カンボジア、タイ国境の山上遺跡プレアビヒア(タイ語名カオプラウィハーン)がカンボジア側からの申請で世界遺産リストに登録されたが、本体のみ申請で当初同意していたタイ側でナショナリズムが昂揚し、外相辞任の騒ぎとなっている。アンコール時代のヒンドゥー寺院なので、サマック新政権が認めたのもわからないではないが、実際の見学時にはタイ側からのアクセスが現実的とのこと。20世紀初頭、アンコール遺跡のあるシェムリアップ州が一時シャム領だったのを、フランス植民地政府が取り返した功が言い伝えられたり、2003年のタイ人女優の「アンコールワットはタイのもの」発言でカンボジアで反タイ暴動が起きたり、両国の遺跡とナショナリズムは領土問題を超えて不可分のようだ。
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国連合同写真展『アンコール遺跡の尊顔』日本展(06/10/19-24、於大丸ミュージアム東京)のオープニングレセプションへ行く。撮影者の斉藤氏はじめ、早大建築史の西本先生、地域地盤環境研究所の岩崎さんら旧知のアンコール仲間に会う。写真展の方は、特に斉藤さんのコーナーはアンコールの石林さながらで、学生600円は安いと思う。ふと撮影年を見ると、私もミッションを共にした1995年の写真がかなりある。バイヨンのまわりに足場を組み、尊顔を正面から取りまくっていた様子を昨日のことのように思い出す。
クリス・レイナー(この人も1995年当時サイトに来て撮影していたよう)のコーナーには例の印象的な、遺跡の前に座す入れ墨僧侶の写真も展示されている。
1993年の国連監視の総選挙の時は、日本からも自衛隊や選挙監視ボランティアが派遣され、「カンボジア」の文字が踊らない日はなかった。1994年はODA(政府開発援助)が実際に始まって、少しは話題になった。そんなカンボジアにも「華僑」がいるのだろうか。
カンボジアは主にクメール人と呼ばれる人たちが住んでいて、クメール語(カンボジア語)とクメール文字を使う。700年ほど前、クメール人の王国はとてもにぎやかで、かのアンコール・ワットが建設された。ワットを含む世界有数の巨大石造建築群であるアンコール遺跡にたどり着くにはベトナム、ホーチミン経由もあるが、カンボジアの首都プノンペンから遺跡のあるシェムリアップまで、日に何便も旅客機が飛んでいる。
プノンペンのホテルカンボジアーナあたりに一泊するコースなら、是非町中も見学してほしい。一番の繁華街は空港からの道と垂直に交わって南に折れるモニボン通り(旧アチャミン)。道の両側にあるわあるわ、漢字の看板。東南アジアの都市を訪れたことのある人には見慣れた光景だが、これぞ華僑が商売しているところ。中央市場の脇のラパイヨッテで旧フランス領仕込みのフランス料理というのも良いが、ここは中華料理にチャレンジ。この土地の華僑はタイと同じく先祖が潮州出身という人が多く、料理もちょい辛目の潮州料理。
モニボンが商売の場ならトンレ・サップ(サップ川)沿いは華僑の生活の場。特に王宮の南側には茶館や香港映画専門の映画館、中華学校なうますぎたりして現地人とうまく行かないこともあるそうだが、最近のカンボジアでは憎まれ役はむしろタイ人。中国の援助を受けたポルポト時代にもクメール、華人の区別なく迫害されたそうな。実は1979年にカンボジア国籍への書き換えが行われ、今や中国籍の「華僑」はおらず、現地化した「華人」がほとんど。今後も現地に住み着いた華人が、カンボジアのためにその実力を遺憾なく発揮してくれることでしょう。
カンボジアの中国系住民(華人)は1960年代には50万人を数え、内カンボジア国籍の外籍華人は20万人であったという。当地にも主要な方言集団(五大幇)は揃っているが、近50年は農村部にも進出した潮州人が8割を占め、都市に多かった広東人を凌駕している。
他の東南アジア諸国では農村部に住む華人は大変少ないが、カンボジアでは農村部にまで均等に華人が浸透していることが60年代までの特徴である。
フランス統治時代は他のインドシナ諸国と同様、華人は現地民とフランス人の間に介在する存在だった。特に農作物流通に大きな役割を果たしていた。農村部の収穫物は各村の地方小商人によって集められプノンペン、バッタンバン、コンポンチャムなどの国内都市に送られ、メコンを通じて海外への窓サイゴンに流れ込んでいった。こうした構図は当時ラオスでも同様である。
植民地政庁は華人に対して方言集団ごとの「幇」への加入を義務づける幇公所制度を採っていた。各幇の代表である幇長は構成員の出入国・居住・納税の保証人であり責任者でもあった。この制度は独立後も中華理事会館制と名前を変えて引き継がれ、1958年に廃止されるまで続いた。「会館」の廃止は華人社会固有の中核団体消滅を意味するが、実際廃止されたのは多数派の潮州、広東幇の会館で、福建、海南、客家各幇の会館は60年代を通じて残存していたようだ。
カンボジア近現代史の中でも何度かの反華人暴動が認められるが、1967年にはビルマと同様の紅衛兵事件が起こり、政府の華人締め付けにつながった。またロン・ノル政権成立時のインフレ、物不足への不満は反華商暴動へと結びついた。
ロン・ノル政権の点の支配の下、農村部でゲリラ戦を展開していた亡命政府は、制圧地域を徐々に広めて行った。内戦下で地方農村に分散していた華人商人は都市、とりわけプノンペンへ集中的に避難し、また中国系と現地系の混血児であるSino-Khmerは戦時下で土着化を強いられた。ここにカンボジア華人社会の一大変化が見て取れる。
インドネシアのプラナカン、マレーシアのババ、フィリピンのメスティソ、インドシナではベトナムのミン・フォンなど、各地にクレオール化した混血華人の集団があるが、カンボジアのSino-Khmerはフランス統治時代から現地人扱いで、中国系の父、現地系クメール人の母を持つものがほとんどだった。更に75年以降には都市の華人有力者が生き残りのために農村に子女を嫁がせることもあったようで、クメール人の父、華人の母を持つSino-Khmerも皆無ではない。こうした中柬混血児の実態についてはどの時代についても審かでないが、彼らを含む中国系を指す「チャン」ということばはインドネシア語の Orang Cinaのように差別感を含まず、むしろ優秀、ミドルクラスといった語感さえ持つという。フランスなどの先行研究の発掘やその追跡調査によって、今後明らかにされるべき事項であろう。
1992 年から華人による会館、団体の復活が許可され、かつての幇公所〜中華理事会館の流れを汲む柬華理事会が早速設立された。理事会は現在のカンボジアのチャイナタウンのセンターであるトンレ・サップ沿い、ウナロム寺の北に位置し、潮洲会館を兼ね、端華学校を併設している。端華学校は22年振りに再開された華語教育を行う小学校であり、6年教育で週15時間の華語教育を週6時間のクメール語教育と並行している。生徒数は3000人で華人子弟の他、5%のクメール人子弟を含む。他幇の学校がなかなか準備の整わなかったこともあって、潮州人に限らず各幇の生徒を受け入れ、また各幇の先生が教鞭を執っている。その後海南同郷会館の集成学校、客屬会館の崇正学校などが開校したあとも幇ごとというより近いところに通うといった状況が続いているようだ。
民主カンボジア時代を経て、プノンペン市内の文化財を除く主な建物は徹底的に破壊されたが、日本橋の袂の福建会館は会館、民生学校の建物とも180年前の建造物が残り、館内の関帝廟も修復が進んでいた。福建人は居住の歴史も古く、富裕な商人が多いのが特徴だが、会館がポルポト時代を乗り切れたのには何らかの要因が考えられるのだろうか。
日本でも報道されたように1993年中に華字紙が復活した。現地系の『華商日報』『独立日報』とマレーシア資本の『金邊時報』の三紙(その後タイ『亜洲日報』のカンボジア版発刊)で、『華商日報』と『金邊時報』は1994年6月現在も継続している。『華商日報』は現行では隔日刊で、現地の記事で占められ華人社会の回覧板の役割を果たしている。それに対して週刊の『金邊時報』(1993.12.13発刊、1994.8.11廃刊。全36期)は日本の夕刊紙のような娯楽性の強い作りで、広く東南アジア華人社会全体から材を取っている。発行部数はいずれも3000部程度だが、回し読みの習慣があり実際の購読者はそれより多いことが予想される。
Willmot(W.E,)は1981年の論文の中でカンボジアの華人の問題を書き継ぐのに「ほんわずかな可能性」しか残されていないと断じているが、今や彼の地の華人の実態研究を再開するときが来たようである。(東南アジア地域研究者フォーラム例会(1994.5.30)要旨)
カンボジア華人研究参考文献
陳極星『越南高綿華僑事業』堤岸、1960
John R. Clammer "French Studies on the Chinese in Indochina: A Bibriographical Survey" Journal of Southeast Asian Studies, 12-1, 1981, pp15-26
華僑誌編纂委員会『華僑誌−柬埔寨−』台北、1960
ルヴァスール、成田節男訳『仏印華僑の統治政策』東京、東洋書館、1944
満鉄東亜経済調査局『仏領印度支那に於ける華僑』東京、1939
René Dubreuil De la Condition des Chinois et de leur Rôle économique en Indo-Chine Bar-Sur-Seine, 1910
高橋保「カンボジア華僑社会の現状とその性格」『東南アジア華僑社会変動論』東京、アジア経済研究所、1972、pp.121-169
W.E. Willmott The Chinese in Cambodia Vancouver; Cathay Press, 1967
W.E. Willmott "The Chinese in Kampuchea" Journal of Southeast Asian Studies, 12-1, 1981, pp38-45
張文和『越南高綿寮国華僑経済』台北、海外出版社、1956