革命聖地へのいざない

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 カラフル・ツーリズムの筆頭に2004年以降の国策レッド・ツーリズム(紅色旅遊)を紹介したが、この「赤」に象徴された観光は中国革命の聖地を巡る旅である。その最大の目的地の一つに陝西省北部の延安がある。この黄土高原に位置する地方都市は「長征」のゴールとして知られている。長征とは1934年から1936年にかけ、江西から華北まで1万2500キロメートルに及ぶ中国工農紅軍第一方面軍の行軍を指し、そのルートをたどることが紅色旅遊の原型であり神話ともなった。
 中華ソビエト共和国の首都瑞金は1934年10月、国民党軍によって陥落し、紅軍8万6000人は江西から西へ退却した。1年後の1936年10月、11の省を通り陝西省へ達したときは生存者1万人足らずだったという。この間、途上の遵義会議(1935年1月)で毛沢東は指導権を確立し、延安に根拠地を建設する。長征は大逃避行から新中国の建国神話となり、想像の共同体の出発点となった。
 1950、60年代には、1949年の新中国建国前後生まれの「間に合わなかった」若者たちが革命伝統の継承を体感するため、主に徒歩で肉体的試練を伴う旅として長征ツアーを行った。中国国務院は1961年に中国文化部作成の「全国重点文物保護単位リスト」の公開を、文化財保護の嚆矢として行うが、その筆頭は革命史跡と革命記念館(33/180カ 所)だった。1966年以後の文化大革命では紅衛兵の目的地として、延安への個人旅行、団体旅行がしばしば行われ、後者は大串連運動と呼ばれた。
 文革後の1976年以降、1980年代には紅衛兵張りの移動こそなくなったが、同種の「愛国主義教育」として、小中学生向けに烈士陵園や革命根拠地の集団見学が行われていた。1990年代に入って経済発展に伴う社会変化が本格化しても、新中国の源泉へさかのぼり、革命の記憶に思いをはせ、紅軍と共産党の 指導の導きの光を再現することの意味は相変わらずで、延安行は「観光」の起源の一形態である「聖地巡礼」にも準えられる。
 すでに文革直後から巴金ら革命第一世代による10年動乱の牛小屋経験が公けにされていたが、90年代半ばから紅衛兵世代とインテリの下放(上山下郷運動)回顧が出始め、第五世代監督による下放映画も見られるようになる。
 今ではすっかり定着した感のある現代中国ノスタルジーの一形態「老照片」(古い写真)が、隔月誌として出版され始めたのは1997年だが(山東画報出版社)、90年代半ばの紅色ノスタルジー熱は、後のレッド・ツーリズムにつながる民衆の趣味嗜好を明示していた。元々韶山や延安など毛沢東縁の地のみやげ物だった毛沢東バッチや文革期のポスターなどのツーリストアートは、時間の経過によって案の定、文化的な価値が上昇し、香港を含む国内外の都市で高騰していった。北京では湖南田舎料理を売り物にした店が「毛家菜館」と称して軒を連ね、首都のタクシーは交通安全のお守りとして毛沢東の写真をバックミラーにぶら下げた。社会主義リアリズムの伝統を拒否した第五世代映画監督のニュー・ウェーブに対し、「紅色古典」として革命京劇などのVCDが、テクノロジーの革新と相まって手軽に視聴できるようになっていた。
 その後中国共産党中央宣伝部は計36カ所の愛国教育基地を指定(1997年・2001年)し、2004年には全国旅遊工作会議で紅色旅遊についての「鄭州宣言」が採択され、革命老区の観光開発による経済発展が始まる。
(初出:アジアへの旅3、サーチナ

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このページは、舛谷鋭が2009年6月12日 20:41に書いたブログ記事です。

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