« プログラム | | 海域アジア史研究会5月例会のお知らせ »

東南アジア史学会賞記念発表

国民国家ベトナムにおけるエスニシティの変容-中越国境地域のタイー族・ヌン族をめぐって-
伊藤正子(大東文化大学国際関係学部)

 国家により「少数」民族と位置づけられた人々が、国家の国民統合政策の下で生き、かつ国境を跨いで拡がる民族の世界にも住みながら、自分たちのエスニシティを変容させていく過程を論じる。対象としたベトナム東北山間部に住むタイー族・ヌン族と国家の関係は、民族意識が消え去り多数民族への同化が一方的に進むのではなく、エスニシティの活性化が起こりながら、同時に国民意識も強化される過程であった。前近代には、早期に移住してベトナムの影響を強く受け土地や官職を独占したトーと、遅れて移住してきたため小作人が多く中国の文化の影響を強く受けたヌンがいたが、フランスが民族概念を持ち込むと、それぞれトー(タイー)、ヌンという二つの「民族」と断定された。1940年代には多数民族キン族の革命家達もこの範疇を受け継ぎ、革命に協力的なトー族と、ベトナムに疎遠でフランスに操られやすいヌン族という枠組みを用いた。この時期両者の境界は明瞭で、逆にヌン族と華人の境界は不分明だった。しかしこの境界は八月革命後徐々に変わり始める。戦争の過程でかれらはベトナム国家の枠組を身をもって体験し、自治区設立や民族語政策など少数民族に配慮した政策、土地分配・合作社での共同作業など社会主義的政策、ベトナム語による公教育などの政策の影響を受け、国民としての統合が進展した。この過程で両者は平等な存在となり接近する。70年代後半中越関係が悪化すると華人は追放されるが、ヌン族は国家からタイー族と全く同様に扱われ、既に国民の範疇に入れられていたと言える。一方中越戦争後かれらは合作社を解体して供出していた土地を取り戻し、90年代には20万人近くが中部高原に勝手に移住したため、国家からみた理想的な「タイー・ヌン族像」は変化した。この移住は南北分断時に中部高原へ移住した同郷者ネットワークを活用し新生活を切り開こうとしたものだった。同時に中国側の壮族との民族ネットワークも利用し国境貿易の端緒も開いた。国境貿易の隆盛と共に、以前のように教育を受けベトナム社会内で浮上する道ではなく、民族の世界を足場に豊かさを求める動きが一部に出ているが、民族の世界もまた以前とは異なり国家関係に規定されたものとなっている。エスノナショナリズムが国際的に噴出している現在、エスニシティの活性化が分離・独立と直結しない例を提示するタイー族とヌン族のあり方は、着目するに価する。
 タイー族・ヌン族は、以上のように法制度や教育、優遇政策など未来志向の少数民族政策を通じてベトナム国家に国民として取り込まれてきた。しかし、国家は歴史的な「民族の英雄」をベトナム史の中に位置づけて、通時的にも国民として統合されてきたとかれらに意識させることには成功していない。この「英雄」は、いまだ中越両王朝の境界が明確でなかった10世紀に国境地帯に独自王朝をたてた儂智高で、ベトナム李朝と厳しく対立し、宋朝に何度も服属を願ったが許されなかったため宋とも戦い、結局雲南に敗走した。この事跡がベトナムの歴史上の「英雄」の条件を満たさないため、地元の要望もむなしく、彼は中央から無視され国家の通史から排除されたままである。通時的な国民統合は、民族という尺度からは自由だった世界を、現代のナショナリズムによって判断することになるため最も困難であり、国民統合のイデオロギーのありさまをあぶり出しているとも言える。