2004年12月関東地区例会報告要旨
2004年12月の関東地区例会の報告要旨をお届けいたします。
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東南アジア史学会関東地区12月例会
2004年12月18日(土)
於:東京大学赤門総合研究棟849号教室
報告者:鈴木陽一(下関市立大学)
題目:「東南アジア諸国連合成立への道—現地のイニシアティブと英米の冷戦戦略」
コメント:山影進(東京大学)
<報告要旨>
ASEANの性格については、政治的に中立な社会的経済的組織だとする加盟国の公式見
解や、反共同盟だとする修正見解に加えて、公式見解を批判しつつも、反共だけでは
くくりきれないASEANの性格、たとえば、東南アジア諸国が自国の国家建設のために
近隣国と協力したという点に着目するポスト修正見解が存在する。本報告は、第三の
立場をとりつつ、いまだ明らかにされたとはいいがたい東南アジア諸国間の利害対立
や、その背後にあった英米戦略の変容に留意しながら、ASEAN成立史を捉えなおす試
みである。
まず、第二次世界大戦を契機として東南アジア戦域が形成されていく過程が概説され
る。共産主義への対抗のため、英米諸国が東南アジアのナショナリズムと接近したこ
とが、地域協力を推し進めることになった。地域協力には、英米戦略の一環として行
われたもの(コロンボ計画、SEATO)と、現地のイニシアティブのもとで進められた
もの(ASA、マフィリンド)があったが、両者は必ずしも両立しなかった。
1960年代半ば以降、インドネシア・タイを中心として地域統合へ向けた動きが盛んに
なる。930事件後、インドネシアは対決政策解消の過程で地域統合に乗り出した。一
方タイは、インドシナ戦争のエスカレートにもかかわらず、介入しようとしない
SEATOの態度に孤立感を強め、別の拠り所を求め始めた。こうして1966年末には、タ
イの外相タナットがSEAARC草案をつくり、インドネシア外相アンワール・サニがこれ
を持って各国を訪問することになった。この草案は、経済的なASAと政治的なマフィ
リンドの折衷案ともいえるものだったが、安全保障上の責任を共有するという条項を
含むなど、かなり政治的色彩の濃いものであった。また、この時期にアメリカは東南
アジアへの関心を強め、地域協力プロジェクトへの支援を行っていた。
マレーシアは、一貫してイギリス帝国の力を背景とした地域秩序を模索しており、イ
ンドネシアへの敵意やアメリカ主導の地域主義構想への警戒から、1967年1月にタ
ナット提案への反対を表明した。シンガポールもアメリカの地域構想に危機感を持
ち、マレーシアと歩調を合わせようとした。ところが、ベトナム戦争の仲介工作に失
敗したイギリスが、同年3月にスエズ以東からの撤退を決定すると、マレーシアは政
策を転換し、5月には新機構への参加を表明するにいたった。その後、新機構の性格
や開催場所、参加国、名称などをめぐって加盟国間で議論されたが、安全保障上の共
同責任に関する条項が削除されたことを除けば、ほとんどがインドネシアの思惑が反
映される結果となった。
最後に報告者は、インドネシアが反共同盟の目的をもってASEANの創設を主導したと
主張するとともに、英米が冷戦戦略として地域協力を促したことの影響もASEAN成立
の重要な要因であったと結論した。
<コメント:山影進>
歴史学=史料にもとづく議論、という意味では、本発表は中間報告的なものだろう。
特に、アメリカの関与についての説明が不明瞭であったことは残念だ。
4つの疑問点を提示する。1)「英米戦略の影響」の概念規定:地域協力機構形成へ
向けた英米の思惑、働きかけ、評価を考えなければいけない。また、それらを東南ア
ジアの指導者たちがどう見たのかということも重要である。2)マフィリンドの位置
づけ:なぜタナットはマフィリンドとASAの折衷案を提出したか。それは、マフィリ
ンドはASEAN以上に同床異夢であったため、構成国の間で妥協点を見出せず、その復
活によってコンフロンタシを解消することなどできなかったから。3)インドネシア
の反共:当時のインドネシアは一枚岩ではなかった。反華人・反共・親米の国軍と、
非同盟スカルノ路線での国際社会への復帰を目指す外務省の対立を考慮すべき。政府
として、地域協力機構にどれだけ反共性をもとめたかは疑問。4)マレーシアの姿勢
:同様にマレーシアも一枚岩ではなかった。とはいえ、インドネシアを地域の責任主
体として地域協力をしてもよいと考える外務省の方針に対して、トゥンク・アブドゥ
ル・ラーマンはそれを遅らせることはできても、もはや変更することはできなかっ
た。(山影)
→1)たしかに概念規定に関しては、もっと詳細に考える必要がある。2)1963年時
点では、マフィリンドは成立していないと考えるのは妥当だ。しかし、マフィリンド
を軍事同盟として復活させようとするインドネシア国軍の欲求は重視すべき。3)強
硬な軍部とよりマイルドなマリクとの間で路線の違いがあり、一枚岩の反共ではな
かった。地域協力に関して、軍がインドネシア版のマフィリンド復活を目指したのに
対し、マリクは軍事的つながりを持つことには冷淡であった。4)マレーシアは、
ASAを基礎とする地域協力を目指していたが、軍事的なものにはしたくなかった。ま
た、トゥンクは最終決定権を握っていたと考えられる。(報告者)
<質疑応答>
現地のイニシアティブとして「反共」を強調するよりは、「東南アジア性」や「マ
レー性」に言及してほしかった。(川島)→東南アジア性の表れとして反華人意識を
捉えたい。(報告者)→ASEAN形成過程と東南アジア性を結びつけるのであれば、な
ぜシンガポールが入ったのか説明する必要がある。(山影)
ASEAN成立時の東南アジアの指導者たちは、他所での地域統合をどう評価したのか。
モデルはあるのか。(吉村)→ASAは、EECなどの機能主義的な地域統合をモデルとし
たが、ASEANは違う。これは疑問。(報告者)
諸国の思惑が同床異夢であったことについて、1)インドネシアの影響力の強い新機
構にマレーシアが加わっていく狙いは何か、2)なぜアメリカの介入を警戒するの
か。(弘末)→1)押されて仕方なく参加しただけではない。マレーシアは防衛協定
への反対と中立化構想を掲げて積極的に参加した。2)マレーシアは、軍をベトナム
へ派遣しなければならなくなるような事態を恐れた。シンガポールは、イギリスの影
響が薄れたときの宗主国の協力者=華人の命運に不安を感じた。(報告者)
1967年の時点で地域統合と言えるところまで議論は踏み込んでいたのか。地域協力の
レベルではないか。(青山)→たしかに成立翌年にサバをめぐって緊張が高まるが、
そうした危機にも関わらず存続したことが重要。ここにおいて「外部の力を利用して
団結をはかる」というパターンが出現し、それがregional corporationの起源とな
る。(報告者)
ASEAN史の時代区分をした方がわかりやすい。(青山)→「初期ASEAN」はいつまで
か。(報告者)→善隣外交のための信頼が醸成され、その後の基本構造が形作られる
1976年が画期になる。(山影)
反共と反華人、反中国は別に考えるべき。インドネシアではすべて結びつくが、マ
レーシアでは反共かつ反中国だが反華人にはならないなど、国ごとに事情がことな
る。(左右田)→どの国でも反共という点では一致していた。マレーシアにも程度の
差こそあれ反華人感情はあった。(報告者)
ASEANは二国間関係の集まりと捉えられるか。(青山)→大使館がない状況において
は二カ国間での相互訪問は難しく、ASEANが諸国の外務大臣に集まる機会を提供した
ことが、外交チャンネルを密にするうえで大きな意味を持った。(山影)
ここにあげた以外の点についても参加者の間で活発な議論がなされた。
<文責・長田紀之(東大院修士)>
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連絡先:関東地区例会幹事 國谷 徹