1998年10月アーカイブ

 馬華文学(マラヤ/マレーシア華語系華人文学)は中国五四運動の影響で生まれた口語文学運動である。その後も社会主義的な“現実主義”を「モダン」として1980年代以降“現代派”と呼ばれる台湾経由の「ポストモダン」さえ生み出す現在進行形の文学世界である。
 本報告では馬華文学の形成から戦後の文学史の創出、1990年代の文学論争まで触れたが、前半の内容については東南アジア史学会59回大会要旨を御参照いただきたい。
 戦前1920年代末の中国革命文学に呼応した南洋新興文学と現地題材にこだわる南洋色彩文学のせめぎあいから、日中戦争期の中国ナショナリズム一色の抗日救(中)国文学、戦直後の僑民(仮住まい)派と馬華(現地)派の僑民文学論争まで、馬華文学において文学論争は度々行われてきたが、1990年代には六字輩(1960年代生れ)作家を中心に「経典論争」が行われた。
 日本留学中のSilvia Sianが文壇の中心的な文芸副刊「文芸春秋」を持つ全国華字紙『星洲日報』に投稿した「開庭審訊」(1992.5.1)は、前年末東南アジア史学会関東例会における筆者の発表と当日の日本人研究者の反応を題材にしたフィクションだが、馬華文学がマレーシアにおける中国文学と評価され、「朝日歌壇」と同等スケールに扱われた内容は、挿絵の馬華文学が絞首刑になる戯画とともに大きな衝撃を与えた。その後4ケ月に渡って主に「文芸春秋」への投稿という形で議論が続いたが、当初の「日本史学権威的偏見」(岳衡、1992.5.16)、「馬華文学与日本学者」(王炎、1992.5.16)など単に外国人への反論に留まるものから「馬華文学“経典欠席”」(曾慶方、1992.5.28)、「馬華文学正名争論」(陳応徳、1992.5.30)など馬華文学のあり方自身に目を向けたものが主となっていった。後に「経典論争」と呼ばれるようになるこれら議論の焦点は、馬華文学の経典(古典)の創出に収斂され、具体的には現代馬華文学における古典の有無、ノーベル賞を頂点とした内外文学賞による評価、また言語状況や地域の独自性の反映などが取り上げられた。すなわちマレー人を含む対外的評価の誤謬をいかに解消するかという問題だが、少なくとも馬華文学の古典は1960年代からの方修、苗秀らの文学史整理によって確定していたのではないか。しかし「期待経典的出席」(劉国寄、1992.6.8)など論争の経緯に見られるように、文学史創出期の成果は「マレーシア文学」への参加を指向する現代馬華作家にとって納得できるものでなくなったようだ。もはや華人自身の現地帰属意識は問題でなく、Chinese Malaysianとして内外に認められることが大きな欲求となって渦巻いていることはこの論争を見ても明らかだろう。

原不二夫編訳『マレーシア抗日文学選』(勁草書房、1994)
 マレーシア文学の翻訳には、本国で映画化もされたアハマッドの『いばらの道』(勁草書房)や、香港で映画化されて主題歌がスタンダードになった方北方の『ニョニャとババ』(勁草書房)などがあるが、本書のようにマレー文学と華語文学を併せて収録したものは本国にもないだろう。マレーシアに限らず東南アジアの華人にとって、世代を問わず生きた歴史である「抗日期」(1937-1942)と「陥落期」(1942-1945)のうち前者に材を採った1938年から1986年までの作品が収められている。

野村亨監修『北ボルネオの歴史』(慶応義塾大学SFCジャーナルモノグラフ、1997)
 現マレーシアは1957年にイギリスから独立したマレー半島部の西マレーシアと、1963年に連邦に加わったボルネオ島の東マレーシアの二つの地域から成り立っている。東マレーシアについては本国で国民史として記述された『マレーシアの歴史』(山川出版社)が日本語文献としては最も紙幅を割いていたが、本書は現フィリピン領スールーを含むボルネオ島の北半分の歴史を記した日本で最初の書物である。1942年から足かけ4年に渡る日本の占領によって歴史的に、現在は木材や石油の産地として経済的に、日本とのつながりが深いこの地域を改めて見直してみたい。

萩原宜之『ラーマンとマハティール』(岩波書店、1996)
 地域研究センターとして1960年に発足し、現在でも日本の代表的アジア研究機関として、高等教育機関の人材育成拠点として、数々の成果を上げるアジア経済研究所(IDE)だが、定期刊行物『アジア動向年報』にその一部が見られる日録は、現地紙誌の切り抜きという地道な作業の結晶である。こうした基礎資料を網羅してまとめ上げられたのが本書である。同じ現代アジアの肖像シリーズ『リー・クアンユー』でも、そうした実証的な手法は光っている。

苗秀『残夜行』(めこん、1985)
 苗秀(1920-1980)はシンガポール、マレーシアが別々の国になって30年以上経つ現在においても、両国の華人のとって共有される希有の文学者だが、その作品は本書のような戦時のシンガポールを描いた抗日小説と、今やウエットマーケットにしか残らない、生きた牛車水(チャイナタウン)を描いた『シンガポールの屋根の下で』のような都市小説の二系列がある。方言語彙をちりばめた彼の作品は、今読んでも充分新鮮である。

リー・ギョク・ボイ『シンガポール 近い昔の話』(凱風社、1996)
 問題意識が先か、史実が先か。アジア太平洋戦争の見方で常に議論となる点だが、どのような立場を取るにせよ経験者の証言には何かしら得るところがある。シンガポールでは国立文書館口述局を中心に戦争体験などの聞き取り資料を蓄積しているが、それらは新しいこの国にとって大事な歴史である。本書はこうした一次資料によって構築された生活誌である。なお日本軍政に的を絞ったものとしては、大著『新馬華人抗日史料』の抄訳『日本軍占領下のシンガポール』(青木書店)がある。

信夫清三郎『ラッフルズ伝』(平凡社、1968)
 昭和18年に出版された本書が、当時内務省から敵国人賛美で発禁にされたことはよく知られているが、今も日本の東南アジア研究の業績として輝いている。平凡社の東洋文庫シリーズにはこうしたアジア物の本当の名著が多く収録されているが、その批評精神によってマレー近代文学の先駆けに位置される『アブドゥッラー物語』などもこの地域の古典の一つである。

ラット『カンポンのガキ大将』(晶文社、1984)
 日本でも知られるマレーシアの漫画家LATの『The Kanpung Boy』の翻訳である。マレー集落での遊び、風俗が描かれていて楽しい。本書に続いて10才から進学で来た街での生活を描いた『Town Boy』など、ラットの自伝物はどれもいい。シンガポールには『Mr.Kiasu』(COMIX FACTORY)が居て、主人公のキアスーは都市生活を満喫しているが、カンポンと都市、マレー人と華人の生活は、やはり対照的である。

金子光晴『マレー蘭印紀行』(中公文庫、1978)
 光晴の散文、特に『どくろ杯』など回想三部作の愛好者は多いが、これらの作品は彼の放浪(昭和3年—7年)から40年近い時間を置いて書かれたものである。その点『マレー蘭印紀行』は昭和15年出版で、その数年前に書き終えていたこともあって、事実表記も簡潔だ。両者を並べて読む試みは楽しいが、詩人金子光晴にとっては『鮫』や「南方詩集」(『女たちへのエレジー』所収)が大切なのではないか。
 「—乞食になるか。匪になるか。兵(ピン)になるか。・・・さもなければ、餓死するか。」散文の秘密もそこにある。

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