月末の東南アジア学会シンポ《東南アジア現代文学の眺望―作家、歴史、社会》の要旨を書いてみた。1991年にこの学会の関東例会(東京女子大)で「マレーシアにおける華人文学の発生と展開」と題して初めて馬華文学の発表をし、「マレーシアにおける中国文学の形成」と修正された顛末を描いた「開廷審訊」(シルビア・シエン)が、現地で六字輩らの「経典論争」を呼んだ。1998年に同じ学会の研究大会で「マレーシア華人による文学史の創出」という自由研究発表をして決着をつけた気でいたが、今から思うと方修、苗秀でシンガポール文学のはなしと思われたかもしれない。それから10年経ってまたこの学会のシンポジウムで、今度こそ国民国家の枠組に回収されない現実の姿を知らしめたい。
---
毎日90万部の華字紙が売れ、700万華人の90%が華語小学校に通う国。マレーシア華語系華人文学(馬華文学)はそこにある。所詮新聞の総部数の三割、人口比の四分の一に過ぎず、マレー人に劣る出生率で未来の相対的沈下を危惧する声もある。しかし、文学の発表媒体としての華字紙、リテラシーを保つための民族語教育と、それらを支える社団が存続するためには十分な絶対数とも言える。
国語マレーシア語で作品を発表するのはマレー人作家はもちろん、タミル人のウタヤ(1972-)だけでなく、リム・スウィーティン(1952-)ら華人作家も少なくない。国立言語図書研究所(DBP)には、民族文学間の相互交流としてウスマン・アワン(1929-2001)を中心に発足したマレーシア翻訳と創作協会の活動もある。
しかし、華人中高生の文化英雄は、リムらマレーシア語作家でなく、華人私立高校から台湾留学し、彼の地の文壇で活躍する黄錦樹(1967-)や陳大為(1969-)といった「六字輩」(六十年代生まれの)「留台」作家たちである。
本報告は台湾留学組と同年代で、国内に留まり作家活動を続けるリー・テンポ(李天葆,1969-)の作家と作品について、多民族社会マレーシアにおける文学の一断面と捉え、「文化中国」(中華文化圏)との関わりを交えて紹介する。
クアラルンプール生まれのリーは、広東大埔系客家を父に持つ現地第二世代の華人である。マレーシアで準公立華語小から私立華語中高に進み、卒業後は中国福建省、廈門大学の通信コースで学び、私立中学の華語教師を勤めた。その作風から海外華人世界の代表的張(愛玲)派作家と呼ばれる。『傾城の恋』の張愛玲(1920-1995)は、四十年代上海で活躍した女性作家であり、今も中華文化圏で広く読み継がれている。
現代マレーシアにあってなぜ四十年代上海なのか?二十一世紀に入り、祖籍地(祖先の原籍地)中国からの「乳離れ論争」が、他ならぬリーの作品を契機に巻き起こった。彼は桃源郷としての上海モダンを酷愛し、その面影をツインタワーはじめ高層ビルが居並ぶ大都会クアラルンプールに探す。茨廠街(ペタリン通り)のチャイナタウンや、新街場(ピール通り付近)のような華人の生活区がそれに当たるが、タミル人のブリックフィールドやマレー人のチョーキットも、それぞれの民族毎に同様の感興を呼び覚ますだろう。
イギリス植民地時代に契約移民として海を渡った華人の文学は、紛れなくポストコロニアル文学の一環である。リー・テンポの文学は「文化中国」の、またマレーシア文学の周縁と切り捨てることができるだろうか。張愛玲が「上海」で活きたように、リー・テンポは吉隆坡(クアラルンプール)で活きているのに。