個人研究発表
フィリピン・ミンダナオ島における国家入植政策とその展開
―1913年に始まる農業コロニー計画を中心に―
鈴木 伸隆 (筑波大学)
本発表では、米国によるフィリピン植民地統治とミンダナオ島支配の歴史的変遷を解明するため、1913年より開始された国家主導の入植政策とその具体的な展開を検討する。1903年の国勢調査によれば、ミンダナオ島におけるイスラーム教徒の割合は76%であったのに対し、1939年には34%へと激減している。この急激な変動は、主にビサヤ内海域からのキリスト教徒の入植や移住によるものと考えられる。本発表では、1913年に米国植民地政府によって、コタバト州で実施された組織的かつ集団的な入植計画農業コロニー(agricultural colony)に注目したい。
農業コロニーの目的は、米の増産、人口過密地域の状況是正、公有地の開発と自作農への機会提供の三つであった。当時、フィリピンは旱魃等による米の不作が続き、ベトナムやラングーンからの米輸入に頼っていた。食料不足という緊急課題を大規模なプランテーション農場開発ではなく、余剰労働力の移動によって公有地の開墾を奨励し、小規模な自作農を創出することで、食料増産を図ろうした。そうした目的で設置されたのが農業コロニーであり、実験地であるがゆえに、政府は場所の確保から輸送機関の手配、農耕具、食料、生活物資や資金まで全てを提供した。開設翌年の1914年には3,750人が、1916年には5,252人までが入植するに至った。
この計画で興味深い点は、コロニー計画の中にイスラーム教徒の入植が組み込まれていたという事実である。キリスト教徒入植者には16ヘクタールの土地配分がなされたのに対し、イスラーム教徒にはその半分の8ヘクタールであったものの、1916年には2,867人、1917年には2,892人と、入植者のほぼ半分をイスラーム教徒が占めていた。これはコロニー計画がイスラーム教徒のための文明化、すなわち農業技術の習得、土地への定住化、首長ダトゥおよび奴隷制からの解放という壮大な実験目標達成のために、導入されたものであることを示唆している。
表向きには経済状況向上を装いながらも、その裏で社会・政治的な思惑が隠された農業コロニー計画は、結局1917年に資金繰りに困り中断を余儀なくされた。計画そのものは経済的失敗に終わったものの、その一方で民族間対立の不在によるキリスト教徒とイスラーム教徒との民族融合達成が、コロニー最大の成果だとする記述が行政報告書等で逆に増えていく。表面的な観察からのみ確認された余りにも楽観的な評価が、その後入植政策の展開とミンダナオ島支配の方向付けに与えた影響は無視できないものがある。