帰国華僑研究者総動員の精華: 周南京主編『華僑華人百科全書』全12巻、中国華僑出版社、1999-2002年

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 この十年、アジア各地で華僑華人研究の工具書出版が相次いだ。一九九三年に中国で『世界華僑華人詞典』(周南京主編、北京大学出版社。以下『詞典』)が、一九八七年から七年がかりで出版にこぎつけた。一九九八年にはシンガポール華裔館から二百万ドルを投じた国家事業『The Encyclopedia of the Chinese Overseas』(潘[令羽]主編)が中国語版(『海外華人百科全書』崔貴強編訳、香港三聯出版社、全一巻)とともに出版された。その後も台湾の華僑協会総会による『華僑大辞典』(張希哲主任委員、正中書局、二〇〇〇)、日本でも『華僑・華人事典』(可児弘明、斯波義信、游仲勲編、弘文堂、二〇〇二)が出版され、ネット上のリソースだが、曁南大学図書館の華僑華人文献信息中心データベースも二〇〇二年頃から中国国内に限って公開されている。
  こうした一連の研究、出版活動のうち、最も大規模なのが『華僑華人百科全書』十二巻である。(周南京主編、中国華僑出版社、一九九九〜二〇〇二。以下『全書』)『全書』は『詞典』発刊後の一九九三年末に、汕頭大学で行われた世界華僑華人経済国際学術シンポジウムで編集委員会が発足し、『詞典』メンバーを中心に足掛け九年で出版された。 戦前は郁達夫らとともに中国南洋学会(現シンガポール南洋学会)、戦後は北京大学東方語言学系(現東方学系)の創設メンバーであった姚楠主編の『東南亜歴史辞典』(上海辞書出版社)も一九九五年に出版されているが、『詞典』『全書』の編集、執筆者と重複が多く、序文の執筆者(季羨林)まで同じである。これは中国において華僑華人研究者と東南アジア研究者が重なることを示している。
 『全書』の構成は以下の通りである。

一、総論巻(周南京主編、二〇〇二)
二、人物巻(楊保[竹かんむり+均]主編、二〇〇一)
三、社団政党巻(謝成佳主編、一九九九)
四、経済巻(梁英明主編、二〇〇〇)
五、教育科技巻(黄昆章主編、一九九九)
六、新聞出版巻(王士谷主編、一九九九)
七、法律条例政策巻(毛起雄主編、二〇〇〇)
八、歴史巻(周南京主編、二〇〇二)
九、著作学術巻(周南京主編、二〇〇一)
十、社区民俗巻(沈立新主編、二〇〇〇)
十一、文学芸術巻(潘亜暾主編、二〇〇〇)
十二、僑郷巻(方雄普、馮子平主編、二〇〇一)

 各巻はテーマごとの編集だが、総論巻は『全書』全体の主編、周南京の巻頭論文「華僑華人問題概論」や台湾の研究者、陳三井の「五十年来台湾的華僑華人研究」をはじめ、華僑華人研究の基本文献四十八編で構成された論文集である。
 人物巻は梁啓超『中国殖民八大偉人伝』(一九〇四)以来の華僑伝記を渉猟し、三千五百人の小伝が収録されている。なお、文芸、学術関係者についてはそれぞれの巻に収録され、人物巻に含まれるのは少数である。
 華僑三宝と言われる華僑華人社団、華字紙、華語学校のうち、社団政党巻は同郷会館などの社団をテーマにしている。世界客属総会のような世界規模の同郷会館から、世界各地の華語学校校友会に至るまで、大小の華僑華人社団が四千四百項目に渡って収録されている。
 華人企業の多くは大企業でも基本統計を未公開のケースが多く、またラテンアメリカとアフリカについては情報に欠ける部分も多いが、経済巻の千四百六十項目はそのほとんどが企業名で、結果として世界の華人企業名鑑となっている。
 陳嘉庚の集美学村の例を見るまでもなく、成功した華僑華人にとって寄付行為の主な対象は学校である。この傾向は今も変わらず、中国の多くの大学は大富豪・邵逸夫の寄付による「邵ビルディング」を持つ。教育科技巻では十七世紀に開始された華僑教育から、清朝の華僑教育最高学府であり、今も広州と台湾南投に同名の大学を残す曁南学堂まで、千三百項目を収録する。副主編の鄭良樹は、複数の伝記が出版される著名な潮州人学者で、二〇〇三年からマレーシア南方学院の華人族群与文化研究所所長を務めている。
 新聞出版巻では、一八一五年にマレー半島西岸、マラッカで創刊された華字紙『察世俗毎月統記伝』から一九九六年までの百八十年間に出版された、四千種類の逐次刊行物が二千八百項目に渡って紹介されている。この中には華字紙誌の他、非売品で入手しにくいが資料的価値が非常に高い社団の記念特刊も含まれている。なお、華僑華人にとって、重要な出版基地である香港出版物も収録されている。
 法律条例政策巻では各国の華僑華人に関係する機関、法律、政策が四千項目に渡って収録されている。居住国の対華僑華人政策と中国の僑務政策の両方を含み、法規については主要条文の要点が記述されている。
 華僑華人について漢籍の中では、唐人、華人、漢人、中華人、中国人、北人、北客、華民、華工、華商など、様々な呼称が用いられてきた。「華僑」という名称はむしろ新しく十九世紀末から使われ始める。歴史巻の主編は『全書』全体の主編でもある周南京だが、その華僑観は「華僑は中華文化を海外に伝播する媒介」であり、中国は祖国でなくとも先祖の墓のある「祖(籍)国」であるというものだ。この巻には華僑史に関する事件、戦争、会議、宣言、文献など千百項目が収録されている。
 著作学術巻では二十世紀以来の華僑研究文献が二千五百項目に渡って紹介されている。主な研究者については別項目で、日本人を含む非華裔研究者についての記述もある。こうした文献のうち、特に華僑華人による出版物は、執筆者の専門とする華人文学書籍を含め、流通に乗らない自費や非売品出版が非常に多く、そのときその場にいなければ収集が困難で、書名が確認できるだけでも貴重な情報である。
 華僑華人は居住地で世代を重ね、マラッカのように五百年におよぶ古都もある。こうした「ババチャイニーズ」はクレオール華人として、それぞれの社会で独自の風俗習慣を築き上げている。社区民俗巻ではこれらに加え、現代のチャイナタウンとその構成要素でもある中国寺院や民間信仰、さらには善堂組織などの慈善団体や各地の義山(華人墓地)について二千五百項目に渡って収録されている。
 現在中国国内で新しい学問分野として整備が進められている「世界華文文学」の中国人研究者をはじめ、文学芸術巻ではアメリカ、オーストラリア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、タイ、インドネシアの華人作家が海外特約編集委員として編集に加わっている。その内容は一九九〇年の『台港澳与海外華文文学辞典』(陳遼主編、山西教育出版社)から二〇〇三年の『台港澳曁海外華文作家辞典』(王景山編、人民文学出版社)まで、中国国内で複数出版されている工具書の集成で、華人作家の小伝を中心に、雑誌、文芸副刊、書籍や文芸団体、文芸論争など、二千八百項目が収録されている。
 世界の華僑華人は三千万人と言われるが、中国国内にも同規模の帰国華僑(帰僑)と親類縁者である僑眷が暮らしている。そして、華僑華人が先祖の墓のある祖籍地(僑郷)に血縁、地縁、言語の便もあって投資、寄付することはよく知られている。(林金枝『近代華僑投資国内企業概論』(厦門大学出版社、一九八八)など)最近は地方史誌の中でも華僑誌や僑務誌が出版されているが、僑郷巻では後述する僑聯のネットワークを生かし、僑郷の実情について各地の実務者によって執筆され、台湾、香港、マカオを含む三千五百項目が収録されている。
 総論巻を除く各巻は項目をピンイン順に並べ、冒頭に地域別索引を掲げる。巻末には年表、参考文献表などが付されている。各巻の項目を年代順に配置した年表は有用なものが多く、歴史巻の華僑史年表は『詞典』巻末年表を補遺修正した労作で四十頁に及ぶ。付録としてローマ字漢字項目対照表がつく巻もあるが、特に人物、経済、新聞出版、歴史、著作学術各巻ではアルファベット順になっている。華僑華人のローマ字固有名詞は、各方言音によって綴られたり現地風に命名されたりと、漢字との同定が非常に困難である。アルファベット順の対照表はそれだけでも有用な工具書と言えよう。なお、歴史巻の対照表には現在の通名の他、史資料中の古名も併記されている。統計資料を付録にした巻もあり、教育科技巻には二十世紀の地域別教育統計資料が、歴史巻には現代華僑華人の人口統計が掲載されている。華僑華人人口については、様々な数値が流布しているが、歴史巻の人口統計は近年の報道や『華僑経済年鑑』(台北:僑務委員会)などを参照し、できる限り最新の数値を集めたものとして、一つの目安となるだろう。
 このように『全書』は各巻六百から千頁、全十二巻で千八百万字というから、この分野の出版物として空前絶後の規模であることは間違いあるまい。シンガポールの『海外華人百科全書』と比べても、シンガポール版がブリタニカ張りの大項目主義で『全書』は総論巻を除いて小項目主義という違いもあり、そもそもシンガポール版は全一巻であるから比較にならない。しかもこれほど大規模な出版企画が、民間事業として完成したことに驚かされる。他の大型企画と違って中国政府からの援助はなく、フィリピン[龍+共]詩貯基金からの三十二万ドルの助成が唯一の出版資金だったという。
 この難事業を担ったのは、各巻の主編に名を連ねる帰国華僑と中華全国帰国華僑聯合会(僑聯)のメンバーである。中国の地域研究者は世代による研究方法、動向の差が顕著であるが、特に五、六十年代に東南アジアから帰国した三十年代生まれの帰僑研究者は、現地語資料を活用し、現地事情にも通じ、アジアを中心とする地域研究で主導的な役割を果たしてきた。たとえば全体の主編の周南京は一九三三年ジャワ生れで、蘭領下で華語教育を受け、五十年代に北京大学に入学し、そのまま大学に残り現在に至る。
 一九五六年に北京で創設された僑聯は、僑郷を中心に各地に支部を持ち、華僑華人歴史学会を主催したり、『福建僑報』などの帰僑向け新聞を発行する一種の情報センターである。たとえば華僑飯店並びの路地に建つ北京僑聯は帰僑のサロンであり、政協委員で廈門市副市長も務めた故張楚[王昆]ら大物帰僑が集う場で、『華僑華人歴史研究』(季刊)や「内部資料」だが海外発送可となった『華僑華人資料』(隔月刊)の編集発行も行っている。
 『全書』の編集は、すでに『詞典』出版で結集した当時六十代の帰僑研究者が中心で、当初は同じく北京大学出版社から出版予定だった。結局中国華僑出版社となったのは北京大学出版社内の異動のせいもあるが、『詞典』七千九十三項目の内、いくつかの内容に異議が唱えられ、一時絶版となったことも関係するだろう。たとえば九三〇事件についての記述が外交関係を損ねるというインドネシア華人の異議申し立てや、マラヤ共産党など華僑を中心とした海外の共産党と中国共産党の関係、中共中央海外工作委員会の存在についての言及が、国家機密の漏洩に当たるとの意見も出されたという。
 こうした逆風の中、シンガポール版のわずか八分の一、民間のみの予算で出版された『全書』十二巻は、当時還暦世代を中心とした、帰僑ネットワークの強固さと力を逆に示している。しかし、実際の作業人員が研究者自身と家族だったことから、執筆済みながら掲載に漏れた原稿も少なからずあるという。また、文学芸術巻では、1982年に台湾香港文学学術討論会として広州で始まり、1993年の第6回からは世界華文文学国際学術研討会として開催され、 2004年まで13回に及ぶという全国規模の研究集会が項目から外れている。これは広東、福建を中心とした地域的な「海外華文文学」研究世代から、必ずしも帰僑と限らない「世界華文文学」研究世代への過渡期を示しているのだろう。
 中国の地域研究者は、国際学会での活躍から見ると、国外での研究者養成が可能となった近二十年で国際的水準に到達しつつある。たとえば著作学術巻の副主編で中国出身の現シンガポール国立大学、劉宏らがその世代だが、彼らが古稀を迎える帰僑世代から何を学び、何を受け継いでいくのか。『全書』は今まさに進んでいる世代交代の里程標とも言えるだろう。

初出: 『東方』289、2005.3

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このページは、舛谷鋭が2005年3月 7日 18:47に書いたブログ記事です。

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