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個人研究発表

インドネシアのムスリム家族法改正問題
―「イスラーム法集成(KHI)対案」を中心に―
小林寧子(南山大学)

 本報告は、ムスリムに適用される家族法(婚姻・離婚・親子関係・相続に関する法)の変容を、伝統的イスラーム法の価値観と近代的価値観との相克という観点でとらえ、イスラーム発展のダイナミズムをさぐることを目的としている。
 多くのムスリム諸国と同様、インドネシアでも商法、民法、刑法などの分野では西欧近代法が導入される一方、家族法では修正を加えられたイスラーム法が成文化された。1974年に成立した婚姻法では、異宗教間結婚、婚外子の問題などが積み残しにされたが、妥協がなったはずの複婚(多妻婚)問題もその後燻り続けた。1980年代末以降ムスリムの家族法問題を審理する宗教裁判所組織は整備されてきたが、審理の根拠となる実体法は制定されず、ガイドライン「イスラーム法集成(KHI)」が示されただけであった。しかもこれは、近代法にはなじまない規定や婚姻法の内容と矛盾する規定も含んでいた。
 宗教省のジェンダー主流化作業部会は、懸案となっていた宗教裁判の実体法の起草を行い、2004年10月に「イスラーム婚姻法案」「イスラーム相続法案」他1点からなる「KHI対案」を発表した。KHIの大半が古典的イスラーム法の複製に等しいものであったのに比べ、この「KHI対案」は、複婚禁止、異宗教間結婚許可を始めとして、ほとんどのKHI条項に大幅な修正を施しており、「革命的」という評さえ受けた。イスラーム法は常に古典的法との連続性が問われるだけに、発表後にはイスラーム急進派のみならずウラマー協議会、さらに民間のウラマーからも激しい反発を引き起こした。窮した宗教大臣は作業部会責任者を譴責処分にし、その後交代した新しい宗教大臣もこの草案を撤回することを決定した。しかし、国家女性委員会は宗教大臣に撤回の見直しを求めたほか、各地でセミナーが開かれるなど、この「KHI対案」をめぐる議論は広がりを見せている。
 このように議論を巻き起こした「KHI対案」が登場した背景には、ここ20年あまりのイスラーム法学言説の展開がある。この起草作業の主力になったのは、主にナフダトゥル・ウラマー(イスラーム伝統派)系の知識人であり、かれらは従来のイスラーム法学と異なる大胆なクルアーン解釈とコンテクスト重視の方法論を用いて、現代インドネシア社会の要請に応えるイスラーム法のあり方を模索してきた。さらに、民間の女性組織および女性問題を扱うNGOの隆盛、ジェンダー問題への関心の高まりも、婚姻法およびKHIにある男女不平等の是正を求める大きな力となっている。スハルト退陣後、イスラーム急進派の台頭、地方分権化が進む中で「シャリーア適用」が政治議題となっているが、その内容は漠然としたままである。「KHI対案」はまだ若干の修正が必要であるが、ジェンダー公正、社会の多元性に配慮した新しいイスラーム法のあり方を示したものとして評価できる。