2005年7月アーカイブ

 マレーシアは、タイから連なりシンガポールまで延びるマレー半島と、ボルネオ島の北部に国土を二分する国である。日本から一番近いのはボルネオ島、サバ州のサンダカンで、マレーシア往復の国際線では、それと知らず経由していることもある。しかし、旅行者の多くが目的地とするのは首都クアラルンプール近郊のKLIA(クアラルンプール国際空港)を玄関口とするマレー半島部だろう。
 マレーシア旅行の訪問地としてペナン、クアラルンプール、マラッカ、そして隣国シンガポールが組み合わされることも多い。地図上でこれらの都市を探してみると、いずれもマレー半島の西海岸に位置していることがわかる。歴史的には十九世紀以来、イギリスの植民地だった「マラヤ」の中でも、ペナン、マラッカ、シンガポールの三都市は海峡植民地と呼ばれ、錫(ピューター)等の集積地として宗主国イギリスに多大な利益をもたらした。
 マレーシアに来たものの、トゥドンを冠ったマレー人女性や、ターバンを巻いたインド系の人たちもいることはいるが、漢字の看板も多いし、中国語も聴こえて来る。何だか町中チャイナタウンみたい、とはよく聞かれる感想だ。旅行者が接するのが主にサービス業の人たちのせいもあるが、前述のような歴史的経緯から、西海岸の諸都市には鉱山労働者として中国系(華人)が多く集住していた経緯がある。かつてはイギリス人植民者との仲介役として、華人集団の元締めである「Kapitan」が置かれていたこともあるほどだ。
 特に華人の密度が高く、首長など行政面でも華人がイニシアティブを執るペナンは、世界的に見ても代表的なチャイナタウンの景観と言える。ちなみに日本語では「中華街」ということばが使われることが多いが、中国語としては通じず「唐人街」という。立教大学池袋キャンパス最寄りの池袋北口などは、さしずめ最新の「唐人街(チャイナタウン)」だろう。
 しかし、マレーシアは中国の華南や台湾、また香港やマカオなどとは決定的に違う点がある。イスラム教徒であるマレー系住民が人口の6割を占め、政治的な主導権をも握っているという点である。我々がしばしば訪れる西海岸の諸都市で華人が少数民族に見えないのは、その分東海岸のカンポン(村落)にマレー人が集中している裏返しでもある。宗教が異なり、小学校から政党、墓場まで民族別に住み分けるマレーシア国に、民族間の接触の場は多くない。国際的にも評価されたマレー人女性監督ヤスミン・アーマッドの『SEPET』は、華人男性とマレー人女性のラブストーリーという「禁忌」を描いて話題になった。
 マレー人女子高生のオーキッドは、母の影響で香港映画がお気に入り。特に中国人男優の細目の一重瞼が好み。ある日インド系の親友リンと市場をひやかしていると、海賊版VCD売りの華人青年ジェイソンに出会い、二人は引かれ合う。ジェイソンの友達の華人は言う。「マレー人の彼女なんて面倒の種なだけさ。イスラム教に改宗しなきゃならないし」広東語を操るヤスミン・アーマッド監督の夫も華人で、この映画は体験に根ざしたストーリーでもある。
 西海岸の諸都市には交流文化の場はないのか? イポーを舞台にした『SEPET』で二人がデートしていた交流文化のホットスポットの一つは、都市ならではの「Kopitiam」である。
 Kopitiamとは中国語福建方言で「コーヒー店」のことである。華人の五大幫(グループ)の中でも、福州人、海南人が経営していることが多い。中国華南沿海部から東南アジアの都市にかけて特徴的な、ショップハウスと呼ばれる回廊で連なる二〜三階建ての長屋の一階に、オープンカフェとして朝から晩まで営業している店が多い。天井には直付けの大きな扇風機がぐるぐる回っており、虫除けの役目も果たしている。奥のスペースは冷房が効いていることもある。
 テーブルクロスのない丸卓と、背もたれのないイスに好みの場所を決めると、それぞれ店によって特別の入れ方をしたコーヒーを、Kopi O(ブラック/福建南部方言)、KopiC(砂糖ミルク入り/海南方言)などと頼む。イポーで有名な白コーヒーというのもある。Kaya(ココナッツ)ジャムトーストとゆで卵も欠かせない。なぜか水槽が置いてあって、よくわからない大きな川魚がじっとしている。
 マレーシア華人にとって、こうしたKopitiamは、今や文化的な存在であるらしい。一九五七年、イギリスから独立した後、一九六九年は最大の民族間摩擦の年として記憶される。同年五月の選挙で躍進した野党支持者(華人)と与党支持者(マレー人)の人種暴動は、五月十三日に流血の惨事となり、二百名近い死者を出した。翌年、独立の父、初代首相ラーマンは引退し、マレー人優先の新経済政策の時代へと進み行く。特にこの五一三事件以後の世代にとって、Kopitiamは典型的な民族間交流の場として映るようだ。たとえばン・ピンホ制作の『Kopitiam』は一九九七年のテレビドラマだ。亡き父のコーヒーショップを継いだマリーは、店を改装し「Kopitiam」と呼ぶことにした。友達のスティーブや俳優修行中のジョー、シンガポーリアンで法律家のスーザンも加わって、彼女のKopitiamは大にぎわい・・・他にも短編映画や小説など、Kopitiamを舞台とした作品は少なくない。それは彼らが子供のとき、親に連れられて古き良きKopitiamで過ごした時間をなつかしく思うこととも関係するのだろう。なお、インド系のイスラム教徒が経営している店はMamakストール(屋台)と呼ばれるが、安価とハラルで民族を問わず利用されている。

 クアラルンプールの旧市街の中心にあるペタリン通りは「茨廠街」という中国語名でも知られるが、近年は通り全体に屋根が掛かり、多くの屋台が出る観光スポットとしてにぎわっている。周辺のスルタン通りなどには百年以上のショップハウスが多く、保存修復の進んでいるシンガポールに比べ、生活空間そのままで、細い路地奥の市場は『重慶森林』(邦題:恋する惑星)に描かれた近い昔の香港を彷彿とさせる。
 Kopitiamはこうした「老店屋(オールドショップハウス)」のあちこちに見られるが、ある日突然崩れ落ちることがある。二〇〇五年四月十三日、その日はやってきた。熱帯につきものの夕方から夜にかけての雷雨、スコールが激しさを増したとき、スルタン通りの戦前からのショップハウスのうち、二棟の二階部分がすべり落ちた。幸い怪我人が二人出ただけだったが、続きの七棟に崩壊の危険があり、十二人が政府の施設に収容された。周りの喧噪と関わりなく、住民のほとんどは老人だった。
 今や街角の交流の場は、グローバリゼーションの象徴であるマクドナルドや、マレー人でもインド系でも安心して食べられるケンタッキーフライドチキンに様変わりしつつある。クアラルンプールの無線LAN「ホットスポット」第一号は、モントキアラのスターバックスと言われるが、他にもコーヒービーンなど、外資系のチェーン店では民族を問わず、パソコン片手に商談している人たちが多く見受けられる。国内産のロバスタ種に対し、アラビアカ種のグルメコーヒーを根付かせた功績はあるものの、これらのチェーン店がなつかしく思われる日は来るのだろうか。
 スルタン通りの十二人の老人のうち、天涯孤独の媽姐と呼ばれた八十九歳の黄珍老婆は、ショップハウスが壊れてこれからどうするの、という問いにこう答えている。
「みんなこんなに歳取って。お迎えが来たってこと、同じことさ。」

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