1995年2月アーカイブ

 ジャズが鳴り、艶やかなチャイナドレスが光るモダンな歓楽街だけがオールド・シャンハイのすべてなのだろうか。旧フランス租界のダスカ(大世界)で、胎内巡りを思わせる細く暗い階段を上っていると突然不安に襲われることがある。魔都と言われた上海のもうひとつの顔を垣間見ることは、今では決してできないはずなのに…
 かつて上海には租界(外国人が警察・行政を管理するエリア)があった。そこは欧米列強の中国植民地支配の拠点だった。アヘン戦争後の1846年に置かれたイギリス租界が最初だが、このとき開港された五港の中で上海は商工業港としての実力をいかんなく発揮しはじめる。開港後、華僑のふるさと福建・広東からの航路が活発になり、船員、港湾労働者が流入し、一部の流亡者は無頼の徒として上海に居を定める。その後海外のチャイナタウン成立過程と同様、移民の郷土単位の互助組織、同郷会館が設けられる。福建、広東人の商人がそれら同郷会館の理事を務め、各地からの流民は理事に従属し郷土グループ:幇(パン)を形成した。当時こうした幇は、地元上海グループを含めて七党あったという。
 幇の複合体である三合会系の秘密結社小刀会は、後に長江沿いに進出した哥老会と合流して紅幇となるが、1853年には南京の太平天国軍に呼応して上海各地で蜂起した。小刀会は旧城内に立てこもって清軍に抗戦。今も小刀会の名残を留めるヨ園北の点春堂は当時作戦本部だった。その間武器弾薬食料は租界から供給されたという。清軍は租界に攻め入ろうとしたが、阻止しようとする英米軍と小競り合いになり、このとき幇は英米軍側に加担した。
 太平天国の乱で故郷を追われた人々は上海の、特に租界に流入し、その数は1854年には2万人を越えた。従来租界内の中国人の土地取得、居住は禁止されていたが、こうした人口圧力によって1855年から中国人の租界内居住が認められ、租界人口、ひいては上海全体の人口増大につながった。
 このようにしてふくれあがった上海の租界は、共同租界、フランス租界、華界をあわせて「三界四方」と呼ばれた。現在のメインストリート南京路は共同租界の、准海路はフランス租界の中心街である。三界は各エリアごとにそれぞれ異なる行政警察機構を持っていたから、端境は取り締まりが及びにくく、流氓たちの格好の活動場所となっていた。中でも三界の接する延安東路付近は無政府状態に陥っていたという。
 紅幇と並ぶ上海の代表的秘密結社青幇の根拠地も、地理的にいくつもの無政府地帯を含むフランス租界にあった。近年「黒社会」と表現される幇に属する者は、解放前の上海300万人口の四分の一に及んだという。全き幇の世界である上海では、例えば青幇大亨(大親分)の黄金栄、杜月笙、張嘯林らは老若男女国籍を問わず誰もが知る超有名人だった。
 黄金栄はフランス租界の警察の密偵から警察署長にまで出世し、この間特権を利用して幇会三宝(烟、賭、娼)に勤しんだ。現在上海師範大学に隣接する桂林公園は、もと黄家公園と言い、黄が父母の墓碑を築いた花園である。その広さと豪華さは当時の幇の力量をうかがわせるに充分なものであろう。
 杜月笙は浦東生まれで、果物屋で働きながら青幇に加入。黄金栄門下で頭角を現した。国民党支援で重慶退避に同道した杜だが、上海では寧海西路の公館の他、東湖路の東湖賓館や戦直後に香港に亡命するまで住まった錦江飯店などが縁の場所である。その他、旧上海博物館は元々1929年に杜が開業した中匯銀行のビルだった。中匯銀行は幇会頭目が興した初めての近代的銀行組織で、フランス租界内のアヘン業者、賭博業者の資金を吸い上げた。1934年完成の中匯銀行ビルは、当時上海でも有数の高層建築として名高かった。
 張嘯林は浙江生まれで、のちに杭州に出て流氓と交わり、上海で青幇の一員となった。禁烟運動で杜と反目するまで後述する大公司の経営者のひとりだったが、杜が重慶に居る間に日本と結んで上海に君臨しようとし、国民党政府の不興を買って暗殺された。
 前記の幇会三宝の中でも組織を支えた大資金源は烟(アヘン)だった。金、杜、張の三人は1925年頃結集して大公司を設立し、アヘン市場を独占した。当時は租界各地に「燕子窩」と呼ばれるアヘン窟があったが、特に金陵東路、寧海東路周辺は密集地帯だった。アヘン窟を取り締まろうにも、華界では軍閥警察、フランス租界ではフランス警察が全面的にバックアップしていたのだから手が付けられないわけである。特に1920年代から1930年代にかけて杜が理事長を務めた頃の大公司は、全中国のアヘン市場を支配していた。当時大公司のアヘン取り扱い量は年間600トンから2000トンで、租界、公司、軍閥三者の手数料は一億元を越えたという。
 三界からは外れるが、旧日本人街についても触れておこう。バンド(外灘)からガーデンブリッジ(外白渡橋)を渡りブロードウェイ・マンション(上海大廈)の脇を抜けて西に二本目の四川北路は、虹口日本人居住区のメインストリートだった。当時は魯迅行きつけの内山書店や歌舞伎座、中国人作家たちのたまり場だったABC喫茶店やクンフェイ珈琲店が並び、更に北上した虹口公園の南には上海神社があった。日本人倶楽部は南に戻った共同租界内の呉淞路にあり、交差する乍浦路の中ほどには東本願寺。寺址も今では塀の支柱にわずかな面影を留めるだけである。
 以上のような租界を中心とした上海が、赤い星の出現とともに眠りについて数十年が経つ。しかし魔都の実態であった秘密結社が、今をときめく「新租界」浦東に復活しないと考えることはむしろ難しく、杜月笙直系の子孫はまたも浦東で生まれているかもしれない。

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