2006年7月アーカイブ

 平和な国家間競争の場である博覧会に、どんなものが出品されているかは興味深いが、2005年愛知万博のマレーシア館では800円のロティ・チャナイが、一時帰国したマレーシア在留邦人の間で話題になった。この値段ならマレーシアで20皿、シンガポールでも10皿以上食べられるからだ。ドリンクやサラダがセットだったわけでなく、二種類のカレーがついてくる、現地そのままのメニューだったようだ。
 万博でマレー系のナシ・レマでなく、インド系のロティ・チャナイが選ばれたのはそれなりの意味があると思う。大学内でも街中でも、マレー人と他の民族が一緒にテーブルを囲んでいるのをほとんど見かけない。宗教と食文化の異なる民族が一緒に食事を摂るにはどうしたらよいか。マレー料理はもちろん、国際食のはずの中華も、マレーシアではそれぞれの民族に限定されている。ハラルであることが大前提だから、浮上してくるのはインド系ムスリムの料理だ。どこのフードコード、街角にもあるママストール(屋台)がそれに当たる。
 マレー語で母方のおじを指すママ(Mamak)はインド系ムスリムの自称ではない。しかし、朝から晩まで開いていて、数リンギでお腹いっぱいになるママストールは、民族を問わずマレーシア人共通の食文化である。バレンタインデーのおすすめスポットの一つとして、ママストールを挙げている記事を読んだことがあるが、行きつけのママストールは知り合いが多すぎて止めた方がよいとも書かれていた。飲むのはテダレ、そして食べるのはロティ・チャナイである。
 日本でほとんど見かけず、あってもばかばかしく高価なロティ・チャナイをおみやげにしたいとき、スーパーで冷凍ものを買う手もあるが、KLIAならレベル2のフードコートで出発間際に焼き立てが買える。容器持参で日本に持ち帰れば、明日の朝ご飯はロティ・チャナイ。空港の大きさ以外でKLIAがチャンギ国際空港に勝るポイントの一つかもしれない。

夢中人

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キリン生茶のCMソングに「夢中人」が使われている。でも歌っているのは王菲ではない。アメリカで活躍するアイリッシュグループ、THE CRANBERRIESの「Dreams」とクレジットされている。夢中人は言わずと知れた王家衛の映画『恋する惑星』(重慶森林)の主題歌。タランティーノ絶賛の本作は、王菲と金城武が日本で広く知られるきっかけとなった。1994年の封切時に、クアラルンプールのチャイナタウンで、映画好きの若い作家と一緒に見たあと、興奮してしゃべり続けた覚えがある。クリストファー・ドイルのカメラが印象的だった。というわけで、この曲は映像とともに記憶されていて、どうしても王菲なのだが、昨年マレーシアでもクランベリーズ版がよく流れていて、改めて確認してみるとDreamsは1993年で夢中人より先。何と王菲の方がカバーだった。王菲は中島みゆきの「ルージュ」をカバー(容易受傷的女人)でヒットさせていて、東アジア、東南アジア華人世界では、すっかりフェイウォンオリジナルと思われている。こうした例は結構あり、カラオケで日本語原曲の中国語曲を検索するとかなり出てくる。しかし、Dreamsのように欧米からアジア経由で日本というベクトルは珍しいかもしれない。

ヴェロタクシー

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銀座でVELO TAXI発見。
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なかなか目立ちます。写真はちょうどHIS前を行くHISのラッピング広告車。1997年にドイツで環境にやさしい交通手段として開発された自転車タクシーは、日本では2002年、京都議定書の年にその京都で認可されたのが最初とか。私の見かけた銀座のヴェロは2005年4月から運行している。ドイツ製の車両はリキシャやベチャのように完全な人力でなく、電動アシスト併用。シクロの本場ベトナムでも、ホーチーミンで観光用に導入される計画があるらしい(Nhan Dan 2006.7.5)。愛知万博時の運行で認知(期間中32万人が利用)された日本のヴェロは環境共生都市推進協会の直営およびフランチャイズによる。都内では銀座に先行して六本木、特にヒルズ周辺を走っている。丸の内の丸ビルに専用停留所もあるそうで、大人二人または大人一人と子ども二人くらいは乗れそうだから、ぜひ試してみたい。運賃は初乗り500mまで大人300円(子ども200円)で以後100mごとに大人50円(子ども30円)で一人ずつだから、大人一人、子ども二人でたとえば渋谷駅からこどもの城まで700円。乗車運賃はすべてドライバーの収入とのことだが、下り坂だと安くなったりしないだろうか。

 クアラルンプールにおける研究会と言えば、すでにUM、UKM、次回UPMで五回目を開催予定の国際マレーシア研究会議(MSC)が思いつく。二回目頃からJAMS会員を中心に日本人参加者も多く、会議後に津々浦々から集まった日本のマレーシア研究者が、エスクワイヤやオーバーシーレストランなどに会し、楽しく懇親した記憶がある。MSC会場では現地や日本以外の海外研究者との交流に忙しく、あまり日本人とゆっくり話したことはないが、前記のような席で、特に現地滞在者の話しを聞くのはとても刺激になったし、細かな生活の実際を質問できるのは有り難かった。
 前回MSC4のあと、JAMSメーリングリストに「研究会へのお誘い」という記事が投稿されている。(2004年9月)クアラルンプール滞在者を中心に研究会を開催したいという趣旨で、在マレーシア日本大使館の川端隆史氏(当時)によるものだった。現地滞在中の「マレーシア・東南アジア研究者・大学院生、政府関係機関、民間企業、ジャーナリストの方々」の自由な議論の場、という位置づけだった。その後2005年1月から3月にかけ、京都大学バンギ・フィールドステーションでの連続3回のワークショップ「それぞれのフィールドワーク—マレーシア研究の可能性を再考する」があり、内容については21世紀COEプログラムページに詳しいが、現地でフィールドワーク中の研究者だけでなく、当時マレーシア滞在中の日本人が会する機会ともなった。こうした流れの中で、滞在者による研究会が定期的に開催されていったように思う。
 多文化社会に分け入って現地滞在している日本人の生活圏は実に様々だ。私自身、2005年度をマラヤ大で過ごし、授業内外での学生との交流、スタッフとの日々のやりとり、研究対象である華人社会への関与などでいろいろ見聞きすることができた。しかし、その後開催された滞在者による研究会と引き続く懇親会の席で、マラヤ大、国民大、国際イスラム大の日本人と大使館や国際交流基金などのスタッフ、ジャーナリスト、ビジネスマンの方々など、それぞれの立場からの見方、理解に触れるにつけ、浅学な視野が広がる思いだった。資料の所在や具体的な生活の問題など、ずっと悩んでいた技術的な事柄があっと言う間に解決することも度々あった。お互いの人脈を交換し、現地ならではの直接取材による研究を始める糧にしたり、平板な文書館通いの合間の食事会として純粋に楽しむ向きもあったように思う。参加者の思いはそれぞれだが、毎回10名前後の参加者がいたところを見ると、それぞれ得るところがあったのだろう。研究会は以下の通り、ラマダン期間などを除き、ほぼ隔月で開催されたが、夏期休暇中の会合は日本からの参加者が多かったり、英語セッションではマレーシア人や中国からの留学生の参加も見られた。
 しかし、人の移動が激しいのが現地滞在者社会の常である。2005年下半期から国民大、国際イスラム大の主要メンバーが帰国し、2006年に入って発起人の在日本大使館川端氏も異動され、マラヤ大のメンバーのうち3名は、年半ばまでには帰国が決まっていた。当初の運営者がいなくなれば、開催されなくなるのが私的な研究会の運命である。しかし、何とも惜しい、こうした現地での会合を存続させることはできないか。残されたマラヤ大のメンバーを中心に相談した結果、これまでの全く自由な研究会から半歩踏み出し、運営ルールの策定、ウェブの開設( http://jamskl.seesaa.net/ )、とりあえず2005年度中のJAMS地区研究会としての認定等、続けるためのシステムを整えた。毎回懸案だった開催場所も、国際交流基金クアラルンプール日本文化センター所長の協力もあり、定常化のめどが立った。
 呼び方も決まっていなかったこの「研究会」が、今後どのように消長していくか私にはわからない。それぞれがマレーシア社会の中で忙しく調査、研究、業務を進めていく滞在者社会にあっては、当初の全く決めごとのない形態が合っているのかもしれない。ひとまず長期滞在者の列から離れる私としては、今後も入れ替わり続けるであろう、現地メンバーの活動を見守るばかりである。なお、マレーシアへ渡航、滞在のご予定のある方は、上記のウェブを通じ、研究会の世話人宛にメールでお知らせいただければと思う。会員諸氏のご関心とご協力を請う次第である。

クアラルンプール地区マレーシア研究会2005年度会合一覧
(所属はすべて開催当時、敬称略)

日時:2005年5月13日(金)18時
場所:Bangsar Permai
報告者、題目:
東條哲郎(マラヤ大学/東京大学)
「ペラ州錫採掘における地域性−歴史学的アプローチ−」
塩崎悠輝(国際イスラーム大学)
「キー・ワードでみるマレーシアのイスラーム」

日時:2005年7月28日(木)18時
場所:国際交流基金クアラルンプール日本文化センター
報告者:滝口健(国際交流基金クアラルンプール日本文化センター)
題目「マレーシアの舞台芸術、その現状と展望〜現代演劇を中心に」

日時:2005年9月23日(金)
場所:The Taj, Crown Princess Hotel
話題提供者:鳥丸豊(Managing Director, OTAX Electronics Malaysia)
題目「マレーシア日系企業経営とその周辺」

日時:2006年10月21日(金)19時
場所:クアラルンプール日本人会
報告者:Josh Hong(UNHCRクアラルンプール事務所職員、マレーシアキニ・コラムニスト)
題目「History memories in regard to WWII and the clash of Sino-Malay nationalisms in Malaysia」

日時:2006年2月8日(水)
場所:クアラルンプール国際交流基金会議室
報告者:川端隆史(在マレーシア日本大使館)
題目「これまでのマレーシア、これからのマレーシア〜2000年8月6日から2006年2月24日の私の体験から〜」

日時:2006年3月11日(土)
場所:国際交流基金クアラルンプール日本文化センター会議室
報告者:舛谷鋭(マラヤ大学/立教大学)
題目「マレーシア華人社会における反日世論の形成」

※以下は京都大学バンギ・フィールドステーションの活動だが、報告者は当研究会の主要メンバーでもあった。
日時:2005年9月7日(水)
場所:マレーシア国民大学マレー文明・世界研究所
報告者、題目:
伊賀司(マラヤ大学/神戸大学)
「マレーシアの政党政治への視角:70〜80年代UMNO党内政治を中心に」
塩崎悠輝(国際イスラーム大学)
「マレーシア社会におけるイスラーム主義運動と公共圏の形成」

 東南アジア史学会は本年11月11日に設立40年を迎えるが、今から10年前、第16期(後藤乾一会長)の55回大会時の会合でインターネットの活用が提案され、併せて情報化委員(現情報化担当理事)が新設された。最初の取り組みは1996年12月からはじまったメーリングリスト「SEAML」だったが、ほどよい投稿量と内容の豊富さで、速やかに定着したように思う。当初の目的である会員同士の議論と交流という点からすると、後者に偏ってはいるものの、従来なかった新たな「場」として順調に育ち上がった。数年前まで説明の難しかった誤配信とスパムメールの違いについても徐々に理解が得られ、2004年6月からは入会とともにメーリングリストへの登録が行われるようになり、事務局が一斉メールとしてリストを利用することも増えている。
 もちろん、学会の情報化への取り組みはメーリングリストだけではない。学会ウェブは、トップページのhtmlソース冒頭に埋め込まれた記録によると、情報化担当設置の翌年、1997年5月に開始され、その年の秋季大会終了後に公式ページとして認められている。現在、国立情報学研究所(NII)にサーバを置くウェブの内容は、学会の紹介、研究大会の案内をはじめ、メーリングリストで流れた有益な情報のウェブへの転載が、特に1998年から体系的に行われている。日本における東南アジア研究活動の記録という面から、「研究会/国際会議/研究助成などの案内」として過去の記事も保存されている。
 デジタルアーカイブはNIIの電子図書館プロジェクトなどを通じて広く知られるようになったが、学会の紙媒体である会報と会誌のうち、前者は個人情報を除いてすべてデジタル化され、NIIのサービスによって見ることができる。会誌については目次の入力に留まっているものの、すでに2004年12月に著作権規定が定まり、ネット配布に関わる公衆送信・伝達権などが会長に譲渡されることになっているので、2005年以降の会誌本文のアーカイブ化が、遠くない未来に実現することだろう。
 もう一つ、学会ウェブの内容を豊かにしているのが、東南アジア関係文献目録データベースである。会誌巻末の東南アジア関係文献目録は、その速報性から他の目録の元データにもなっている重要なものだが、これまで、大学院における徒弟制の底力によって綿々と維持されて来た。学会では情報化担当を中心に科研費研究成果公開促進費の申請を続け、1999年度と2005年度に採択され、会誌ではページ数の制限で割愛されていた書誌も含め、再チェックを経てデータベース化している。学会ウェブからはダウンロード版の配布が行われているが、オンラインデータベースとして、GeNii(NII学術コンテンツ・ポータル)の一部であるCiNii(NII論文情報ナビゲータ)から見ることができる。
 最後に、学会ウェブの一部ではあるが、あまり知られていない東南アジア関連リンク集について紹介しよう。このリンク集を含むウェブ作成、メーリングリストなど、情報化担当者の職務は日々に渡る。ところが、委員時代は各期2名ずつ指名されていたにも係わらず、この十年間で情報化に実際に関わった人員はわずか5名に過ぎない。これは、ウェブの管理が特定の技術を要すると考えられているからだ。しかし、これではあまりにも負担が集中し過ぎる。もっといろいろな人材がこの仕事を担える工夫はないものか。そうした試みの一つとしてこのリンク集は会員が自由に登録、修正できるような仕組みを採用した。CMS(サイト構築の自動化)とは言い過ぎだろうが、私は専任事務局を持たない学会が、自前でウェブを維持していくには、ブログ形式で広く知られるようになったこの類の仕組みを積極的に活用する必要があると考えている。ウェブを外注するために会費を変更した学会もあるという。この文章をここまで読み進められた方々は、ぜひリンク集にアクセスしてほしい。東南アジア研究に役立つページを集めているが、消滅したページや足りない項目を発見されることだろう。そこでぜひご自分で手を加えて欲しい。そして、ウェブ上の学会資産に情報を付け加えられたあなたが、共にこの任を負うて下さることを切に希う。

ホラロジー

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多文化関係学会幹事役の同僚の誘いで、立教で行われた研究会に出た。「ホラロジーの会」と称し、簡単に言えばほらを吹く会だが、ねらいはお互いに研究していること、興味のあることを話し合って切磋琢磨する会とのことだった。発起人が急遽欠席で苦心の進行だったが、趣旨は理解できた。“仮説を戦わせること、それにより真理に迫る”「仮説」ということばからパースのアブダクション、もっと具体的に言えば京大の梅棹サロンを想起した。発起人もサロンの参加者の一人だったはずだ。Rule-Case-Resultの演繹、Case-Result-Ruleの帰納でなく、観察の後直ちに「大陸は移動する」などとホラを吹いて、のちのち事例が発見されるという論理形式だ。(Result-Rule-Case)早速ミクシィに同名のコミュニティを作った。いま、会合で人を集めるには、ミクシィの関連コミュニティでイベント紹介するのが最も効果的という実感があったからだ。

夕食時、母子の会話
子:この春雨サラダ、食べても食べてもなくならないよ
母:あら、いいサラダね
子:...じゃ食べなよ
母:(子のサラダを食べる)

母のことばで子の最初の発言のホラが浮かび上がったが、子はそれに乗じて逆襲した。ホラへのコメントは責任を伴うものなのだ。

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