背景、例えば彼の両親のことや、受けた教育、読書歴などについての説明が必要ではないか。(國谷) 戦犯の恐怖や女性関係のために独立戦争に参加したのではない日本人には、インドネシア社会との関係が密な人々が多いように思われる。しかし、小野氏はインドネシア語も話せなかったようなので、この点でも例外的である。(倉沢)ここにあげた以外の点についても参加者の間で活発な議論がなされた。<文責・長田紀之(東大院博士)>
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連絡先:関東地区例会委員  國谷徹

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