-Indonesiaの最近のブログ記事

はじめに
 インドネシアの代表的Non-Pribumi(非原住系)である華人は、総人口1臆5千万のインドネシア共和国にあっては比率こそ低くなるものの、その数600万人*1は世界の華僑の8割を抱える東南アジアにおいて2割強を占め、国別に見てもマレーシア、タイの華人数、各450万人を引き離してトップである。現在彼等の大部分は国語(マレー語)を用いて言語生活を営んでいる。これはマレーシア半島の華人の大部分が華語を母語とし、日常交際ばかりでなく文学表現をも生み出しているのと対照的である。本稿はインドネシア華人の言語生活の一端を、マレーシア華人と比較しつつ、中国小説のマレー語への翻訳活動を通じて管見したものである。

オランダ領東インドにおけるプラナカン集団の形成
 東インド(インドネシア)において漢語小説の翻訳に携わったのは主にプラナカン(Peranakan)と呼ばれる土着化した華人である。彼等は漢字の読み書きができる新客(Totok,Singkeh)とは異なった言語、風俗、習慣を持ついわば「漢字を使わない中国人」である。
 ジャワへの中国人移民は清朝末期からまとまった数が流れ込み、単身渡来した彼等は現地のマレー系の女性と通婚、定住し、徐々に独自の集団を形成していった。彼等の集団において、母系はマレー人であることが多く、その系統から現地の生活習慣がところどころ取り入れられていった。特に、言語生活においては華裔ではあるが漢字を読めず、漢語にも不自由で、かわりにマレー語を意思疎通の手段としていた。中でもジャワ北岸の、華人が集中する地域の通用語であった平俗マレー語は、門南語をはじめオランダ語等ヨーロッパ語の語彙も含み、プラナカンの間に普及していた*2。
 プラナカンは部分的に現地化しているが、他の民族集団と融合することはなかった。当時の東インドでは支配者層であるオランダ人と現地民の間でプラナカンを中心とする東洋人は中間層を形成しており、植民地政府も各民族に固有の風俗習慣を維持させようとしていた。また華人の半数以上が商業に従事しており、農民や行商人の多かった現地民とは職能集団としても重なることはなかった。

プラナカンと中国小説の翻訳
 現地の需要に基づき、プラナカンの間で19世紀末からマレー語による印刷物の発行が始められた。特に新聞は早くから発刊されており、20世紀以降急速に部数を伸ばした*3。各紙は読者獲得の手段として中国の民間故事や通俗小説のマレー語訳を掲載した。彼等はすでに漢語を読み書きする能力を失ってはいるが、中国文化への関心を持ち続けており、明清の通俗小説を初めとする中国小説の母語(マレー語)への翻訳は当時のプラナカン集団の要請であった。
 19世紀に東インドで翻訳出版された中国小説は以下の通りである*4。
Tjerita dahoe loe kala di benoea Tjina, tersalin dari tjerita boekoe Sam Kok(三国志)Batavia 1883-1885
Boekoe LIatkok, Hikajat radjah negrie Tjinah, djaman Seetjioe poenja kaada-an(列国志)Batavia 1883
Boekoe tjerita Hoen Tjeng Lauw Tempo Hong Kian Tek Koen Merk Taij Tong Tiauw(粉妝楼全伝)Batavia 1883-1884
Song Kang(水滸伝)Batavia 1885
 また今世紀初頭には中国物の翻訳出版は更に増えたが、その作品は通俗小説に偏り、特に三国志には数種の訳本が現れた*5。
 ペナン、マラッカ、シンガポール等の海峡植民地でもババ(プラナカン)の手によって若干の中国小説がマレー語に翻訳されていた。
 1889年に出版されたEni-la Kitab dolu Kala dari pasal Gong Kiah Sie(貢女婿)*6は最も古い記録で、その他特筆すべきは三国演義、水滸伝、西遊記を一人で翻訳した曽錦文(筆名Batu Gantong)、後列国志を含む十数冊の翻訳小説をものした袁文成(Wan Boon Seng)の活躍だろう*7。
 しかしマレー半島におけるババの出版活動はあくまで中国物の翻訳紹介に留まり、東インドのような現地社会に普遍的な創作小説の創造への展開は見られなかった。東インドにおいてプラナカンによる明清通俗小説の翻訳紹介は、ユーラシアン(欧亜混血児)による『ロビンソン・クルーソー』『三銃士』などのヨーロッパ大衆小説の紹介と同時代に行われ、現地における出版文化の形成に大いに帰依するところがあった。翻訳小説は翻案小説、創作小説と発展し、特に1920年代にはジャワ各地でプラナカンによるマレー語文芸誌の発行が相次いでいる。こうした大衆文芸誌は毎号百ページほどの続き物で、この形態は東インドにおける大衆小説の出版形態として踏襲されて行く*8。
 一方海峡植民地では1858年に早くも華文による週刊の「日昇報」が発刊され、1881年には「叨報」*9に始まる華文日刊紙の発行が開始され、いわゆる馬華文学が発生している。
 このようにババ・プラナカン文学の両地域における状況は当初よりはっきりと異なり、現在の文学状況の相違にも継承されている。その原因については別に論を立てねばならないが、この時期海峡植民地に漢語を母語とする新客が集中し、ババ(プラナカン)を凌駕したのに対し、東インドでは数の上で新客よりプラナカンの方が多かったことは一つの要因であろう*10。
 大戦後、当時の代表的なプラナカンの新聞である《Sin Po》(新報)*11、《Keng Po》(競報)*12をはじめとするインドネシアの各新聞には中国種の武侠小説が連載され、また従来通り小分冊で出版され人気を博していた。930事件以降の中国との国交凍結、国内における華人受難の時期にもこれら武侠小説は何の制限も加えられず、出版を続けていた。Mekar Djaia、Pautja Satya、Sastra Kumala、Gema等は当時武侠小説出版のためにプラナカンによって設立された出版社である*13。
 50年代、60年代の武侠小説のほとんどは香港の武侠小説家、梁羽生、金庸の作品の翻訳である。70年代になると台湾の古龍の作品が数多く翻訳されている。このような漢語の武侠小説の翻訳はOey Kim Tiang(黄金長)、Gan Kok Liang(顔国梁)、Tjan Ing Djiu(曽栄球)等華語教育を受けたプラナカンによって行われていたが、近年そうした翻訳物は姿を消し、新しく出版されているのは現地で創作された「新作」武侠小説である*14。
 武侠小説以外に眼を転じると、プラナカンよりむしろ原住系の翻訳者の活躍が眼に着く。彼等は直接漢語から翻訳するのでなく、ヨーロッパで翻訳された中国文学作品からインドネシア語に重訳していた。最初の中国古典詩の翻訳もこうした形でなされている*15。このような重訳はもちろん原文に忠実であるべくもなく批判もあるが、代表的なインドネシア華人研究者である廖建裕(谷衣、Leo Suryadinata)は「ふつう訳詩には自身も詩心のある訳者が必要だが、インドネシアには華裔の詩人が多くない」と状況を説明している*16。
 上述のように中国古典詩の翻訳は多くないが、中国古典小説の翻訳には百年来の伝統がある。例えば三国志は19世紀末に初訳されてから何回か訳され、80年代になってからも二種の訳本が出ている*17。水滸伝についても同様で、1885年の初訳のほか、最近では二種の訳本が出版されている*18。これら諸本の訳文の違いは、インドネシア独立前のものが平俗マレー語で書かれ、地名人名が門南語音で表記されていたのに対して、最近のものはインドネシア語で書かれ、固有詞にはピンインが多くなるなど各時代の言語状況を反映している。
 近現代文学について付け加えると、最も早く紹介されたのはTeng Ying Siang訳の陳詮の戯曲で、この作品は国家出版局から1950年に出版されている。1958年には曹禺の『雷雨』がジャカルタで上演されている。小説では50年代に茅盾の『子夜』がスラバヤの左翼系雑誌《Ripublik》に連載され、阿Qをはじめとする魯迅の作品が1956年から1965年までの間に三種が出版されている*19。またスカルノ政権下のインドネシア〜中国の蜜月時代には中国外文出版社がプラムディア訳の『白毛女』などを出版している*20。その他インドネシア共産党の関連団体であるLekraは楊沫の『青春の歌』を翻訳出版している*21。しかし1965年以降インドネシア政府は大陸作品の出版を嫌い、1988年になって『狂人日記』*22が英訳からの重訳で出されたのみである*23。一方台湾恋愛小説の全アジア的流行の波からはインドネシアも例外でなく、80年代に瓊瑶の諸作が翻訳されている。
 独立後のマレーシアにおいて漢語小説は従来通り原文のまま読まれ、マレーシア語への翻訳は個人による紹介のレベルに留まった。シンガポールの南洋大学では60年代から中国文学を現地社会に紹介する試みがなされ、李全寿等が《大学論壇》《文化》《南洋文学》に中国、インドネシアの文学を翻訳紹介した。
 1986年には呉天才、年紅等の馬華作家を中心に馬来西亜翻訳与創作協会が結成され、タミール語作家とともに「マレー人によるマレーシア語の文学」を是とする国家語文局への働きかけが続けられ、その結果1988年には馬華短編小説選がマレーシア語で出版されたことは特筆される*24。

おわりに
 前述のようにプラナカンの小説はインドネシア大衆小説隆盛の前史として重要な役割を果たした。現在これらはインドネシアにおいて民族史観的文学史からはうち捨てられているが、押川論文が指摘する通り、プラナカン小説からニャイ小説、ロマン・ピチサンに至る小説群が「純文学に比べてはるかに多くの読者を獲得してきたという意味にとどまらない。現実と虚構の危うい均衡のうえに成立した人間の精神世界、それを映す鏡としての文学、その典型としての大衆文学」*25として正統に取り上げられて然るべきであろう。また20年代に紹介された中国小説の、伝播経路であったはずのマレー半島と東インドの華人の言語生活の相違は別に議論すべき問題である。
 インドネシア独立以後、特に1965年以降は現地式に改名する華人も多く、文献から華人を確定することは難しくなった。よって本稿でも第二次大戦後の記述は中国作品の翻訳書目の紹介に留まった。そもそも媒介言語であるマレー語を「インドネシア」語として選び取ったこの国において、多数派のジャワ人、スンダ人をはじめ国民のほとんどが二重言語生活者である。中で華人は最も国語(インドネシア語)の定着率が高いという。このようなインドネシア華人の現状は百年遅れで中国作品の翻訳を始めたマレーシア華人の状況とともに今後の研究課題であろう。
 なお近年インドネシア人学者の手によって詳細な文献解題が編まれている*26。



*1 華人の人口については各種統計が錯綜しているが、ここでは大陸出版の次の書物の数字に従って概数を提示した。 鄭民等編著『海外赤子ー華僑』北京 人民出版社 1985
*2 平俗マレー語(バタビア・マレー語)については1884年にプラナカン文学のパイオニアLie Kim Hok(李金福)による専著が著されているが、それについての最近の論稿に次のものがある。Lomberd,Denys "La grammaire malaise de Lie Kim Hok(1884)" Langages et techniques,nature et soci師・ Paris Klinkseck 1972
*3 温広益[等編著]『印度尼西亜華僑史』北京 海洋出版社 1985 第三編十二章
*4 Salmon, Claudine Literature in Malay by the Chinese of Indonesia: A Provisional Annotated Bibliography Paris Editions de la Maison des Sciences de I'Homme 1981
Tan Chee Beng "Baba Chinese Publications in Romanized Malay" Journal of Asian and African Studies 22 1981
*5 谷衣『戦前武侠小説在印尼』文学半年刊(シンガポール写作人協会)10 1982
*6 Singapore 1889
*7 梅井「峇峇翻訳文学与曽錦文」亜洲文化(シンガポール亜洲研究学会)2 1983
*8 押川典昭「『インドネシアの紅はこべ』とタン・マラカ」上智アジア学4 1986
*9 l・b・ 「叨」は南洋華人のシンガポールの呼称
*10 参考:東インドの華人総人口210万人(1950)中プラナカン150万人、新客60万人。(Victor Purcell The Chinise in Southeast Asia Singapore Oxford University Press 1981)
*11 1910年バタビア発刊
*12 1923年バタビア発刊
*13 廖建裕「印尼武侠小説概論」『南洋与中国』シンガポール 南洋学会1987
*14 廖建裕 ibid.
*15 Mundingsari訳 Himpunan Sadjak Tionhoa Jakarta Balai Pustaka 1949
*16 廖建裕「華文文学翻訳在印馬」亜洲文化(シンガポール亜洲研究学会)15 1991
*17 Sam Kok atau San Kuo Chie Yen I Jakarta P.T.Bhuana Ilmu Populer 1986
Kisah Tiga Negara Jakarta Grafitipers 1987
*18 Shui Hu Chuan-108 Pendekar Liang San- Jakarta P.T.Bhuana Ilmu Populer 1986 Batas Air Jakarta Grafitipers 1986
*19 Go Gien Tjwan, SSoekotjo訳 Riwajat Kita Ah Q Jakarta Pustaka Rakjat 1956 J Tannin訳 Riwajat Asli Si Ah Q Jakarta Jajasan Kebudayaan Zamrud 1961 Shanuu訳 Philihan Tjerpen Lu Sin Jakarta Jajasan Kebudayaan Sadar 1963
*20 Pramoedya Ananta Toer訳 Opera Lima Babak(Bai Mao Nu) 北京 中国外文出版社 1958
*21 Njanjian Remadja Jakarta Lekra 1964
*22 Catatan Harian Orang Gila Jakarta Yayasan Obor 1988
*23 スハルト政権下の華人観については以下を参照 高木暢之「インドネシアにおける中国観と影響力」 『東南アジアにおける中国のイメージと影響力』大修館書店 1991
*24 Cerpen Pilihan Sastera Mahua Kuala Lumpur Dewan Bahasa dan Pustaka 1988
*25 押川典昭 ibid.
*26 Oetomo,Dede "A Survey of Writing on the Ethnic Chinese in Indonesia" Asian Culture(Singapore Society of Asian Studies)11 1988

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.26

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち-Indonesiaカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは-Cambodiaです。

次のカテゴリは-Laosです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。