私の朝鮮語小辞典

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なぜ母語以外のある言葉を学ぶのかと問うとき、私にとって忘れられない一冊の本がある。長璋吉『私の朝鮮語小辞典』(北洋社、1973)がそれだが、学部時代に文学部図書館で見つけて手に取ったのがきっかけだった。その中に見開き二頁の短文「朝鮮語の冷やかさ」がある。


 日本語はあまりに近すぎる。反対に、中国語のfeng、フランス語のvent、英語のwindなどの音の群が、あの空気の移動を名づけているということを了解することはほとんど不可能だ。ただ力技によってかろうじて接触を保たせているにすぎない。ところで、朝鮮語のパラムはこの両者の間にあって、その音の群を、それが担う質量と艶とともに、擬似的にではあろうが了解しうると感じる。パラムには例の空気の移動を「とらえている」という感覚がともなっている。
 この感覚がなければ、私は朝鮮語を読もうとは思わないだろう。朝鮮語を習いはじめてしばらくしたころから、このことに薄薄気づいたように思う。

その後文庫版(河出文庫、1985)が出たが、さがしてもさがしても大事な一節が見つからない。I.ソウル遊学記 私の朝鮮語小辞典だけで、II.朝鮮語勉学記 私の雑記帳がすっぽり抜け落ちている。しかし「例の空気の移動」について具体的に記した「パラム」の項目は「街頭編」に残っていた。
私の頭のなかではこの風はいつも小路から吹いてくる。広い道路をゼリー状の風が移動するのがみえる。書きながら胸がふるえる。

私が学部在籍中に四十代で急逝した著者の遺稿集(『朝鮮・言葉・人間』河出書房新社、1989)の帯には「キーワードはパラム=風」と書かれている。巻末に大村益夫、尹学準という早大語研の老師方も追悼文を寄せている。文学を外国語から母語に移すという作業への憧憬は、こうした様々な出会いから形づくられている。

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このページは、舛谷鋭が2008年4月11日 14:16に書いたブログ記事です。

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