2006年11月13日

創設40周年記念大会(第76回研究大会)

東南アジア学会(旧・東南アジア史学会)
創設40周年記念大会(第76回研究大会)・会員総会

共催:東京大学大学院人文社会系研究科 南・東南アジア歴史社会専門分野

2006年11月


会員各位

東南アジア学会
会長 桜井由躬雄


 東南アジア学会の2006年度秋季研究大会(第76回)を東京大学大学院人文社会系研
究科 南・東南アジア歴史社会専門分野の共催の下、下記のように開催いたします。
今回は、学会創設40周年を記念して1日目に国際シンポジウム、2日目に自由研究発
表を企画しております。また、この研究大会にあわせて会員総会を招集いたします。

 国際シンポジウムには外国人研究者の方をお誘いあわせおいでください。みなさま
のご参加をお願い申し上げます。


研究大会/会員総会

とき: 2006年12月9日(土)・12月10日(日)

会場: 東京大学本郷キャンパス法文2号館1番・3番大教室

    東京都文京区本郷7−3−1

地下鉄丸の内線・大江戸線本郷3丁目駅,南北線東大前駅下車

大会準備室:

    東京大学大学院人文社会系研究科 南・東南アジア歴史社会専門分野

     〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1


東南アジア学会事務局

東京大学大学院人文社会系研究科 南・東南アジア歴史社会専門分野

〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1


12月9日(土)

International Symposium Commemorating 40th Anniversary of JSSAS

At Faculty of Law & Letters Bldg.2, Lecture Room no.3, Hongo Campus, the
University of Tokyo

 (Open to non-members. No Japanese translation is provided.)

13:00 registration


13:30【Opening Remarks】

SAKURAI Yumio, President of JSSAS


13:40 - 14:20
【Keynote Speech : Review of Southeast Asian History in Japan】

ISHII Yoneo, National Institutes for the Humanities


【Symposium:Recent Trends in Studies of Southeast Asian History】

14:20 - 14:50

“Rethinking Legal and Illegal Economy: A Case Study of Tin Mining in
the Island of Bangka, Indonesia”

Erwiza Erman, Indonesian Institute of Sciences (LIPI)

14:50 − 15:20

“Historical Relations between the Malays of the Malay Peninsula and the
Chams of Vietnam”

Danny Wong, University of Malaya

15:20 − 15:40 Coffee Break


15:40 − 16:10

“Evidence for Contact, Trade and Diffusion: Southeast Asian Archaeology
over the Past Ten Years”

YAMAGATA Mariko, Waseda University

16:10 − 16:40

“Current Trends of Studies on Insular Southeast Asia in the Early Modern
Era”

OTA Atsushi, National University of Singapore


16:40 − 18:00 Discussion
                                                                    
18:30 Reception at Sanjo-Kaikan (Reception Fee: 3,000yen)


12月10日(日)

自由研究発表

東京大学法文2号館1番大教室


09:00     受付開始


09:30-10:05  「タイにおける潮州系華人の慈善活動とタイ型民間地域社会構築
の可能性」              中山 三照(大阪観光大学)


10:05-10:40  「タイにおける木材輸送—産地と輸送手段の変遷—」 

                           柿崎 一郎(横浜市立大学)


10:50-11:25  「開発過程における慣習の復興と解体—スマトラ、プタランガン
社会の森林利用—」         増田 和也(京都大学大学院生)


11:25-12:00  「インドネシア・ミナンカバウ高齢者のリビングアレンジメント
—社会変容の一側面として〜ミナンカバウの事例—」 西廣 直子


12:00-12:35  「スハルト新秩序体制下における1997年総選挙の住民動員—東ジャ
カルタ市Bクルラハンの事例—」

                       小林 和夫(日本大学非常勤講師)


12:35-13:45  昼食(お弁当の用意はありません。お近くの食堂等をご利用くださ
い)


13:45-14:35  会員総会


14:40-15:15  「英領期ビルマの種痘政策とインド人移民労働者差別言説—海港
での種痘強制問題とインド人移民労働者へのまなざし—」

                         長田 紀之(東京大学大学院生)


15:15-15:50  「新聞『ナガラ・ワッタ』の考察—初期民族主義者の視点と社会
背景—」            神田 真紀子(東京大学大学院生)


15:50-16:25  「ビルマ「古典歌謡」におけるジャンル形成—創作技法の分析を
通して—」       井上 さゆり(日本学術振興会特別研究員)


16:25    次期会長あいさつ/閉会の辞

両日とも託児サービスを用意しております。詳しくは別紙をご参照ください。


会員総会
審議事項
1) 研究大会時の託児サービスの財源確保について
2) 2007年度予算
3) 77回大会会場と内容
4) その他


東京大学 本郷キャンパス 法文2号館
地下鉄丸の内線・大江戸線本郷3丁目駅,南北線東大前駅下車
地下鉄南北線・東大前駅

2006年05月11日

第75 回研究大会(名古屋大学)

東南アジア史学会 第75回研究大会・会員総会   2006年5月

会員各位

東南アジア史学会
会長 桜井由躬雄

 東南アジア史学会の2006年度春季研究大会(第75回)を、下記のように開催いたし
ます。今回は、自由研究発表のほか、2日目に二つのパネルを企画しております。ま
た、この研究大会にあわせて会員総会を招集いたします。

 みなさまのご参加をお願い申し上げます。


研究大会/会員総会

とき: 2006年6月10日(土)・6月11日(日)

会場: 名古屋大学東山キャンパス

    〒464-8601 名古屋市千種区不老町

大会準備室:

    名古屋大学大学院 国際開発研究科 大橋厚子研究室

〒464-8601 名古屋市千種区不老町

6月10日(土)

13:30 受付開始  
14:00-14:10 開会の辞(国際開発研究科8階オーディトリアム)
                大会準備委員長 大橋厚子(名古屋大学)

自由研究発表

第一会場(国際開発研究科8階オーディトリアム)

14:15-14:50 アグリカルチュラル・インボリューション再考−戦後日本にお
けるインドネシア社会経済史学史の一側面− 大橋厚子(名古屋大学)

14:55-15:30 1930年代ジャワにおける日本人商店の活動とその取引に関する
一考察−スマラン加藤商店を事例として−      泉川普(広島大学大学院)

15:30-16:05 休憩

16:05-16:40 ある飢饉の記録:南アラビア・ハドラマウト 地方と日本による
東南アジア占領              新井和広(東京外国語大学AA研)

16:45-17:20 第二次大戦下のベトナムにおける日仏プロパガンダ
                   難波ちづる(日本学術振興会特別研究員)

17:25-18:00 19世紀半ばのシプソンパンナーとラタナコーシン朝——ムン
プンのマハーチャイの証言から            加藤久美子(名古屋大学)

第二会場(国際開発研究科6階第三講義室)

14:15-14:50 アメリカ植民地期フィリピンにおける教員:その形成と変遷
                         岡田泰平(一橋大学大学院)

14:55-15:30 フィリピン企業のコミュニティ対策とCSR(企業の社会的責
任)                    近藤まり(立命館アジア太平洋大学)

15:30-16:05    休憩


16:05-16:40 ラオスの中央地方関係における県党委員会および県知事の権限
に関する一考察 −ヴィエンチャン県工業部の事業形成過程を中心に−
                        瀬戸裕之(名古屋大学大学院)

16:45-17:20 カンボジア農村におけるセーフティーネットの原理—タカエウ
州におけるサンガハの事例—             矢倉研二郎(名古屋大学)

17:25-18:00 「日本なまこ」のかたるもの—歴史世界としての「ナマコ世界」
と野生生物保全                   赤嶺淳(名古屋市立大学)


18:30 懇親会

会場:フレンドリィ南部(生協)

※ 今大会の懇親会は、より多くの会員に気軽に参加していただけるよう、飲み
物とサンドイッチ程度で、参加費を2,000円(一般会員、学生会員共通)としました。

6月11日(日)

第一会場(国際開発研究科8階オーディトリアム)

パネル ムスリムはイスラームをどう学ぶのか

9:30-9:40   趣旨説明                小林寧子(南山大学)

9:40-10:10  曖昧化する境界:インドネシアにおけるマドラサの制度化とプサント
レンの多様化                     服部美奈(名古屋大学)

10:10-10:40  教科書に描かれるムスリム像:インドネシアの一般学校用教科書から
                            小林寧子(南山大学)

10:40-11:00 休憩

11:00-11:30  インドネシアにおけるクルアーン幼稚園の発展と国内外へのインパク
ト                       中田有紀(名古屋大学大学院)

11:30-12:00  周辺ムスリム社会における知の伝達と権威:マレーシアとフィリピン
の国境から                       長津一史(東洋大学)

12:00-12:30  ナショナリズムとイスラームの超国家性:マレーシア国際イスラーム
大学を事例に                杉本 均(京都大学)

12:30-13:30 昼食休憩 

13:30-14:30 会員総会(法学部第三講義室)

14:45-15:15 パネル:コメント          西野節男(名古屋大学)

                          池田美佐子(光陵短期大学)

15:15-16:15 総合討論


16:15    閉会の辞


第二会場(国際開発研究科6階第三講義室)

パネル 変容する上座仏教徒社会—<境域>からみる制度と実践

9:30-9:45  趣旨説明                  林 行夫(京都大学)

9:45-10:15 北タイ国境地域のシャン仏教の制度と実践    村上忠良(大阪外
国語大学)

10:15-10:45 中国・ミャンマー境域の宗教実践とローカリティ—徳宏州、ムンマオ
(瑞麗)の仏教協会の役割    長谷川清(文教大学)

10:45-11:00  休憩

11:00-11:30 近現代ビルマにおける経典仏教の変遷 原田正美(大阪外国語大学非
常勤講師)

11:30-12:00 ポル・ポト時代以後のカンボジア仏教における僧と俗
                     小林 知(日本学術振興会特別研究員)


12:00-12:30 東北タイ農村の<都市仏教>の展開にみる制度と実践
                             林 行夫(京都大学)

12:30-13:30 昼食休憩 


13:30-14:30 会員総会(法学部第三講義室)

14:45-15:15  パネル:コメント

            永渕康之(名古屋工業大学)

            土佐桂子(東京外国語大学)

15:15-16:15 総合討論


16:15    閉会の辞(国際開発研究科8階オーディトリアム)


会員総会 (法学部第三講義室)

審議事項

1) 創立40周年事業について
2) 2005年度決算報告
     3) その他

2005年06月01日

個人研究発表

海域アジアの植民地都市計画−ヨーロッパ人とアジア人の価値観の違い
泉田 英雄 (豊橋技術科学大学)

 植民地都市は,宗主国側と現地住民側の価値観がさまざまな局面で衝突するところである。本稿は,16世紀から20世紀前半まで海域アジアでヨーロッパ諸国によってどのような都市建設が行われてきたのかを時代軸上で整理し,特に18世紀以降都市の物的な計画意図が何であったのかについて議論する。
 植民都市:ポルトガルはもともと地中海沿岸のフォンダコと同じものを開設しようとしたが,イスラーム商人との協調ができず,貿易権益の確保と維持のために自国民の植民を目指した。これを植民都市と呼ぶことにする。ゴアに代表されるように,移住者は自国と同じように教区の中で自らの畑地を耕しながら生活した。
 商館都市:オランダ東インド会社も,バタフィアでは自らの貿易機能を満たすだけではなく最初は自国民を植民させようとした。そのために,オランダの都市建設手法に則りながら"理想的"な都市建設を実施した。これはヨーロッパ都市を強引にアジアの土地に出現させたものであり,後の植民地都市の問題を先取りすることになった。それは道路や歩道などの公共空間に対する認識の違いであり,アジア系住民は歩道を商売の場所と考えた。1670年代,バタフィアに滞在していたニューホフは,屋根のついた歩道が現地住民の間で"カキ・リマ"と呼ばれていたと書きしている。アジア系住民の公共歩道の私的占拠に対し,権力側は命令と警察権で対処した。
 植民地都市:アジア系居住者を植民地都市の必須の要素と見なし,彼らの居住地景観と空間利用になんらかの規律を与えようとした。これは,1822年のラッフルズによるシンガポール都市計画から始まり,"ラッフルズのヴェランダ"はそのための装置であった。"カキ・リマ"は建物の庇下空間であり,必ずしも連続する必要はなかった。それに対し,"ラッフズのヴェランダ"は土地所有者に建物を建てる際に必ず道路際最低6フィートをそのために確保させるもので,公共屋根付き歩廊として機能した。しかしながら,土地所有者はそこはあくまで自分の土地であり,使う権利があると認識していた。同じようにして作られたのが,台湾と旧民国政府下の広東,廈門,泉州などの都市である。それに対して,香港のそれは公共歩道の上に許可制で建て増しされたもので,結果的によく似た形態になった。
 帝国植民地都市:アジア系住民を最重要労働者とみなし,彼らに少しでも健康的な居住基盤を整備しようとした。切っ掛けは,香港など支配側住民がアジア系住民と非常に近接して住むようになり,伝染病と類焼の危険性に脅かされたからである。上下水道が整備され,廃棄物処理が行われ,19世紀末には一定量の光と空気を室内に入れることを義務づける建築確認制度が始まった。
 そして20世紀初頭にはいくつかのモデル健康住宅の建設が行われた。このようにして,権力側は景観・歩道の外部空間から室内空間へと対象を深め,また方法も命令・取締から制度作りへ変化させていった。さらに1910年代には,権力者側はより健康的な労働者の確保の観点から,健全な娯楽の場を提供を始めていった。具体的にいえば,劇場,映画館,遊技場などを備えた公共施設を整備し,旧イギリス領植民地ではパークと呼ばれた。

2005年05月30日

個人研究発表

チャム・バニの村落社会におけるターン・ムキとポー・アロワッ信仰
吉本 康子(神戸大学大学院)

 本報告は、ベトナムにおいて「回教徒」と位置づけられているチャム・バニの事例を取り上げて、イスラーム的な要素の受容によって生じた宗教的複合状況の実態と人々の宗教的自意識との関係について論じる。
 現在、ベトナムにはおよそ6万3千人(1999年の国勢調査による)の回教徒が暮らしており、その大半が「チャム」と呼ばれる民族カテゴリーに属す人々で占められている。チャム・バニとはチャムの下位集団のひとつで、17世紀から19世紀ごろにかけてイスラーム的な要素を受容したとみられている。チャム・バニの各村落には「ターン・ムキ」と呼ばれる礼拝堂があり、そこで人々が定期的に実修している「コーラン」の読誦を伴う礼拝は、イスラームのモスクにおける礼拝に相応するチャム・バニのイスラーム実践として一般的には捉えられている。
 しかし村落における人々の宗教実践のあり方を観察していくと、当事者たちはターン・ムキへの参拝やポー・アロワッに対する礼拝を「イスラームの実践」として実修している訳ではなく、またそうした行為を通していわゆるイスラーム共同体の成員としてのアイデンティティを形成しているわけでもないことがわかる。チャム・バニの社会は制度上、宗教職能者(ハラウ・チャナン)、「在家」(キヘー)という二つのカテゴリーで構成されており、ポー・アロワッに対する信仰とその実践のあり方は、男性の宗教職能者、女性の宗教職能者、男性の在家、女性の在家などでそれぞれ異なっている。ここで特徴的なのは、こうした分類に基づけば、「コーラン」を読誦し、その知識に基づいて儀礼を執行するのは男性の宗教職能者のみということになり、「在家」は儀礼の執行に必要となる供物の寄進などの行為によってその役割を果たしているということである。なお、ターン・ムキにおける儀礼には、ポー・アロワッだけではなく村落の各出自集団の祖霊に対する供養を目的とする過程がみられる。つまりターン・ムキへの参拝は、ポー・アロワッに対する信仰だけではなく、祖霊に対する信仰とも関連しているのである。
 チャム・バニを「回教徒」とみる外部のまなざしに対してチャム出身の知識人らは、チャム・バニの宗教はイスラームではなく、同じチャム族のバラモン教徒すなわちチャム・バラモンと共に同じ世界観を共有する「民族宗教」であるという「当事者」側の解釈を主張している。こうした言説は、イスラーム的な要素と土着の要素との世界観のレベルにおける「融合」に焦点を当ててチャム・バニの宗教現象を説明し、それをイスラームという世界宗教に包括されない、チャム族独自の創造性の表れとして位置づける傾向にある。以上の事例から言えることは、チャム・バニは確かにイスラーム的な要素を有する信仰を実修しているが、その住民は「イスラーム化」している訳ではないということである。

2005年05月28日

個人研究発表

ペゴン宗教本にみる19世紀ジャワのイスラーム受容
菅原 由美(天理大学)

 19世紀中葉オランダ植民地期のジャワは、巡礼者やイスラーム寄宿塾が増加し、新たなイスラーム化の波を迎えていた。しかしながら、こうした側面は、これまでのインドネシア史研究において、指摘はされながらも、詳細に分析されてこなかった。これは、20世紀初頭のイスラーム改革主義運動に研究の焦点が置かれ、インドネシアのイスラームにとって、19世紀は単に「改革前の時代」としてしか捉えられてこなかったためである。また、オランダ植民地期にはじまったジャワ学において、イスラーム浸透前の「純正」なジャワ文化研究のために、ジャワ文字ジャワ語史料研究が蓄積された一方で、イスラーム寄宿塾で用いられていた宗教テキストは、研究材料として十分に注目されることがなかった。近年になって、プサントレンで用いられているテキストの研究が発表されているが、プサントレンと外の社会とのつながりが明白に示されていないために、こうした研究からジャワ社会のイスラーム受容の問題を説明することは不十分にならざるを得ない。本発表は上記の問題関心に基づき、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、二人の人物によって執筆・出版されたペゴン(アラビア文字ジャワ語)宗教本の執筆及び流通特徴を分析することにより、同時期のジャワ社会のイスラーム受容について考察することを目的とする。
 19世紀中葉、ペゴンによって宗教テキストを大量に執筆する宗教指導者-アフマッド・リファイとソレ・ダラット-が現れる。それまでペゴンは宗教テキストの場合、アラビア語本文に挿入される翻訳に用いられることが主であった。しかし、彼らはアラビア語やマレー語の知識を持たないジャワの民衆を対象にして、ジャワ語でテキストを執筆した。これらのテキストには、プサントレンで用いられていたテキストの内容が組み込まれていただけでなく、読者が理解または実践できるように、様々な工夫が挿入されていた。
 一方、巡礼者の増加とともに、シンガポール及びボンベイで宗教テキストの出版が盛んになり、ペゴン書も出版を重ね、ついにはチレボンやスラバヤなどのジャワ北海岸でも、アラブ人によりペゴン書が出版されるに至った。特に人気を博したソレ・ダラットの著書Majmu’at al-Shari’at al-Kafiyat li al-Awammは、ムスリムとしての基礎知識に加え、結婚、礼拝、巡礼などについて項目ごとに簡潔にまとめられており、実生活のなかで手引書として用いることができる宗教書であった。こうしたことから、オランダ統治下にありながら、実生活の規範としてイスラームを取り入れ、ムスリムとしてより「適切な」生活を送ることを、プサントレンの外にいる人々が望む方向にあったこと、そして宗教指導者も、より民衆の要望に合致したかたちでの知識提供を行っていったことがうかがえる。現地人官吏批判につながるイスラーム慣習の実践には圧力がかけられていたが、テキストの表現を変えながらキヤイの抵抗は続いた。

2005年05月27日

個人研究発表

第二次世界大戦期アジアにおけるアーカイブズについて
安藤 正人(人間文化研究機構国文学研究資料館)

 日本の植民地支配や戦争をめぐるいわゆる「歴史問題」を克服し、アジアの人々と歴史認識を共有するためには、何よりも歴史認識の基礎となる記録(アーカイブズ資料)の共用化がはかられなければならない。記録の共用化とは、残された記録を掘り起こし、科学的に整備し、これを共通に利用できる、開かれたアーカイブズ(文書館)・システムを創り出すことにほかならない。ただ、そのための基礎的なステップとして、過去の植民地支配や戦争において、アーカイブズ資料がどのように破壊されたり、流出あるいは散逸したのか、また幸いに残されたものは、どのような経緯で残ったのか、という「アーカイブズの歴史」archival historyを明らかにすることが極めて重要である。 それは、今なお止むことのない戦争の脅威から記録をどう守っていくのか、という現実の問題にもつながっており、歴史学とアーカイブズ学が協同で取り組むべき課題だと考えている。
 本報告では、日本占領期のマラヤ・シンガポールに例をとり、現地のアーカイブズ資料がたどった歴史の一端を、少ない史料から紹介してみることにしたい。とりあげる素材としては二つ考えている。ひとつは、クアラルンプールに保管されていたマレー連合州とセランゴール州政府の重要公文書が、日本軍侵攻直前にシンガポールに避難移動させられ、日本統治下になってから、その探索と原状復帰が試みられるという小さな「事件」である。日本軍政下における文書行政や記録保存システムの詳細はほとんどわかっていないが、本件は原史料によってその一端を垣間見ることのできる貴重な事例だと思われる。
 第二に、直接史料ではないが、戦後、マラヤ・イギリス軍政部に設けられた「記念物・美術・アーカイブズ課(M.F.A.A.)」の記録から、シンガポールのラッフルズ博物館・図書館(「昭南博物館・図書館」)を中心とした日本軍政期のアーカイブズ活動について見てみたい。同博物館・図書館については、E・J・H・コーナー『想い出の昭南博物館』(中公新書)によって広く知られており、本報告ではそれ以上に新しい事実を示すことはできない。しかし、マラヤ・シンガポール全体のアーカイブズ史を明らかにするうえで、日本軍政期における同館の活動は大きな位置を占めていると思われるので、やや詳細に史料紹介を行いたい。また、イギリス軍政部記念物・美術・アーカイブズ課(M.F.A.A.)自体も、「戦争とアーカイブズ」の関連を考える上で興味深い存在である。時間的余裕があれば、日本軍政との比較を念頭におきつつ、その性格を論じてみたい。

個人研究発表

インドネシアのムスリム家族法改正問題
―「イスラーム法集成(KHI)対案」を中心に―
小林寧子(南山大学)

 本報告は、ムスリムに適用される家族法(婚姻・離婚・親子関係・相続に関する法)の変容を、伝統的イスラーム法の価値観と近代的価値観との相克という観点でとらえ、イスラーム発展のダイナミズムをさぐることを目的としている。
 多くのムスリム諸国と同様、インドネシアでも商法、民法、刑法などの分野では西欧近代法が導入される一方、家族法では修正を加えられたイスラーム法が成文化された。1974年に成立した婚姻法では、異宗教間結婚、婚外子の問題などが積み残しにされたが、妥協がなったはずの複婚(多妻婚)問題もその後燻り続けた。1980年代末以降ムスリムの家族法問題を審理する宗教裁判所組織は整備されてきたが、審理の根拠となる実体法は制定されず、ガイドライン「イスラーム法集成(KHI)」が示されただけであった。しかもこれは、近代法にはなじまない規定や婚姻法の内容と矛盾する規定も含んでいた。
 宗教省のジェンダー主流化作業部会は、懸案となっていた宗教裁判の実体法の起草を行い、2004年10月に「イスラーム婚姻法案」「イスラーム相続法案」他1点からなる「KHI対案」を発表した。KHIの大半が古典的イスラーム法の複製に等しいものであったのに比べ、この「KHI対案」は、複婚禁止、異宗教間結婚許可を始めとして、ほとんどのKHI条項に大幅な修正を施しており、「革命的」という評さえ受けた。イスラーム法は常に古典的法との連続性が問われるだけに、発表後にはイスラーム急進派のみならずウラマー協議会、さらに民間のウラマーからも激しい反発を引き起こした。窮した宗教大臣は作業部会責任者を譴責処分にし、その後交代した新しい宗教大臣もこの草案を撤回することを決定した。しかし、国家女性委員会は宗教大臣に撤回の見直しを求めたほか、各地でセミナーが開かれるなど、この「KHI対案」をめぐる議論は広がりを見せている。
 このように議論を巻き起こした「KHI対案」が登場した背景には、ここ20年あまりのイスラーム法学言説の展開がある。この起草作業の主力になったのは、主にナフダトゥル・ウラマー(イスラーム伝統派)系の知識人であり、かれらは従来のイスラーム法学と異なる大胆なクルアーン解釈とコンテクスト重視の方法論を用いて、現代インドネシア社会の要請に応えるイスラーム法のあり方を模索してきた。さらに、民間の女性組織および女性問題を扱うNGOの隆盛、ジェンダー問題への関心の高まりも、婚姻法およびKHIにある男女不平等の是正を求める大きな力となっている。スハルト退陣後、イスラーム急進派の台頭、地方分権化が進む中で「シャリーア適用」が政治議題となっているが、その内容は漠然としたままである。「KHI対案」はまだ若干の修正が必要であるが、ジェンダー公正、社会の多元性に配慮した新しいイスラーム法のあり方を示したものとして評価できる。

2005年05月26日

個人研究発表

トンブリー朝、初期ラタナコーシン朝(1768-1854)におけるシャムの支配者層と華人人口
増田 えりか

 前近代シャムにおける華人人口に関する既出の論点は、対中朝貢交易における仲介者層としての役割、特にアユタヤ末期から初期ラタナコーシン朝期にかけての華人人口の増加が旧来の身分制度にもたらした変化、また、初期ラタナコーシン朝における徴税請負人、商品作物の栽培者等としての経済的な役割等である。本発表においては、1767年のアユタヤ崩壊後から19世紀半ばの対中朝貢終了までの時期をとりあげ、同時代史料に登場する華人の動向と、また史料中に見られる支配者層の華人人口に対する意識に関して考察を行いたい。
 トンブリー時代(1786-1782)からラーマ3世(在1824-1851)の統治後半期に至るまでのシャムの支配者層は、シャム国王の統治の枠組みに置かれたその他の民族と特に大きく異なって華人人口を意識していたことはないように思われる。シャムの同時代史料から垣間見られるのは、支配者層から見て、何か「特筆」されるべき活動を華人が行っている姿である。本発表においては、以下の二時期に見られる史料に特に注目したい。まず第一に、アユタヤ崩壊後から、トンブリー時代にかけての時期をとりあげたい。この時代において史料から伺えるのは、ビルマに対する防衛の戦力として登用されている華人層の動向である。タークシン王の父が潮州系の華人であったことは周知の事実だが、シャム側の史料に、華人の言語グループに関する言及は殆どないという点が注目される。また、漢文史料によれば、一旦途絶した対中朝貢関係復活の交渉者、清朝との交易の仲介者としてタークシンによって登用された華人は特に潮州系に限らず、また、続く初期ラタナコーシン朝においても、潮州系華人が「ロイヤルチャイニーズ」として統治者から優遇された、という定説には疑問の余地がある。
 第二に、ラーマ3世の統治後半期に注目したい。この時代に至って、シャムの支配者層は華人人口がシャム社会にもたらす諸問題を明確に意識し始めていたことが注目される。彼らは、アヘンの流通が清朝にもたらした政治、経済的危機を含む、アヘン戦争に関する情報を華人商人らから収集しており、国内の各地においてアヘン取締りを行なっていた。これらの取り締まりに関する史料から、アヘンの流通の主な担い手と統治者から目されていた華人のイメージを読み取ることができる。また、華人人口の一部は、シャムの支配領域に近接する英領を含む、シャムの統治領域の枠を超えた行動半径を持っており、後の保護領民問題につながる社会問題の発端が、既にこの時期において支配者層に意識されていたことも伺える。

個人研究発表

反・反イスラーム主義の政治社会学
―スハルト後のインドネシアにおける宗教運動と民衆―
佐々木 拓雄(国際医療福祉大学非常勤講師)

 反・反イスラーム主義という概念の使用によって意図しているのは、イスラーム主義にも反イスラーム主義にも与しない人々の存在や態度を掬いとることである。1998年のスハルト政権崩壊から現在までのインドネシア政治は、現地ムスリム社会の文化的態様を映し出すかたちで発展してきた。そこであらわれた最も大きな、しかし見過ごされがちな潮流が、反・反イスラーム主義である。本発表では、概ね以下の主張にそって、この潮流の文化的背景、宗教運動との関わり、政治社会でのあらわれ方について論じ、スハルト後インドネシアの政治変動を読み解く際の視点や理論的枠組を提起する。
 インドネシアのムスリム社会は、従来、アバンガン(名目的ムスリム)とサントリ(敬虔なムスリム)の二項対立図式によって捉えられてきたが、その構造は、開発の成果やイスラーム復興のうねりとともに変化した。すなわち、読み書き能力の大衆化とマスメディアの発達などにより、聖典を読む人々が増え、逸脱への恐れとともに、聖典の規範が浸透した。これは、聖典の規範がすぐに履行されるようになったという意味では必ずしもない。履行すべきだという志向性が広まったという意味である。そうしたかたちの再イスラーム化が進行する一方で、住民の多数は、アバンガン文化の特色ともされた「寛容」も保ち続けた。この「寛容」は、信仰スタイルの多様性を受け入れる態度とともに、異種混交性の高い大衆文化に象徴される創造的な力とも結びついている。
 聖典に基づくイスラーム・アイデンティティの高まりと高度な「寛容」を併せ備えたこの多数派住民の心性は、それをとりまくどの宗教運動とも容易に結合しない。スハルト政権崩壊後、イスラーム主義(聖典主義)運動が活性化し、コミュニケーション上の強力な地位を得た。しかし、この運動は「寛容」に基づかないがゆえに、当然のように支持層に限界があった。他方、これに対抗する多元主義(リベラル)イスラームの運動は、多数派住民との接合がより可能であるが、不寛容に対しても「寛容」を持続する人々のスタイルとこの運動の間には、注意して見るべき隔たりがある。
 こうして特定の運動に帰せられない人々の、多くの場合、イスラーム主義運動に対する反応として政治社会にあらわれてきたのが、反・反イスラーム主義の潮流である。それは、社会統合のコアとなると同時に、政治力学の焦点ともなった。「ムスリムである前にインドネシア人であれ」とする世俗的ナショナリストたちの言説が衰退していったのは、それを吸収する基盤が大きく失われたことの表れである。また、現大統領ユドヨノが選挙で成功した要因の一つは、彼が自らのムスリムとしてのアイデンティティを薄めることなく、世俗的なコミュニケーションの奥行きを広げようとした点にあった。

個人研究発表

フィリピン・ミンダナオ島における国家入植政策とその展開
―1913年に始まる農業コロニー計画を中心に―
鈴木 伸隆 (筑波大学)

 本発表では、米国によるフィリピン植民地統治とミンダナオ島支配の歴史的変遷を解明するため、1913年より開始された国家主導の入植政策とその具体的な展開を検討する。1903年の国勢調査によれば、ミンダナオ島におけるイスラーム教徒の割合は76%であったのに対し、1939年には34%へと激減している。この急激な変動は、主にビサヤ内海域からのキリスト教徒の入植や移住によるものと考えられる。本発表では、1913年に米国植民地政府によって、コタバト州で実施された組織的かつ集団的な入植計画農業コロニー(agricultural colony)に注目したい。
 農業コロニーの目的は、米の増産、人口過密地域の状況是正、公有地の開発と自作農への機会提供の三つであった。当時、フィリピンは旱魃等による米の不作が続き、ベトナムやラングーンからの米輸入に頼っていた。食料不足という緊急課題を大規模なプランテーション農場開発ではなく、余剰労働力の移動によって公有地の開墾を奨励し、小規模な自作農を創出することで、食料増産を図ろうした。そうした目的で設置されたのが農業コロニーであり、実験地であるがゆえに、政府は場所の確保から輸送機関の手配、農耕具、食料、生活物資や資金まで全てを提供した。開設翌年の1914年には3,750人が、1916年には5,252人までが入植するに至った。
 この計画で興味深い点は、コロニー計画の中にイスラーム教徒の入植が組み込まれていたという事実である。キリスト教徒入植者には16ヘクタールの土地配分がなされたのに対し、イスラーム教徒にはその半分の8ヘクタールであったものの、1916年には2,867人、1917年には2,892人と、入植者のほぼ半分をイスラーム教徒が占めていた。これはコロニー計画がイスラーム教徒のための文明化、すなわち農業技術の習得、土地への定住化、首長ダトゥおよび奴隷制からの解放という壮大な実験目標達成のために、導入されたものであることを示唆している。
 表向きには経済状況向上を装いながらも、その裏で社会・政治的な思惑が隠された農業コロニー計画は、結局1917年に資金繰りに困り中断を余儀なくされた。計画そのものは経済的失敗に終わったものの、その一方で民族間対立の不在によるキリスト教徒とイスラーム教徒との民族融合達成が、コロニー最大の成果だとする記述が行政報告書等で逆に増えていく。表面的な観察からのみ確認された余りにも楽観的な評価が、その後入植政策の展開とミンダナオ島支配の方向付けに与えた影響は無視できないものがある。

2005年05月25日

個人研究発表

「亡国の民」の形成
-山地民ラフの自律的政権の解体をめぐって-
片岡 樹(東京経済大学非常勤講師)

 本報告は、東南アジア大陸部山地社会における民族意識の変遷過程を、チベット・ビルマ語系民族のひとつであるラフの事例から論ずるものである。現在の東南アジア(特に山地)で語られる民族的自己規定は、しばしば中国側での歴史的経験を反映している。にもかかわらず、中国での過去と東南アジアでの現在を架橋しつつ理解する試みがこれまでじゅうぶんになされてきたとはいいがたい。本報告は、そうした問題意識を前提に、現在のタイ・ビルマのラフに流布する「亡国」神話を、19世紀末の雲南西南部における政治変動(清朝によるラフ地区の軍事的征服)との関わりで考察することにする。
 ラフの神話が語る、かつて滅ぼされた「ラフの国」がどのようなものであったのかについては、現在の中国民族学の成果を参照することでその輪郭が得られる。そこから明らかになるのは、「ラフの国」における非ラフ的要素の大きさである。18-19世紀に進行した自律的政治統合の強化は、漢伝仏教の影響下に一種の仏房連合体として形成されていた。そこで「ジョモ(王・神・仏)」と崇拝される指導者層には漢人僧が多く見られ、その権力はしばしば周辺地区の「厰棍漢奸」あるいは内地漢人の不平分子との連合によって支えられていた。しかもこうした仏房連合体の組織化は、19世紀における清朝による限定的かつ断続的な介入によって二次的に強化された側面が強い。
 この「ラフの国」の最終的な解体は、1880年代の上ビルマの英領化と、それに対応した清朝の辺防政策の推進に起因する。国土防衛とそのための国境画定という課題のなかで、「ラフの国」の清朝への未服従が、当時の雲貴総督によって突如問題視されるようになったというのがその経緯である。「ラフの国」の解体は、「逆夷の平定」により国境防衛上の不安を取り除くという清朝側の論理によって進められた。
 事実上の独立状態にあった「ラフの国」は、名目上は孟連土侯国領となっており、しかも孟連は清朝と王朝ビルマの双方に服属していたため、1880-90年代には国境画定作業に伴いラフ地区の帰属問題が発生した。同時期には「亡国」状態の回復を神の再臨によって実現すると説く千年王国主義がラフのあいだで急速に高まることになるが、それは中英双方が干渉を強めたことへの反応として把握可能である。現在まで受け継がれるラフの千年王国主義は、この運動を開祖とするものである。
 以上の考察からは、現在のタイ・ビルマにおけるラフの特異な民族意識のあり方は、19世紀末の雲南西南において、従来のローカルな政治体系が近代国家によって存続を否定されたという経験を反映しているということができる。

個人研究発表

再来日後のクオンデの抗仏運動と日仏秘密情報交換協定について
-アジア歴史資料センター資料を活用して-
宮沢 千尋(南山大学)

 本報告では、アジア歴史資料センターでウエブ上に公開されている戦前・戦中の資料を用いることにより、研究・教育面で一種の「資料革命」が起こっており、そのことを、報告者が関心を持っている、東遊運動瓦解後のクオンデら在日ベトナム人の動向を同資料で明らかにする。時間の関係で、本報告はクオンデの再来日から1926年長崎で開催の「全亜細亜民族会議」のクオンデの演説までとする。
 1909年10月31日、日本から退去したクオンデは、1915年秋に再来日する。日本退去直後から仏側は、クオンデの居所を日本外務省に問い合わせるが、日本側はこの事実も把握していなかった。1919年3月、朝鮮三・一独立運動が起こり、大韓民国上海臨時政府が仏租界に樹立されると、仏側は日本に対して「国事犯鮮人」引渡しを提案するが、日本側は臨時政府閣僚22人全員とクオンデ一人の交換案を提案、その人数的不均衡に仏側は同意せず、交換は失敗に終わるが、以後日本側はクオンデの動静を把握しようと努める。
 クオンデは、ベルサイユ会議に向けて、植民地の民族自決権を認めよとの声明を、『天津益世報』に投稿するが、日本の圧力で掲載できず、記事は『北京益世報』1919年3月29日に「世界救亡国民連盟(一字不明)委員会安南光復会代表」の肩書きで掲載される。4月4日には同紙に「上法国政府書」と題して、仏政府にもベトナム独立を訴える。このようにクオンデはベルサイユ会議に大きな期待をかけ、言論活動を積極的に行なっていた。
 次にクオンデの動向に関する日仏間の交渉が問題になるのは、1925年「山県有朋ミッション」のインドシナ訪問時である。経由地の上海で、佐分利条約局長、在上海日仏領事、駐日フランス大使クローデルの間で、①仏側は、在上海や広東の反日「不逞鮮人」の動向を日本側に提供し、②日本側は、在日の反仏ベトナム人の行動をフランスに提供する、との合意がなされた。これにより1938年まで断続的にクオンデの動向を、日本内務省が調べ、外務省に報告し、在日仏大使館員への伝達が行なわれた。
 当時クオンデは、中国人林順徳、日本名・高松と名乗り、早稲田大学や東京大学の講義を聴講したり、残留ベトナム人陳福安とともに過ごしている。生活費は犬飼毅などからの援助であった。また、シャムなどから差出人の名が無い手紙を受け取っている。外務省記録にはこの時期の発言として「散発的なテロでは効果が無く、ベトナムの窮状を世界に訴えるという合理的な方法で目的を達成する」「近来、ベトナム人の政治意識も向上している。権力または武力を持って鎮圧することは不可能であることは、ロシア革命を見れば明らかである」とベトナム人の政治意識高揚に対応できる活動を目指していることがわかる。1926年8月、全亜細亜民族大会が長崎で開かれ、クオンデはべトナム代表として、「ベトナムの窮状への各民族への援助要請、全世界民族の融和、儒教・仏教思想を基礎とするベトナム人の人類愛の理想」を訴えている。1919-1926年という短い時期に、クオンデは積極的な言論活動でベトナム独立の気運を高めようとしたことがわかる。

2005年05月24日

シンポジウム

誰がイスラーム政治家なのか
見市 建(日本学術振興会特別研究員)

 1970年代以降、世界的に顕著なイスラーム復興現象は東南アジアでも観察されている。特に世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシアの再イスラーム化は顕著であり、日常的な挨拶や服装から法制度や国家観に至るまで、さまざまな局面においてイスラーム的規範の重要性が強調され、宗教的シンボルが多用されている。本発表は1998年以降の民主化を踏まえ、インドネシアの政治におけるイスラーム化がどのように進んできたのかを具体的なデータを通じて明らかにする。
 1960年代半ばに成立したスハルト体制はイスラーム勢力を非政治化し、宗教多元的な建国五原則パンチャシラを徹底してきた。イスラームの政治的な重要性が脚光を浴びるようになったのは1990年のムスリム知識人協会(ICMI)の設立以降である。1990年代後半には「民主化」の担い手として、逆に体制側に動員される暴力的な存在としてイスラーム政治勢力が注目を集めるようになった。
 1998年5月のスハルト体制崩壊後には、イスラームの政治化がさらに明確になった。スハルト体制期には常に6割以上の得票を誇ったゴルカル(職能集団)はゴルカル党として再結成されたが、その得票は2割程度まで落ち込み、少数政党が割拠する多党化が進んだ。1999年選挙には20のイスラーム系政党が参加、現在の国会上位10政党のうち6つはイスラーム系政党である。また地方分権化が進み、支配構造の再編とともに地域的な影響力を持つ宗教指導者の役割が重要になった。民主化と地方分権化の過程においていくつかの激しい地域紛争が起こったが、マルク諸島と中スラウェシのポソでは宗教紛争の色彩を帯びた。さらに2002年以降は国際的なイスラーム急進派によると見られる大規模な爆弾テロ事件が毎年起こっている。
 急進派の系譜や地域紛争については詳細な研究が発表されつつある。しかしイスラーム系政党については発表者自身の研究を含めた新興の福祉正義党に注目が集まっているものの、それ以外は概論ないしはミクロな政治構造の研究に偏っている。そもそもイスラーム系政党とは何で、それは1950年代の政党とどのような相違点があり、より具体的にどのような人々がイスラーム政治家になっているのかといった疑問に答える研究はまだない。本発表では国会および地方議会における1999年選出議員5222人、2004年選出議員1808人の社会学的プロフィールを用いて、以上のような疑問に実証的な回答を与える。イスラーム系政党とはいっても、そのイデオロギー的、組織的な性質は実に多様である。また過去数十年にわたるインドネシア社会の広範な再イスラーム化によって、スハルト体制成立当初は反イスラーム的であると見られていたゴルカルも大きな変質を遂げている。世俗的ナショナリズムを標榜する諸政党も視野に入れながら、現代インドネシアにおける政治家とはどのような人々であり、その中でイスラームはいかなる意味を持つのかを考えていきたい。

シンポジウム

ヒンドゥーにおける多元化される価値と政治
永渕康之(名古屋工業大学)

 1980年代、インドネシアにおけるヒンドゥーはバリ島からの脱領域化を経験している。すなわち、バリ島以外のヒンドゥーがバリ島のヒンドゥーよりも多数をしめるという認識がヒンドゥー内部で広まり、バリ島以外のヒンドゥーの組織化がすすみ、発言力を増しているのである。従来、ヒンドゥーはバリ島のバリ人が多数をしめることを前提として、宗教行政におけるヒンドゥーに関する制度は整備されてきた。ヒンドゥーのバリからの脱領域化はその歴史を塗り替えるとともに、バリ中心主義批判をともなうものであった。すなわち、バリの共同体をあらかじめ前提として形成されたヒンドゥーをめぐる制度の限界が指摘されはじめたのである。2001年、バリにおけるヒンドゥー代表機関の分裂という劇的なかたちで批判は表面化した。さらに批判は宗教領域にとどまらず政治世界にも向けられており、バリ社会の今後を左右する2004年に実施された二つの選挙(国民評議会州代表選挙と州知事選挙)に批判勢力は大きな役割をはたした。本発表の第一の目的は、宗教批判勢力の成立過程と現在の動向に焦点をおきながら、批判の内実はいかなるものであり、何を目指しているのかを明らかにすることである。
 脱領域化が生み出した最大の変革はヒンドゥー内部における価値の多元化である。市民社会の実現や多様な声に開かれた民主的立場の強調といった従来なかった宗教の公共的役割をヒンドゥーの団体は意識しはじめた。こうした傾向は、スハルト体制の崩壊過程において顕在化した「改革」と並行するものであるとともに、公共宗教という枠組みにおいて論じられている近年の宗教運動の高まりをめぐる議論と呼応するものである。しかし、民主的ヒンドゥーという主張のもとに結集した多様な声のあり方を見た場合、市民社会や民主主義といった課題を参加主体が共有しているわけでは必ずしもない。むしろ、個々の主体は個別の要求を掲げており、しかも互いの主張において各主体は時には対立している。出自集団や慣習村といった共同体レベルの要求が根強い一方、個人の精神性への希求も拡大している。現在のインドネシアにおけるヒンドゥーは決して同じ価値を共有する単一の閉じられた領域ではなく、むしろきわめて不連続な主体によって構成されているのである。公認宗教への所属が市民権の一部として制度化されている以上、所属宗教を破棄するわけにはいかない。とはいえ、ヒンドゥーという枠組みの内部にいる限り、多元化される価値とそれがもたらす抗争を生きざるをえない。不連続な主体による異なる主張がヒンドゥーという枠組みにおいて接合されている現実に焦点をあて、そのなかで宗教をめぐる諸価値がどのように問われ、政治運動とどのように結びついているのかを明らかにすることが本発表の第二の目的である。

シンポジウム

アダットとキリスト教:土地・資源をめぐる先住民運動にみられる文化シンボルの性質と役割―東西カリマンタン州の事例から―
浦野真理子(北星学園大学)

 インドネシアにおける、アダットをシンボルとする土地・資源をめぐる先住民運動の性質を、1997年から1999年の間に行った東カリマンタンのダヤク・クニャー族の村における17ヶ月のフィールドワークの間に得た参与観察とインタビュー、および2004-5年の間、東西カリマンタン州で行なったインタビューを通して得たデータをもとに検討する。
理論的問題は、(1)過去に採られてきた国家の政策が社会運動の形成にどのように影響するか、(2)文化シンボルは人々が存在意義をかける儀礼なのか、あるいは政治アクターのイデオロギー的道具なのか、である。
 インドネシアでは、スハルト大統領時代の中央集権的な資源開発政策のもと、森林資源の豊かな外島の住民たちは、1965年農業基本法に認められている農民の慣習(アダット)的土地所有に対する権利を認めるよう主張してきた。近年の民主化と地方分権化は、アダット的土地所有の権利強化を求める先住民運動にとって、またとないチャンスといえる。
 東西カリマンタンの農民たちは、木材伐採会社や鉱物採掘会社との間に似通った土地問題を抱えてきた。しかし、農民のエリートたちがそれに対処する運動を組織するそのやり方は、きわめて異なっている。西カリマンタン州の農民は、アダットを旗印とする強い民族アイデンティティを持ち、それが政府の政策に抗議する際に住民組織の大きな力となっている。一方、東カリマンタン州の農民のリーダーたちはアダットを主張してはいるものの、彼らはほとんどが政府の職員や議員たちなどであり、政府がつくった官製のアダット・ネットワークを利用する形で運動を行っている。そのため政府がすすめる森林開発政策などに対して、概して宥和的である。
 なぜこのような違いが生まれてきたのか。その理由のひとつは、60年代に国が反共産主義政策の一環として五大宗教への国民の帰属を徹底させたことにより生じた、両者の宗教的帰属の違いである。クニャー族の住民のほとんどは従来のアニミズムからプロテスタント系キリスト教に改宗したが、プロテスタント系教会はアニミズムの儀式に対して非常に厳しい態度で臨み、その結果、アダットの儀式はほとんどが失われた。クニャー族のリーダーたちが、アダット的土地所有への権利を主張してきたのは、それが国の法律のなかにも認められており、比較的安全な権利の表現手段だったからである。それに対して、西カリマンタンのダヤク族の間では、アニミズムに対して寛容なカトリック教会が優勢であった。そのため、西カリマンタン州のダヤク族のリーダーたちは、伝統的な民族のシンボルを用いた住民の組織化を容易に行なうことができた。
 以上の点は、国家がその政策を通してもたらした社会的な変化が、農民のリーダーが文化シンボルを用いて運動の組織化を行なう能力に影響していることを示している。農民のエリートたちは、文化シンボルを戦略的に道具として用いてきた。しかし、特定の文化シンボルが利用可能かについては、彼らが組織化しようとしている住民の間でどのような価値の変化が起こってきたか、に深くかかわっている。

個人研究発表

植民地期のカンボジアにおける他者認識の成立過程――タイ人の他者化を中心として
笹川秀夫(上智大学アジア文化研究所客員研究員)

 カンボジアのナショナリズムの成立期にあたる1930年代以降、国内に住むベトナム人と中国人を他者と見なすことで、「彼ら」とは異なる「われらクメール人」というまとまりが創り出されてきた。1940年代前半には、タイ=仏印戦争の影響を受けて、タイ人もまた他者と見なされ、「われらクメール人」との差異が出版メディアを通じて喧伝されるようになった。
 クメール人のベトナム人嫌いは顕著に見られる現象であり、カンボジア国内に住むベトナム人に対する襲撃事件が過去に複数回にわたって発生していることなどから、カンボジアにおける反ベトナム感情については、これまでのカンボジア研究でも注目を集めてきた。しかし、シハヌック時代におけるタイとの国交断絶や、2003年1月、プノンペンで発生したタイ大使館やタイ系企業の襲撃事件に見られるように、反タイ感情もまた、カンボジアのナショナリズムの通奏低音をなしているといえる。
 他方で、「ネーション」に相当するクメール語「チアット」が、タイ語「チャート」に由来することや、現在のカンボジア王国憲法で国是とされている「民族、宗教、国王」というスローガンもまたタイからの影響を受けていることなど、カンボジアのナショナリズムの根幹をなす語彙や概念は、タイ語を学び、タイ(シャム)に留学した僧侶によってカンボジアにもたらされたと考えられる。しかしながら、タイ人の他者化がカンボジアのナショナリズムを構成する重要な要素の一つとなったことから、こうしたタイ(シャム)からの文化的な影響が声高に語られることはなくなった。
 本報告は、植民地時代に刊行されたクメール語文献の記述内容を検討することで、カンボジアのナショナリズムの成立過程をたどり、近代的な語彙や概念をクメール語に取り込む際にタイ語を参照しつつも、タイ人を他者と見なすようになった過程を論じることを目的としている。あわせて、ナショナリズムの成立時期に見られる特徴が、独立後も現在にいたるまで、カンボジアで影響力を保持している点についても若干の言及を行ないたい。

2005年05月15日

東南アジア史学会賞記念発表

国民国家ベトナムにおけるエスニシティの変容-中越国境地域のタイー族・ヌン族をめぐって-
伊藤正子(大東文化大学国際関係学部)

 国家により「少数」民族と位置づけられた人々が、国家の国民統合政策の下で生き、かつ国境を跨いで拡がる民族の世界にも住みながら、自分たちのエスニシティを変容させていく過程を論じる。対象としたベトナム東北山間部に住むタイー族・ヌン族と国家の関係は、民族意識が消え去り多数民族への同化が一方的に進むのではなく、エスニシティの活性化が起こりながら、同時に国民意識も強化される過程であった。前近代には、早期に移住してベトナムの影響を強く受け土地や官職を独占したトーと、遅れて移住してきたため小作人が多く中国の文化の影響を強く受けたヌンがいたが、フランスが民族概念を持ち込むと、それぞれトー(タイー)、ヌンという二つの「民族」と断定された。1940年代には多数民族キン族の革命家達もこの範疇を受け継ぎ、革命に協力的なトー族と、ベトナムに疎遠でフランスに操られやすいヌン族という枠組みを用いた。この時期両者の境界は明瞭で、逆にヌン族と華人の境界は不分明だった。しかしこの境界は八月革命後徐々に変わり始める。戦争の過程でかれらはベトナム国家の枠組を身をもって体験し、自治区設立や民族語政策など少数民族に配慮した政策、土地分配・合作社での共同作業など社会主義的政策、ベトナム語による公教育などの政策の影響を受け、国民としての統合が進展した。この過程で両者は平等な存在となり接近する。70年代後半中越関係が悪化すると華人は追放されるが、ヌン族は国家からタイー族と全く同様に扱われ、既に国民の範疇に入れられていたと言える。一方中越戦争後かれらは合作社を解体して供出していた土地を取り戻し、90年代には20万人近くが中部高原に勝手に移住したため、国家からみた理想的な「タイー・ヌン族像」は変化した。この移住は南北分断時に中部高原へ移住した同郷者ネットワークを活用し新生活を切り開こうとしたものだった。同時に中国側の壮族との民族ネットワークも利用し国境貿易の端緒も開いた。国境貿易の隆盛と共に、以前のように教育を受けベトナム社会内で浮上する道ではなく、民族の世界を足場に豊かさを求める動きが一部に出ているが、民族の世界もまた以前とは異なり国家関係に規定されたものとなっている。エスノナショナリズムが国際的に噴出している現在、エスニシティの活性化が分離・独立と直結しない例を提示するタイー族とヌン族のあり方は、着目するに価する。
 タイー族・ヌン族は、以上のように法制度や教育、優遇政策など未来志向の少数民族政策を通じてベトナム国家に国民として取り込まれてきた。しかし、国家は歴史的な「民族の英雄」をベトナム史の中に位置づけて、通時的にも国民として統合されてきたとかれらに意識させることには成功していない。この「英雄」は、いまだ中越両王朝の境界が明確でなかった10世紀に国境地帯に独自王朝をたてた儂智高で、ベトナム李朝と厳しく対立し、宋朝に何度も服属を願ったが許されなかったため宋とも戦い、結局雲南に敗走した。この事跡がベトナムの歴史上の「英雄」の条件を満たさないため、地元の要望もむなしく、彼は中央から無視され国家の通史から排除されたままである。通時的な国民統合は、民族という尺度からは自由だった世界を、現代のナショナリズムによって判断することになるため最も困難であり、国民統合のイデオロギーのありさまをあぶり出しているとも言える。

2005年05月10日

プログラム

会員各位

第20期東南アジア史学会会長
加藤 剛
 
東南アジア史学会2005年度春季研究大会(第73回)を下記の要領で開催することになりました。6月4日の個人研究発表に加え、6月5日のシンポジウムも、それぞれ3つの会場で同時並行して行われます。ふるってご参加下さいますよう、ご案内申し上げます。
なお大会会場となります名古屋市では、2005年日本国際博覧会の開催により、宿舎の確保が困難となっております。お早めにご予定くださいますよう、重ねてご案内申し上げます。

               記

日 時 2005年6月4日(土)〜6月5日(日)

会 場 
愛知大学車道校舎・高層棟
〒461-8641 名古屋市東区筒井2丁目10?31
電話: 052-937-8111

大会準備室連絡先
〒441-8522 豊橋市町畑町1-1
愛知大学国際コミュニケーション学部 加納 寛
Tel.0532-47-4111 内線7355 Fax.0532-47-4197(共)
Email: kano@vega.aichi-u.ac.jp

********* 6月4日(土) *********

13:00     受付開始
*K1001教室*

13:30-13:40  
開会の辞 大会準備委員長 加納 寛(愛知大学)

*****************************
       個人研究発表
*****************************

(第1会場)K703教室
        
座長 石井正子(国立民族学博物館)

13:45-14:20 
フィリピン・ミンダナオ島における国家入植政策とその展開 
—1913年に始まる農業コロニー計画を中心に—
鈴木伸隆(筑波大学大学院)

14:25-15:00 
植民地期のカンボジアにおける他者認識の成立過程
—タイ人の他者化を中心として—
笹川秀夫(上智大学)

15:05-15:40
植民地期北アチェにおけるリーダーシップ再考
細川月子(広島大学大学院)

15:40-16:00 休   憩

座長 柳澤雅之(京都大学)

16:00-16:35 
アメリカ期フィリピン都市にみる公共空間の変容過程
—セブ島のプラサの事例— 
山口潔子(日本学術振興会特別研究員)

16:40-17:15 
海域アジアの植民地都市計画
泉田英雄(豊橋技術科学大学)

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(第2会場)K704教室

座長 弘末雅士(立教大学)

13:45-14:20 
反・反イスラーム主義の政治社会学
—スハルト後のインドネシアにおける宗教運動と民衆—
佐々木拓雄(国際医療福祉大学非常勤講師)

14:25-15:00 
ペゴン執筆活動にみる19世紀ジャワのイスラム化過程

菅原由美(天理大学)

15:05-15:40 
インドネシアのムスリム家族法改革
―「イスラーム法集成(KHI)対案」を中心に―
小林寧子(南山大学)

15:40-16:00 休   憩

座長 小泉順子(京都大学)

16:00-16:35 
アユタヤ末における中国との米穀貿易    
田中玄経(広島大学大学院)

16:40-17:15 
トンブリー朝、初期ラタナコーシン朝(1768-1854)におけるシャムの支配者層と華人人口         
増田えりか

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(第3会場)K903教室

座長 馬場雄司(三重県立看護大学)

13:45-14:20
「亡国の民」の形成
—山地民ラフの自律的政権の解体をめぐって—
片岡樹(東京経済大学非常勤講師)

14:25-15:00 
「ダイ族」としての徳宏タイ族
—水かけ祭りに見るエスニシティの形成—
長谷千代子(日本学術振興会特別研究員)

15:05-15:40 
チャム・バニの村落社会におけるターン・ムキとポー・アロワッ信仰
吉本康子(神戸大学大学院)

15:40-16:00 休   憩

座長 斎藤照子(東京外国語大学)

16:00-16:35 
再来日後のクオンデの抗仏運動と日仏秘密情報交換協定について
—アジア歴史資料センター資料を活用して—
宮沢千尋(南山大学)

16:40-17:15 
第二次世界大戦期アジアにおけるアーカイブズについて
安藤正人(国文学研究資料館)

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 第2回東南アジア史学会賞受賞記念発表
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17:25-18:10    
*K1001教室*

国民国家ベトナムにおけるエスニシティの変容

—中越国境地域のタイー族・ヌン族をめぐって—
伊藤正子(大東文化大学)

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18:30 懇親会                
高層棟1階ラウンジ

********* 6月5日(日) *********
9:00    受付開始

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       シンポジウム             
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東南アジアにおける記憶遺跡と日本認識
*K703教室*

9:30-9:40 
趣旨説明  早瀬晋三(大阪市立大学)

9:40-11:10
調査報告  早瀬晋三(大阪市立大学)

11:10-11:45 
コメント1  吉川利治(大阪外国語大学)

11:45-12:20 
コメント2  倉沢愛子(慶應義塾大学)

12:20-13:30 昼食・休憩

13:30-14:05 
コメント3  山室信一(京都大学)

14:05-15:00 
総合討論
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宗教における批判と革新はインドネシアをどう変えるのか
*K704教室*

9:30-10:00 
趣旨説明   永渕康之(名古屋工業大学)

10:00-10:45 
誰がイスラーム政治家なのか
見市 建(日本学術振興会特別研究員)

10:45-11:30 
ヒンドゥーにおける多元化される価値と政治
永渕康之(名古屋工業大学)

11:30-12:15 
アダットとキリスト教:土地・資源をめぐる先住民運動にみられる
文化シンボルの性質と役割

—東西カリマンタン州の事例から—
浦野真理子(北星学園大学)

12:15-12:30 
質疑応答

12:30-13:30 昼食・休憩

13:30-14:00 
コメント1  林 行夫(京都大学)

14:00-14:30 
コメント2  山本博之(国立民族学博物館)

14:30-15:00 
総合討論
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Images of Java:Pre-war home movies as a new resource for the study of social life in colonial Southeast Asia
*K903教室*

Presenters
Nico de Klerk Researcher, Netherlands Film museum Amsterdam
Peter Post Senior-researcher, Netherlands Institute for War Documentation, Amsterdam

9:30-10:00
Home away from home: Private films from colonial Indonesia in the archive
Nico de Klerk

10:00-10:15
Race, status and hierarchy in colonial Indonesia. Dutch, Japanese and Chinese elite-life compared
Peter Post
 
10:15-10:45
Enjoying the Javanese pleasure garden. Glimpses of peranakan Chinese life(Viewing + discussion)
Peter Post

10:45-11:15
Servants and masters. European family life in the Dutch East Indies(Viewing + discussion) 
Nico de Klerk
                           
11:15-12:00
Honourable whites. Life-styles of the Japanese in pre-war Java(Viewing + discussion)
Peter Post

12:00-13:00 LUNCH

13:00-13:30
Views of Dutch working life

13:30-13:45
Viewing + discussion     
Nico de Klerk
               
13:45-14:15
Daily life at the Chinese owned-sugar factory Djatti Piring in West-Java(Viewing + discussion)
Peter Post

14:15-14:45
The toko Jepang in Java(Viewing + discussion)
Peter Post

14:45-15:00
Home-movies as a new resource for the study of social life in colonial Southeast Asia(General discussion)
Nico de Klerk
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15:10-16:30 会 員 総 会
*K1001教室*

16:30    閉会の辞

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* 6月4日(土)懇親会
会場:高層棟1階ラウンジ
会費:一般 6,000円、大学院生・学生 3,000円

* 6月5日(日)の昼食
1,000円で注文を承ります

* 宿泊について
近郊で愛・地球博が開催されている関係上、名古屋市内では宿舎の
確保が困難な状態が続いております。大会準備委員会で、宿泊場所の
案内・紹介することも叶いません。恐らく名古屋市内の主要なビジネス
ホテル等はのきなみ満室となっているはずです。したがいまして、名古
屋市近郊の小都市にある宿舎を当たられるか、あらかじめ多くの部屋を
押さえていそうな旅行代理店を経由されることをお勧めいたします。