東南アジア史学会関東部会6月例会のご案内
関東部会6月例会のご案内をお送りいたします。
皆様のご参加をお待ちしています。
今回はお二人の方の報告がありますので、いつもより早く始まります。
日時: 6月25日(土)午後1時より
会場: 東京大学
赤門総合研究棟 8階
849号教室
本郷の東京大学の赤門を入ってすぐ右手の建物が赤門総合研究棟です。
そこのロビーを入り、左奥のエレベータで8階にお上がり下さい。
報告1:豊田和規(日本ワヤン協会会員、高校講師)
題名 :『プスタカ・ラジャ』に見られるジャワの王権の起源
報告2:伊藤毅(一橋大学大学院社会学研究科)
題名 :村落から再考する民主主義:インドネシア「改革」時代の政府・村落関係
参加費:一般200円、学生100円
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連絡先 関東地区委員 奈良修一
報告内容1
豊田和規:『プスタカ・ラジャ』に見られるジャワの王権の起源
前回の報告ではスラカルタ王家の宮廷詩人ロンゴワルシトが書き著したジャワ神統記『パラマヨガ』(Paramayoga)を紹介させていただいた。この『パラマヨガ』の続編が大作『プスタカ・ラジャ』(Pustaka Raja)[王の書]である。インドのトゥグル山の天界にいたバタラ・グル(シヴァ神)がジャワに降臨して、ジャワ初代の王としてジャワを統治する。彼はカムラ山の麓にムダン・カムラン国を建設する。続いてバタラ・グルの五人の息子サンボ、ブラフマ、インドラ、ウィスヌそしてバユがジャワの王になる。ジャワの地は五つの王国に分割される。その後、マジャパヒト王国が滅亡するまでヒンドゥ王朝の興亡が繰り返されるが、王位を継承する者は、ブラフマあるいはウィスヌの子孫に限られた。
イスラム王朝の宮廷詩人であるロンゴワルシトが、ヒンドゥ王朝の興亡の歴史を記した『プスタカ・ラジャ』を書き著した意図は何であろうか。『プスタカ・ラジャ』の記述の中にはマタラム王朝およびスラカルタ王家の支配を正統化するために創り出されたイデオロギーが投影されていると考えられる。『プスタカ・ラジャ』の中に反映されている支配のイデオロギーとは、神王思想である。神王思想とは、天界にいるヒンドゥの神々すなわちシヴァやヴィシュヌ、ブラフマが地上に降臨して王となり、地上の王国を統治するという王権思想である。 本報告では、ロンゴワルシトの集大成ともいえる歴史書『プスタカ・ラジャ』の一部を出来る限り明確に紹介させていただく。そして『プスタカ・ラジャ』の中に見られるジャワの伝統的な王権思想である神王思想を、ジャワの王朝年代記である『ナーガラクルターガマ』や『パララトン』と比較して考察してみたい。今回の報告では、ジャワ文学の大碩学カマジャヤ氏のジャワ語テキストおよびジャワ人研究者プルワディ氏によるインドネシア語テキストを使用させていただく。
報告内容2
伊藤毅:村落から再考する民主主義:インドネシア「改革」時代の政府・村落関係
過去半世紀余りにわたる民主主義に関する研究成果により、次のことに関して相当正確な知識を得ることになった。何が民主主義で何がそうでないか、どのようにして民主主義へ移行するのか、民主主義を醸成する要因は何か、そして、どのようにして民主主義が崩壊あるいは定着するのか。しかしながら、依然として分からないのが、民主化したことにより、市民の生活はどのように改善され、非民主主義体制下での生活とどのように違うのかという問題である。従来の民主主義研究は民主主義を成り立たせる制度やアクターに焦点をあててきたため、民主主義の質そして民主主義の深化に関する研究は未開拓のままであった。本報告はそうした研究途上の領域への学術的貢献を目指したものであり、民主主義の制度の導入により何がどのように変わったのかを実証的に検証する。研究の性格が実証的なものであるため、ここでは報告者が比較的事情に精通しているインドネシアの事例を報告する。インドネシアでは1998年に始まる民主化プロセスの一環として地方分権化が同時に進んでおり、旧システムの抜本的改革が行われている。
インドネシアにおける民主化・地方分権化の社会的インパクトを考察する際に注目すべき点は、政治制度の変化により国家に従属してきた社会がどれほど自律した領域を拡大することができるのかという点にあるだろう。スハルトの新秩序体制とは、まさしく国家利益を最大限に具現化した政治体制であった。ドナー国からの支援と石油ブームに支えられた新秩序体制は、内務省を中心とした行政機構を全国に整備することで国家権力を強化すると同時に、そのヒエラルキーを利用した全国一様な村落開発を行った。その結果、家父長的な国家と受動的な社会というイメージを固定化することになった。新秩序体制が崩壊して7年、こうした国家・社会関係に、現在どのような変化が起きているのだろうか。本報告はこうして問題意識に立ち、「改革」時代における村落レベルの住民参加、政治制度、住民組織の現状を考察する。
報告者は民主化・地方分権化がもたらす質的変化を観察するために、西ジャワ州バンドン県のN村を基点として、県政府の地方分権化への取り組みとN村の住民たちの受け取り方を参与観察してきた。本報告では、バンドン県は1999年に地方自治法が成立した直後から積極的に村落問題に取り組んできており、県が構想する村落自治をいくつかの具体的な政策として成立させてきた。そのひとつが、開発計画協議(MPKT)で、これまで市民に閉ざされた県の開発計画の意思決定に市民の参加を促し、市民の声を取り入れた県の開発計画を作成しようという新しい試みである。MPKTは2003年からバンドン県で一斉に実施されたが、N村の村長をはじめとした役人はこれまで通りのやりかたで村の開発議題を決定し、住民もその決定を騒動もなく受け入れた。村の意思決定における住民参加の実現には数多くの障害が残っている。制度が準備されたからといって、住民がそうした制度を自由に利用できるかは全く別の話である。最大の問題は、村役人たちの支配的な考え方に、すべての住民が参加して村の開発議題を決定するという意識が欠如していることである。
民主化後の村落制度における画期的な変化は、村落議会(BPD)の設立である。村落議会は村長の権力をチェックする機能を持ち、アカウンタビリティが伴った政治を行うことを目的としている。N村の村落議会の議員全員が高校以上の学歴を有し、工場労働者を含めさまざまな職業に従事している。しかし、村落議会は村長と協同する制度として捉えられており、村長と村落議会の間には汚職に近い馴れ合いの慣行がしばしば見られる。N村の村落議会は3年間で18の村落条例を可決したが、いずれもが村落行政に最低限必要なもの(予算関連と村落自治)だけで、斬新なアイディアに基づく村落議会のイニシアティブは認められない。
スハルト時代、青年団、婦人会、農民グループといった村落レベルの住民組織は、国家目標の実現のために住民を各分野での活動のために動員する役割を果たしてきた。しかし、スハルト後の村落社会は、親父(Bapak)という求心力を失ったため、官主導で始まった一部の住民組織が機能しなくなり始めた。N村では、青年団と農民グループは事実上活動を停止してしまった。青年団と農民グループの活動が停止した直接的な要因には、中央・州・県・郡からヒトやカネが降りてこなくなったことがある。青年団を監督していた情報省が廃止になり、農業指導のために上からヒトが来なくなった。
こうしたことから、スハルト後の国家・社会関係における変化の点について、次のように結ぶことができるのではないだろうか。すなわち、スハルト体制下において村落レベルの出来事まで監理してきた国家権力は明らかに低下してきている。しかし、このことが必ずしも市民が政府をコントロールするという民主主義の理念の実現を意味しているということではない。市民の政治参加の実現には制度以上の問題が複雑に絡んでいるように思われる。