1997年11月アーカイブ

 1997年夏、日本学術振興会特定国派遣研究者事業によって中国北京市、福建省、広東省に渡航の機会を得た。現地で見聞きすることのできた範囲で中国の東南アジア研究状況を紹介したい。今回の研究課題は「中国における華僑華人研究」であったが、訪問した機関、研究者等は結果的に該当地域の東南アジア研究の現場と重なった。
 今回の調査で、戦前からの研究団体として現在の中国における東南アジア研究に人的な側面で最も継承性を持つのは、1940年にシンガポールで設立された南洋学会(Southseas Society)ではないかと思われた。はじめ中国南洋学会と呼ばれた同学会は、初の中国人による民間学術団体で、後に重慶で北京大学東方学系の前身である南洋研究所を設立した姚楠、シンガポールの歴史研究者許雲樵、作家の郁達夫らが創設メンバーとして参加していた。現在もシンガポールで『南洋学報』を、中国を含むアジア各地で「南洋学会叢書」を発行している。
 一方上海には1930年代、現在広州で復興されている曁南大学があり、同校の南洋美洲文化事業部は『南洋雑誌』や「南洋叢書」を発行し、東南アジア研究の成果を掲載していた。また資料に限れば、日本占領期を含む1930-40年代に厦門でアジア資料の収集を行っていた海彊資料館などがあった。
 中華人民共和国成立後の東南アジア研究の劃期は1956年の南洋研究所設立であろう。現在厦門大学南洋研究院として『南洋問題研究』などを発行している同研究所は、中国の東南アジア研究の総合センターとして文革前は旺盛な資料収集、研究に勤しみ、現在資料室には当時の遺産として、他に見られない資料、たとえばインドネシアや他の東南アジア諸国の1950、60年代華字紙が所蔵されている。
 1966年に始まった文化大革命期には、特に1971年までは南洋研究所を含むあらゆる研究機関が活動を停止したが、1972年から東南アジアの法令、外交文書などの翻訳から研究の一部が再開された。1976年の文革集結後、特に1980年代に入ると再び各地で研究活動が盛んになったが、この頃全国組織の研究団体として1978年に中国東南アジア研究会が設立されている。『中国東南亜通訊』を発行している同会は現会長の厦門大学歴史学系、孫福生教授によると、現在400名前後の会員を持ち、中国唯一の東南アジアに関する学術研究団体とのことだ。
 90年代になると、1988年に設立された中国社会科学院アジア太平洋研究所に事務局を置くアジア太平洋学会が政府の認可を得ており、研究所編の『当代亜太』で同会の研究活動を知ることができる。国家直属の研究機関である中国社会科学院の中では世界歴史研究所など複数の箇所で東南アジア研究、資料収集が行われている。また中国社会科学院は共通の大学院を持ち、人材育成や派遣を行っている。
 高等教育機関でも東南アジア研究が進められているが、たとえば北京大学では前述の東方学系(前東方語言学系)やアジアアフリカ研究所において研究、人材育成が行われている。専任教員はいないが、アジア太平洋研究センターも先ごろ開設された。
 南洋研究院を擁する厦門大学では歴史学系なども東南アジア研究を行っており、前述海彊資料館の資料も図書館や南洋研究院資料室に所蔵されている。また欧米ではアムステルダム自由大、ライデン大やコーネル大、アジアではフィリピンのアテネオ大と交換派遣プログラムを行ない、それらは手続的経済的にまだまだ容易でない海外渡航のチャンスを研究者に与えている。
 広東省では中山大学に東南アジア研究所があり大学院が併設され、『東南亜学刊』の発行も行っている。前述上海校の名前を受け継ぐ広州の曁南大学には東南アジア研究所(紀要『東南亜研究』)と華僑華人研究所があり、それぞれ研究、資料収集を行っている他、図書館でも華僑華人資料の収集が行われている。
 広西、雲南各地方の社会科学院(広西紀要『東南亜縦横』、雲南紀要『東南亜』)では地の利を生かし、それぞれインドシナ、タイ研究が盛んだ。その他、福建省では泉州の華僑大学や福州の師範大学、広東省では汕頭大学、河南省ではベトナム研究と『中国東南亜通訊』の編集を担当している鄭州大学などで組織的な東南アジア研究が行われている。また国家認定等級では前記ジャーナル類より格上の、これらの大学の『学報』にも研究成果が発表されることが少なくない。
 なお華僑華人研究については『華僑華人歴史研究』を発行する北京の華僑華人歴史研究所など、各地の華僑歴史学会が帰国華僑の動向なども押さえている。
 最近の具体的な研究成果については厦門大学南洋研究所資料室編『東南亜研究論文索引(1980-1989)』(厦門大学出版社、1993)に詳しいが、学界の勢力を結集したものとして姚楠主編『東南アジア歴史辞典』(上海辞書出版社、1995)、周南京主編『世界華僑華人歴史辞典』(北京大学出版社、 1993)、周南京主編『世界華僑華人百科全書』12巻(北京大学出版社、1998-)などが挙げられよう。
 1970年代からは海外の研究文献の翻訳作業が盛んで、例えば中山大学東南アジア研究所訳『東南アジア史』(商務印書館、1982)はD.G.E.Hall A History or South-East Asiaの全訳であり、原書の漢籍資料の誤りについて補注が施してある。この手の漢籍文献についての考証では顧海編著『東南亜古代史中文文献提要』(厦門大学出版社、1990)の他、タイ、フィリピン、インドネシア、ベトナム、ラオス、カンボジアなど国別の漢籍文献選編が出版されている。
 華僑華人の研究は東南アジア研究の中でも中国人研究者が特色を出せる分野だが、林金枝『近代華僑投資国内企業概論』(厦門大学出版社、1988)は華南での現地調査の結果に基づく実証的な研究であり、別冊の地域別資料編が充実している。
 また文革以前の研究としては「オランダ東インド会社時代のバタヴィア華僑人口の分析」(厦門大学南洋研究所、1981)が文革以前に完了していた一次資料利用の研究で、当時の水準を示すものと言えよう。

 中国では人海戦術によって新聞、雑誌記事切り抜き、索引作成が各図書館、資料室ごとにそれぞれ行われており、研究状況を知る方法に事欠かない。前述の『東南亜研究論文索引』も英日文献を含むとは言えB5版900ページの大冊で、すでに1990-1993年分も編集済みと言う。
 中国人研究者には世代による研究方法、動向の差異が顕著と思われるが、特に1950、60年代の東南アジアからの帰国華僑で研究者になった50歳、60 歳台の人々は現地語、現地事情に通じ、その後の半鎖国的状況下で主導的な役割を果たしてきた。一方いわゆる文革世代の40歳台の研究者は現地語資料を利用できる者は稀で、国外で研究者養成が可能になった20歳、30歳台の研究者との間に挟まれる格好なのは他の分野と同様である。
 もっとも出国がたやすくなったとは言え、日本と逆にこの10年で1/10になった中国元のレートを考えると、海外調査どころか外国書の購入も困難で、文書館でも外国雑誌の購読を打ち切るところが増えている。このように経済的な要因で自費渡航のチャンスが少ないため、公的な出国のチャンスを得るには国際学会での役職がものを言うわけで、昨今の国際学術団体での中国系人の“活躍”は由ないことでもないようだ。

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