2000年2月アーカイブ

 Li Chuan-Siuは「現代マレー文学」を1942年ないし1945年からと規定しているが、マレー文学が「近代」を迎えたのは、19世紀半ばの『アブドゥッラー物語』(中原道子訳、平凡社、1980)からと言われている。その後1920年代以降の大衆文学の普及に伴う出版流通の整備、1940年代の現代文学の幕開け、1950年代からの社会主義リアリズムの流行と1970年代における集束というのが、マレーシアのマレー人、華人、タミル人など各民族、さらにはインドネシアも含めた文学状況の推移である。
 マレーシアの言語状況はマレー語、華語(共通中国語)、タミル語と民族ごとに異なっていて、それぞれの文学世界が展開している。さらに1977年の統一正書法制定以来、マレー語による現代文学はインドネシア、マレーシア、シンガポールと広く東南アジア島嶼部に広がりを持つ。たとえばインドネシア人作家、プラムディアはマレーシアの学生にとっても必読書だ。一方、華語による文学は大陸中国、台湾など両岸四地にも広がり得る。たとえばペナンの長編作家方北方の『ニョニャとババ』は香港で映画化され、主題歌はスタンダードナンバーとして歌い継がれている。こうした言語からして多様なマレーシア文学は、日本でどのように紹介されているのだろうか。
 作者読者を問わず、アジアを除外した世界文学から学び、たとえばマレーシア人が東南アジア文学を知らないというような状況は、日本を含めアジア各国共通である。トヨタ財団はアジア文学の日本語への翻訳出版助成である「隣人をよく知ろう」プログラムを1978年から行っている。以下に紹介する翻訳書のほとんどが、あとがきに「隣人をよく知ろう」プログラムの成果であることを記しているが、特に「東南アジアブックス」シリーズを発行する井村文化事業社の出版物の多くがこのプログラムに拠っていた。しかし既刊本は勁草書房を発売元として入手できるものの、すでに同社は活動を停止している。一方、大同生命国際文化基金による翻訳シリーズ「アジアの現代文芸」の中にも何冊かマレーシア文学が含まれている。同基金の出版物は大学、図書館などへの寄贈が主で書店では入手できないが、アジア文庫や書肆アクセスなどには流通させてほしいものだ。
 翻訳書については出版状況からして暗雲が立ちこめるが、こうしたマレーシア文学作品が図書館などで所蔵されていることを前提に、日本語翻訳作品を中心としてマレーシア文学の流れを追ってみよう。
 現代マレー文学の画期は「50年代作家グループ」(ASAS50)による戦後文学である。当時シンガポール在住のマレー人作家、クリス・マス、ウスマン・アワン、マスリ・S・Nらが「芸術のための芸術より社会のための芸術を」をスローガンにナショナリズム、反植民地、反封建、貧困などの問題を題材に執筆活動を行った。彼らは社会派のレッテルを貼られることが多いが、マレー文化、古典を含むマレー文学の振興という側面も持ち合わせている。この中では後に述べる国家文学賞の第一回受賞者であるクリス・マス(1922生)の『クアラルンプールから来た大商人』(1982:佐々木信子訳、井村文化事業社、 1993)が翻訳されている。
 1960年代には詩人グループを中心に「60年世代」が登場した。開発、汚職、農村などの社会問題を題材に、シャーノン・アハマッド、S・オスマン・クランタン、A・アマッド・サイド、メラン・アブドゥラら、日本で翻訳されている作品の多くを含んでいる。アジアアフリカ文学について開発独裁下での抵抗などのイメージを持つ人々にも受け入れられやすいようだ。
 シャーノン・アハマッド(1933生)の『バングルの虎』(1965:星野龍夫訳、大同生命国際文化基金、1989)は開発による農村社会の変質を活写している。『いばらの道』(1966:小野沢純訳、井村文化事業社、1981)は映画化されたものが日本でも上映されており、原作とは違う展開の妙は、読んでから見てもがっかりしない。
 S・オスマン・クランタン(1938生)の作品では『闘牛師』(1976:平戸幹夫訳、井村文化事業社、1988)と『ある女の肖像』(1990:加古志保訳、大同生命国際文化基金、1998)が、翻訳されている。
 A・アマッド・サイド(1935生)の『娼婦サリナ』(1961:星野龍夫訳、井村文化事業社、1983)は英仏中でも訳されている作品で、英領下の大都市シンガポールを描いている。同じく古き良きシンガポールを描いた作品に華人作家苗秀(1920生)の『残夜行』(1976:福永平和・陳俊勲訳、めこん、1985)がある。戦直後から活躍していた苗秀は、1970年代以降、はっきり別々の道を歩んでいるシンガポールとマレーシアの華語文学の中で、両国に共通の馬華(マラヤ華人)作家として認識されている希有な存在である。
 これ以外では、アディバ・アミン(1936生)の『スロジャの花はまだ池に』(松田あゆみ訳、段々社、1986)には表題作「スロジャの花はまだ池に」(1968)の他、この女流作家の半生記である「ほろ苦い思いで」(1983)が含まれている。また同じく女流作家であるカティジャー・ハシム(?生)の『白鳩はまた翔びたつ』(1977:星野龍夫訳、井村文化事業社、1985)、華人作家では方北方(1918生)の『ニョニャとババ』(1954:奥津令子訳、井村文化事業社、1989)などが翻訳されている。今後はカティジャー・ハシムの『一夜の嵐』(1969)や、50年代作家グループ、60年世代に続く第三世代のアンワル・リドワン(1949生)の「意識の流れ」によるマレー農民を描写した諸作を日本語で読んでみたいものだ。
 マレーシアの文学にマレー語、華語、タミル語文学などがあることは先に述べたが、それらの交流はどのように進められているのだろうか。1983年、ウスマン・アワンによって国立言語図書研究所(DBP)に「各民族文学翻訳情報委員会」が設立される。敏感に反応したのが華人で、同時代マレー語文学の華語への翻訳は60年代から進められていたが、1986年にマレー語、華語作品の相互翻訳のためのマレーシア翻訳創作協会を設立する。彼らの成果はDBPで出版されたり、華字紙、マレー語紙などに掲載されたりしている。1988年にはスランゴール中華大会堂の主催で「各民族文学シンポジウム」が行われ、マレー人、華人、タミル人作家が集まってマレーシア各民族の文学について話し合い、マレー人作家ではクリス・マス、ウスマン・アワンらが参加した。日本で出版された『マレーシア抗日文学選』(原不二夫編訳、勁草書房、1994)は1938年から1954年の華人4、マレー人1の5作品を収めた作品集だが、帯の「マレー文学・華語文学を会わせて収録した恐らくは世界初の試み」との惹句がいまだマレーシア本国で破られていないことに注意していただきたい。
 シンガポール作家協会編『シンガポール華文小説選、下』(福永平和・陳俊勲訳、井村文化事業社、1990)は『吾土吾民』(1982)から作品を選んだものだが、原著は王鼎昌の「建国文学」形成の要請に応えて1965年以降の作品を集めたものだ。マレーシアではこうした「国家文学」の意識は1971年のマレーシア文学賞以来、国家文学賞(Anugerah Sastera Negara)に受け継がれている。第1回のクリス・マス(1981)以来、シャーノン・アハマッド(1982)、ウスマン・アワン(1983)、A・アマッド・サイド(1986)、アルナ・ワティ(1988)、ムハマド・ハジ・サレ(1991)、ノルディン・ハッサン(1993)、アブドゥラ・フセイン(1996)らの受賞者には、勲章、3万リンギの賞金をはじめ、執筆出版活動への援助と生涯医療手当、作品の5万部買い上げとDBPによる外国語への翻訳などが行われる。国家文学賞はマレーシア市民によるマレー語小説、脚本、詩などを対象に、作品自体の価値、世界文学の中での価値、国家文学を構築するものとしての適正さ、の3つを選定基準として掲げている。しかし政治的マイノリティに属する華人作家らは疎外感を受けており、1989年には華人社会独自の「マレーシア華文文学賞」を制定し、第一回受賞者として方北方を選んでいる。マレー人に「マレー文学」と「マレーシア文学」の区別はないと言われる。多民族国家におけるマレーシア文学の形成にはまだ時間がかかり、そうした中でわれわれ外からの観察者の存在も意味を持つのではないだろうか。

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