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個人研究発表

再来日後のクオンデの抗仏運動と日仏秘密情報交換協定について
-アジア歴史資料センター資料を活用して-
宮沢 千尋(南山大学)

 本報告では、アジア歴史資料センターでウエブ上に公開されている戦前・戦中の資料を用いることにより、研究・教育面で一種の「資料革命」が起こっており、そのことを、報告者が関心を持っている、東遊運動瓦解後のクオンデら在日ベトナム人の動向を同資料で明らかにする。時間の関係で、本報告はクオンデの再来日から1926年長崎で開催の「全亜細亜民族会議」のクオンデの演説までとする。
 1909年10月31日、日本から退去したクオンデは、1915年秋に再来日する。日本退去直後から仏側は、クオンデの居所を日本外務省に問い合わせるが、日本側はこの事実も把握していなかった。1919年3月、朝鮮三・一独立運動が起こり、大韓民国上海臨時政府が仏租界に樹立されると、仏側は日本に対して「国事犯鮮人」引渡しを提案するが、日本側は臨時政府閣僚22人全員とクオンデ一人の交換案を提案、その人数的不均衡に仏側は同意せず、交換は失敗に終わるが、以後日本側はクオンデの動静を把握しようと努める。
 クオンデは、ベルサイユ会議に向けて、植民地の民族自決権を認めよとの声明を、『天津益世報』に投稿するが、日本の圧力で掲載できず、記事は『北京益世報』1919年3月29日に「世界救亡国民連盟(一字不明)委員会安南光復会代表」の肩書きで掲載される。4月4日には同紙に「上法国政府書」と題して、仏政府にもベトナム独立を訴える。このようにクオンデはベルサイユ会議に大きな期待をかけ、言論活動を積極的に行なっていた。
 次にクオンデの動向に関する日仏間の交渉が問題になるのは、1925年「山県有朋ミッション」のインドシナ訪問時である。経由地の上海で、佐分利条約局長、在上海日仏領事、駐日フランス大使クローデルの間で、①仏側は、在上海や広東の反日「不逞鮮人」の動向を日本側に提供し、②日本側は、在日の反仏ベトナム人の行動をフランスに提供する、との合意がなされた。これにより1938年まで断続的にクオンデの動向を、日本内務省が調べ、外務省に報告し、在日仏大使館員への伝達が行なわれた。
 当時クオンデは、中国人林順徳、日本名・高松と名乗り、早稲田大学や東京大学の講義を聴講したり、残留ベトナム人陳福安とともに過ごしている。生活費は犬飼毅などからの援助であった。また、シャムなどから差出人の名が無い手紙を受け取っている。外務省記録にはこの時期の発言として「散発的なテロでは効果が無く、ベトナムの窮状を世界に訴えるという合理的な方法で目的を達成する」「近来、ベトナム人の政治意識も向上している。権力または武力を持って鎮圧することは不可能であることは、ロシア革命を見れば明らかである」とベトナム人の政治意識高揚に対応できる活動を目指していることがわかる。1926年8月、全亜細亜民族大会が長崎で開かれ、クオンデはべトナム代表として、「ベトナムの窮状への各民族への援助要請、全世界民族の融和、儒教・仏教思想を基礎とするベトナム人の人類愛の理想」を訴えている。1919-1926年という短い時期に、クオンデは積極的な言論活動でベトナム独立の気運を高めようとしたことがわかる。