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台北大学人文学部、立教大学観光学部共同主催
日本華僑華人研究学会 関連企画

 アジア太平洋地域の華人文化と文学研究を促進するため、台北大学人文学部と立教大学観光学部は「華人文化と文学」国際シンポジウムを共同開催します。日程は、2010年2月22日(月)・23日(火)、場所は立教大学新座キャンパス6号館3階636ロフト2教室です。このシンポジウムは使用言語を中国語とし、日本、台湾、マレーシア、シンガポール等の華人研究者が結集し、華人文化と文学の問題を議論し、国際的な学術交流の場ともなります。
 この会議のテーマは華人文化と文学を中心に、社会、歴史、言語の問題を含み、発表論文は中国語で、分量に制限はありません。2010年1月16日(土)までに論文の題目を、2010年2月13日(土)までに完成原稿をお送り下さい。

立教大学観光学部交流文化学科 教授 舛谷鋭
台北大学人文学部中国文学科 教授 陳大為

連絡方法:〒352-8558 埼玉県新座市北野1-2-16 立教大学観光学部 舛谷研究室
Email:masutani[at]rikkyo.ac.jp

 毎日90万部の華字紙が売れ、700万人いる華人の90%が華語小学校に通う国。マレーシアを華人から見るとそうなる。マレーシアは中国・台湾と香港・マカオを除けば最も中華文化の残存する地域だろう。しょせん新聞総部数の3割、人口比の4分の1にすぎず、マレー人に劣る出生率で、この先人口比の相対的沈下を危惧する声も ある。しかし、華僑三宝と言われる華字紙、民族語(華語)教育、それらを支える会館などの華人組織が存続するために、十分な絶対数ともいえよう。
 なぜ彼らは「中国人らしさ(チャイニーズネス)」を維持しているのか? 理念的にはハーバード大のTu Wei-Ming言うところの「Cultural China(文化中国)」に、プライドとアイデンティティを感じているからに相違あるまい。では、実践的には中国との関係はどうだろう。前述の華語初等教育が準公立校で行われる他、華語中等教育は私立校、華語高等教育もペナン韓江、スランゴール新紀元、ジョホール南方の各学院や私立ラーマン大などで行われている。こうした華人系カレッジが開校する80年代以前は、マレーシア華人の高等教育を担っていたのは台湾の大学で、現在でも 旅台(台湾帰国留学生)連合総会は華人組織の中でも有数のロビー団体である。また、留学後にそのまま台湾の大学で働くマレーシア華人も少なくない。中国大陸への留学生が増えて来たのは最近のことで、帰国留学生団体もできはじめたが、華人社会への影響力の点でまだまだ台湾留学組を凌駕するには至らない。
 しかし、中国研究を行う国立大学はマラヤ大のほか、プトラ大など増えており、前記の華人系カレッジの研究者も含め、けっこうな数に及んでいる。まだ実績はないものの、マラヤ大中国研究学部の博士論文は中国語でも受け付けることになったようだ。
 去る8月にマラヤ大、中国武漢大共催の「中国文学の伝播と受容」という国際シンポジウムがマラヤ大キャンパスで開催され、100名近い研究者が集まった。うち、台湾からの発表者が4名だったのに対し、内モンゴル、新彊から武漢、広州まで、中国全土から50名以上の発表者が押し寄せた。これはマラヤ大主催者側に北京大学に留学経験のある教員が含まれていたせいもあるだろうが、マレーシアで中国人学者の声がどのように響くかちょっとした見物だった。
 総じて華人は中国古典研究セッションでは神妙だったが、世界華文文学など、マレーシア華人の文化や歴史については誤解や資料不足を質す厳しい意見が飛んだ。筆者も張愛玲派のマレーシア華人作家について報告を行い、文化中国を突き詰めるとマレーシア国内で乖離する旨を指摘したが、台湾留学中のマレーシア人から、華人が中華文化を追求してどこが悪いのかという反論があった。
 中国の経済大成長で、華人をブリッジとして利用しようする戦略はどこの国でも見られるが、世界の二大成長センター、インドと中国の両エスニックグループを国内に抱えるマレーシアでも、反共=反中国というイデオロギーはだいぶ薄れたように思われる。華人はこれまで国内の民族間でチャイニーズネスを強調したが、中華圏との間で同じように差異化するのは当然困難だ。中国の過大な影響を警戒するのは台湾派に限らず、実は華人自身なのだろう。

*4月
-第六代首相にナジブ氏就任

月末の東南アジア学会シンポ《東南アジア現代文学の眺望―作家、歴史、社会》の要旨を書いてみた。1991年にこの学会の関東例会(東京女子大)で「マレーシアにおける華人文学の発生と展開」と題して初めて馬華文学の発表をし、「マレーシアにおける中国文学の形成」と修正された顛末を描いた「開廷審訊」(シルビア・シエン)が、現地で六字輩らの「経典論争」を呼んだ。1998年に同じ学会の研究大会で「マレーシア華人による文学史の創出」という自由研究発表をして決着をつけた気でいたが、今から思うと方修、苗秀でシンガポール文学のはなしと思われたかもしれない。それから10年経ってまたこの学会のシンポジウムで、今度こそ国民国家の枠組に回収されない現実の姿を知らしめたい。

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 毎日90万部の華字紙が売れ、700万華人の90%が華語小学校に通う国。マレーシア華語系華人文学(馬華文学)はそこにある。所詮新聞の総部数の三割、人口比の四分の一に過ぎず、マレー人に劣る出生率で未来の相対的沈下を危惧する声もある。しかし、文学の発表媒体としての華字紙、リテラシーを保つための民族語教育と、それらを支える社団が存続するためには十分な絶対数とも言える。
 国語マレーシア語で作品を発表するのはマレー人作家はもちろん、タミル人のウタヤ(1972-)だけでなく、リム・スウィーティン(1952-)ら華人作家も少なくない。国立言語図書研究所(DBP)には、民族文学間の相互交流としてウスマン・アワン(1929-2001)を中心に発足したマレーシア翻訳と創作協会の活動もある。
 しかし、華人中高生の文化英雄は、リムらマレーシア語作家でなく、華人私立高校から台湾留学し、彼の地の文壇で活躍する黄錦樹(1967-)や陳大為(1969-)といった「六字輩」(六十年代生まれの)「留台」作家たちである。
 本報告は台湾留学組と同年代で、国内に留まり作家活動を続けるリー・テンポ(李天葆,1969-)の作家と作品について、多民族社会マレーシアにおける文学の一断面と捉え、「文化中国」(中華文化圏)との関わりを交えて紹介する。
 クアラルンプール生まれのリーは、広東大埔系客家を父に持つ現地第二世代の華人である。マレーシアで準公立華語小から私立華語中高に進み、卒業後は中国福建省、廈門大学の通信コースで学び、私立中学の華語教師を勤めた。その作風から海外華人世界の代表的張(愛玲)派作家と呼ばれる。『傾城の恋』の張愛玲(1920-1995)は、四十年代上海で活躍した女性作家であり、今も中華文化圏で広く読み継がれている。
 現代マレーシアにあってなぜ四十年代上海なのか?二十一世紀に入り、祖籍地(祖先の原籍地)中国からの「乳離れ論争」が、他ならぬリーの作品を契機に巻き起こった。彼は桃源郷としての上海モダンを酷愛し、その面影をツインタワーはじめ高層ビルが居並ぶ大都会クアラルンプールに探す。茨廠街(ペタリン通り)のチャイナタウンや、新街場(ピール通り付近)のような華人の生活区がそれに当たるが、タミル人のブリックフィールドやマレー人のチョーキットも、それぞれの民族毎に同様の感興を呼び覚ますだろう。
 イギリス植民地時代に契約移民として海を渡った華人の文学は、紛れなくポストコロニアル文学の一環である。リー・テンポの文学は「文化中国」の、またマレーシア文学の周縁と切り捨てることができるだろうか。張愛玲が「上海」で活きたように、リー・テンポは吉隆坡(クアラルンプール)で活きているのに。

旧クアラルンプール中央駅に鉄道ミニミュージアムができたと聞いて見に行った。KTMビル、ステーションホテル側のコンコースに、去年は仕切りしかなかったのが、見事に展示完成。KTMファンクラブの面々の仕業。ホームにも消防車などが飾ってあるが、今回の大発見はプラットホームカフェ。駅舎の大屋根の下、ホームで電車を見ながら飲み物と食事が楽しめる。現在使われているホームは真ん中の2,3番線一本だけで、カフェはホテル側の1番線ホームだから切符なしで自由に入れる。ぜひ続けて営業してもらいたいものだ。
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タン・ホンミン

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マレーシアの映画監督ヤスミン・アハマドについては国際交流基金の上映会のことを書いたことがあるが、マレーシア、タイ、アメリカなどで賞を受けたマレーシア独立50周年記念のペトロナスの90秒コマーシャル「タン・ホンミン」がものすごく可愛い。オーキッド三部作でもお馴染みの異民族間の恋がテーマ。

産経記者、藤本欣也氏の記事が面白い。たとえば今日の「多民族国家の国家とは」。マレーシア国歌「ヌガラク」(わが祖国)とインドネシア民謡「トラン・ブーラン」との関係や両国での原曲の扱いの違いなど。私が現地にいたとき話題になった国歌原曲ハワイアン説にも言及がある。2004年からシンガポール支局長をされている。

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3/8土曜に1957年の独立以来12回目のマレーシア総選挙が行われた。隣国ブルネイにいたので、当日は夜遅くまでマレーシアTV2の選挙速報にかじりついていた。3/10帰国時にはちょうど開票結果が新聞報道されていて、マレーシア航空機内で華字紙英字紙などをずっと読んでいた。写真は南洋商報の選挙結果記事より。1969年総選挙、あの五月十三日人種暴動以来与党2/3割れの大敗とか、4月に十年ぶりに被選挙権が回復するアンワル元副首相の動向とか、サミーベルや許子根ら与党大物の落選とか、サラワク以外で同時に行われた州議会選挙の結果、ケダ(PAS15/36)、クランタン(PAS38/45)、ペナン(DAP19/40)、ペラ(DAP18/59, UMNO27/59)、スランゴール(PKR15/56, UMNO18/56)で野党が過半数を占め首長を出すとか、トピックはいろいろあるが、私のとっての最関心事はジョホール州Kluang地区(P152)でMCAから立候補した、ほぼ同年の古い友人何国忠(Hou Kok Chung)のこと。結果は27,970/71,233票を獲得し、次点のDAP候補(24,189票)を振り切って当選。華人系与党のMCAは、前回2004年に比べ下院議席を31から15へ、州議会も70から31に半減させ、副党首兼運輸相の陳広才も立候補していないので、Dr.Houは悪くとも副大臣とか。3年ほど前からMCA党首で住宅地方相の黄家定と茶飲み友達になり、ブレインとして彼の著書を手がけはじめた頃からささやかれていたことが現実となった。私にとっては研究者仲間であり、エッセイストとして馬華文学の研究対象であり、家族ぐるみの友人でもある。マレーシアの公務員は56歳定年で、四十代はどの世界でも若手でなく、全く中心だ。多民族社会の中で、少数派華人の利益代表を務められる知識人はそう多くないだろう。今年の春節、珍しくDr.Houからカードが来ていた。酔狂と君笑うなかれ、古来戦場から何人戻れただろう。覚悟とも取れる内容が墨痕鮮やかに記してあった。マラヤ大からラーマン大に移るのだろうが、研究者として、作家として実に惜しい。友人として健康と精神衛生が心配だ。十年か二十年か、短くあってほしいような気もするが、野党DAPの傑倫のように、政治活動を引退後また文筆をはじめた例もある。本当に何もできないのだが、彼のこれまでの著述を整理しつつ、見守るしかない。

龍渓書舎、2007.12
トヨタ財団の助成で1992年からはじまった日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料フォーラムの成果のうち、インタビュー記録(龍渓書舎、1998)、論文集(『日本占領下の英領マラヤ・シンガポール』岩波書店、2001)に次いで私の関わった最後の仕事が形になった。この間、マラヤ日本占領期、資料、などと微妙にグループ名が変わっているがご愛敬。13年前に中原道子先生の紹介で入れていただいたときは日本軍政関係者にインタビューの真っ最中。マラヤ憲友会の熱海会合に故ヘンリー・フライ先生らと参加したり、個人的に辻政信の右腕の朝枝繁春氏の生田のお宅に通ったり、たいへん勉強になった。文献目録は立教に来てからの作業だったが、そのときどきに多くの学生に手伝ってもらった。ようやく明石陽至先生や原不二夫先生に顔向けできるというのが正直な気持ち。池袋東口で行われた祝賀宴では、原先生とついつい杯を重ねてしまった。ともかくほっとした。非常に高価(¥11,550)な本だが、主観的にはもっと価値があると思う。

*2008.2
-KL、シンガポール間に格安航空就航
*2008.3
-第十二回総選挙で与党連合が記録的大敗
*2008.4
-アンワル元副首相の公民権復活
*2008.5
-マハティール前首相、UMNO離党
-KL、シンガポール間のシャトル便終了(1982-)
*2008.8
-マレーシア観光年終了

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