個人研究発表
トンブリー朝、初期ラタナコーシン朝(1768-1854)におけるシャムの支配者層と華人人口
増田 えりか
前近代シャムにおける華人人口に関する既出の論点は、対中朝貢交易における仲介者層としての役割、特にアユタヤ末期から初期ラタナコーシン朝期にかけての華人人口の増加が旧来の身分制度にもたらした変化、また、初期ラタナコーシン朝における徴税請負人、商品作物の栽培者等としての経済的な役割等である。本発表においては、1767年のアユタヤ崩壊後から19世紀半ばの対中朝貢終了までの時期をとりあげ、同時代史料に登場する華人の動向と、また史料中に見られる支配者層の華人人口に対する意識に関して考察を行いたい。
トンブリー時代(1786-1782)からラーマ3世(在1824-1851)の統治後半期に至るまでのシャムの支配者層は、シャム国王の統治の枠組みに置かれたその他の民族と特に大きく異なって華人人口を意識していたことはないように思われる。シャムの同時代史料から垣間見られるのは、支配者層から見て、何か「特筆」されるべき活動を華人が行っている姿である。本発表においては、以下の二時期に見られる史料に特に注目したい。まず第一に、アユタヤ崩壊後から、トンブリー時代にかけての時期をとりあげたい。この時代において史料から伺えるのは、ビルマに対する防衛の戦力として登用されている華人層の動向である。タークシン王の父が潮州系の華人であったことは周知の事実だが、シャム側の史料に、華人の言語グループに関する言及は殆どないという点が注目される。また、漢文史料によれば、一旦途絶した対中朝貢関係復活の交渉者、清朝との交易の仲介者としてタークシンによって登用された華人は特に潮州系に限らず、また、続く初期ラタナコーシン朝においても、潮州系華人が「ロイヤルチャイニーズ」として統治者から優遇された、という定説には疑問の余地がある。
第二に、ラーマ3世の統治後半期に注目したい。この時代に至って、シャムの支配者層は華人人口がシャム社会にもたらす諸問題を明確に意識し始めていたことが注目される。彼らは、アヘンの流通が清朝にもたらした政治、経済的危機を含む、アヘン戦争に関する情報を華人商人らから収集しており、国内の各地においてアヘン取締りを行なっていた。これらの取り締まりに関する史料から、アヘンの流通の主な担い手と統治者から目されていた華人のイメージを読み取ることができる。また、華人人口の一部は、シャムの支配領域に近接する英領を含む、シャムの統治領域の枠を超えた行動半径を持っており、後の保護領民問題につながる社会問題の発端が、既にこの時期において支配者層に意識されていたことも伺える。