3/8土曜に1957年の独立以来12回目のマレーシア総選挙が行われた。隣国ブルネイにいたので、当日は夜遅くまでマレーシアTV2の選挙速報にかじりついていた。3/10帰国時にはちょうど開票結果が新聞報道されていて、マレーシア航空機内で華字紙英字紙などをずっと読んでいた。写真は南洋商報の選挙結果記事より。1969年総選挙、あの五月十三日人種暴動以来与党2/3割れの大敗とか、4月に十年ぶりに被選挙権が回復するアンワル元副首相の動向とか、サミーベルや許子根ら与党大物の落選とか、サラワク以外で同時に行われた州議会選挙の結果、ケダ(PAS15/36)、クランタン(PAS38/45)、ペナン(DAP19/40)、ペラ(DAP18/59, UMNO27/59)、スランゴール(PKR15/56, UMNO18/56)で野党が過半数を占め首長を出すとか、トピックはいろいろあるが、私のとっての最関心事はジョホール州Kluang地区(P152)でMCAから立候補した、ほぼ同年の古い友人何国忠(Hou Kok Chung)のこと。結果は27,970/71,233票を獲得し、次点のDAP候補(24,189票)を振り切って当選。華人系与党のMCAは、前回2004年に比べ下院議席を31から15へ、州議会も70から31に半減させ、副党首兼運輸相の陳広才も立候補していないので、Dr.Houは悪くとも副大臣とか。3年ほど前からMCA党首で住宅地方相の黄家定と茶飲み友達になり、ブレインとして彼の著書を手がけはじめた頃からささやかれていたことが現実となった。私にとっては研究者仲間であり、エッセイストとして馬華文学の研究対象であり、家族ぐるみの友人でもある。マレーシアの公務員は56歳定年で、四十代はどの世界でも若手でなく、全く中心だ。多民族社会の中で、少数派華人の利益代表を務められる知識人はそう多くないだろう。今年の春節、珍しくDr.Houからカードが来ていた。酔狂と君笑うなかれ、古来戦場から何人戻れただろう。覚悟とも取れる内容が墨痕鮮やかに記してあった。マラヤ大からラーマン大に移るのだろうが、研究者として、作家として実に惜しい。友人として健康と精神衛生が心配だ。十年か二十年か、短くあってほしいような気もするが、野党DAPの傑倫のように、政治活動を引退後また文筆をはじめた例もある。本当に何もできないのだが、彼のこれまでの著述を整理しつつ、見守るしかない。
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2008年内閣が発表された。ラフィダ前通産相の退任、MCA会長、副会長が住宅地方相、交通相を外れ、惨敗のグラカンから入閣はなかった。27省庁の正副大臣数は90名から68名に減った。何国忠は予定通り高等教育省副大臣となった。