竹内好と黎明之碑

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 正月二日、大宮氷川神社へ初詣の帰り、遠回りして新大宮バイパスから白鍬通りをとおって島根氷川神社へ行った。竹内好の日記(1963.1.24,2.3,3.11)で「黎明之碑」という“大東亜戦争記念碑”を起草していることを知り、近所なので見に行こうと思ったのだ。バスなら大宮駅西口から加茂川団地行きで団地入口だろう。田んぼの向こうに新年の幟の立った神社があった。
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 鳥居から本殿まで数十メートル、普段は子供の遊び場にもなる近所の神社といった風情。参道脇ではたき火で近所のおじさんたちが手をあぶっている。元日には甘酒のふるまいくらいあったかもしれない。久喜の太田神社を思い出させる、うらやましい正月の光景だ。ぐるりまわっても碑は見つからない。大宮市島根には鴨川沿いにもう一つ神社があるからそっちだったかも。たき火にたむろしているおじさんに聞くと鳥居の横にあるという。写真で言うと白い車のトランクの上のあたりだ。
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 台座をあわせると高さ2メートルほど、碑の大きさだけでも1メーター四方以上ある予想よりずっと立派なものだった。
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上の大石板に右書きで「黎明之碑」とあり、ここ島根から第二次大戦に従軍して戦没、生還した人々の名前、下のプレート状の小石板が竹内好の文章である。
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そこには縦書きでこう刻まれている。

 かつての軍国日本の時
代に 大東亜戦争に召さ
れて兵士となり** 何年間
も家族と別れて *大陸や
南方の島々*に苦労を共に
した戦友われら そのあ
るものは不幸にして中道
に倒れたが 幸*に生き残
ったものがその志をつぎ
 相たずさえて祖国再建
にいそしみ ここに平和
と繁栄の道を確定し得て
 今日改めて過ぎし日を
追憶し 亡き友の冥福を
祈り われらが志の徒労
でなかった喜びを後代に
傳えん*がために 世界人
類の永世平和を祈念して
 うぶすな**の社の地にこ
の碑を建てる
 昭和三十八年*三月三日

 空白は原文(日記1963.2.3)に忠実で、行頭にあっても段下げではない。*は原文と違う箇所で、4行目「読点〜空白」5行目「島に〜島々に」、8 行目「幸運に〜幸いに」、17行目「伝えん〜傳えん」、21行目「一九六三年〜昭和三十八年」。**は好の原案とは違うが代案の方を採用した箇所で、2行目「強制されて兵士となり〜大東亜戦争に召されて兵士となり」、19行目「産土〜うぶすな」。日記(1963.1.24)には「石に刻まれる文が書ければ文筆業者として冥加につきる」とあるが、石碑裏に献金した人たちの名があるばかりで、好の名は特に記されていない。

 昨今の歴史修正主義の流れの中で、「大東亜戦争と吾等の決意」(1942)から「大東亜戦争記念の碑」(1963)までの竹内好の道程は、避けて通っていたナショナリズム考察の手がかりとなるのだろう。

参考文献
『竹内好全集』筑摩書房
鶴見俊輔『竹内好−ある方法の伝記』リブロポート、1995(16.大東亜戦争記念の碑)

初出:ウェブページ、2001.1/2003.1修正

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このページは、舛谷鋭が2001年1月 7日 21:09に書いたブログ記事です。

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