日時:2008年5月10日(土)13時半 入場無料
場所:立教大学新座キャンパスN636 ロフト2教室(映画館仕様)
13:30-14:00 講演1
14:00-17:30 上映「KOJO ある考古学者の死と生」(2006)
17:30-18:00 講演2
講演者プロフィール:
岡村 淳(おかむら じゅん)
1958年東京生まれ。日本映像記録センターを経て、1987年フリーランスとなり、ブラジル移住。1997年より自主制作ドキュメンタリーを制作。ブラジルの日本人移民、社会・環境問題をテーマとする。主な作品に「郷愁は夢のなかで」(1998)「ブラジルの土に生きて」(2000)「赤い大地の仲間たち フマニタス25年の歩み」(2002)「アマゾンの読経」(2006)。
会場へのアクセス:
◎東武東上線志木駅下車 スクールバス5分、徒歩約15分
◎JR武蔵野線新座駅下車 スクールバス5分または西武バス(志木駅南口行き・北野入り口経由「立教前」下車)8分
問い合わせ:
〒352-8558 埼玉県新座市北野1-2-26
立教大学 観光学部 舛谷研究室
岡村さんに「圧巻」と書かれたので、当日ちらしに書いた文章を転載しておく。
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Kさんのこと
Kさんに初めてあったのは馬場の喫茶室だった。理工学部から降りてきた道沿いの店で、最後に会ったうな鐵がつぶれてしまった今となっては思い出の場所だ。窓際の席でNM先生とアンコール調査の相談をした。Kさんの恩師でもあるNM先生の父君の葬儀の頃だった。喪服がないから買わなきゃと言っていた。喪服どころか背広もなかったのではないか。
シェムリアップに着いて最初の仕事はバイヨン修復の開所式の講演原稿作りだった。流れ作業で団長のNG先生が日本語原稿、Kさんが英訳、私がワープロ入力とスペルチェックをして結局徹夜した。終わって事務所の床に無防備に寝ころんだKさんの姿が可笑しかった。団長が先に帰国すると、年長のKさんが団長代理に指名された。その夜食事に行ったバイヨンレストランで、Kさんが突然「団長就任祝い、ついにここまで上り詰めたか」と冗談めかして言った。「支払いはこっちが」と、私に振るのも忘れなかった。少しも気を遣わなくて済む、一緒に居て本当に気楽な人だった。誰とでもそうだったわけではないかもしれない。外務省のK嬢はなぜか鼻持ちならなかったようで、すれ違いざまにふんと顔を背けたりしていた。何とも大人げないが、K嬢に愚痴られすみませんと代わりに謝っていた。
Kさんはプロフェッサードクターを自称していて、私にくれる手紙の差出人にもそう書いてきた。本当にフルブライトで博士号を取得していて、年齢も実力も教授クラスだったし、私が尊敬しているのをわかっていたから安心して洒落のめしていたのだろう。こちらもずいぶん甘えた。英語の口頭発表をはじめた頃で、原稿はほとんどKさんが訳してくれた。日本語が間に合わずマレーシアに着いてしまい、メールが届くまで仕事を休んで一日待機してくれたこともあった。本当に困ったときに黙って助けてくれるのが友人だとしたら、Kさんはかけがいのない友人だった。
年少で実力のない私が語学教師として先に教壇に立った後も、主にKさんのPCのお守り役として、しょっちゅう行き来していた。パスワードまであずかってたっけ。最後に会ったのはW大の非常勤の帰りをおそった四月末。食事に行ったがいつになく元気がなく、授業の準備がたいへんだと苦しそうにこぼした。もうすぐ連休だしその後は夏休みだよ、何とかしのいで行くしかないよ。いつも冗談めかしてしゃべっていたのに、とうとう真面目にそんなことを言った。その後気になって電話を掛けたが、もう出られる状態でなかったかもしれない。「君を見ててもいそがしそうだし」とも言われた。教鞭を執ることに興味を持てなくなった様子だった。あるいは忙しげに振る舞う私が失望させてしまったのか。六月になって、共通の知人のHY先生からのメールで知った。「なぜというのがわかりません」..私はKさんは絶望したのだと思う。都市生活者にとって、四十の坂を乗り越えられるのは、実は幸せなことなのかもしれない。私はともかく、周りを見回していると、そう思うことがある。
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