(樋泉克夫著 新潮社 1993)
華僑・華人研究者は常に経済的側面からの情報を要求されがちであるが、本書はそうした関心に充分答えつつも華人存在の根源に迫ろうとした、著者の「最初の試みであり、出発点」である。華人研究は一種の定点観測であり、全体でないにしろ一つの視角を提供し得るものであるが、外務省専門調査員としてタイに長期滞在した著者の筆致は特にタイ華僑を事例としたときにキレを見せる。六四天安門事件に対するタイ華僑の反応から彼らの「(中国の)不安定への嫌悪」を嗅ぎ取り、《華》の持つカラクリの端緒を見出す。タイ華僑はまた台湾独立にも不支持を表明するが、そうした動きを社会混乱の本として「「一国二政府」でも、「二つの中国」、「一国両制」でも、「一中一台」、まして「台独」でもない。一つの、しかも豊かで安定した中国」を求める気持ちの現れであるという指摘は鋭い。具体的には華僑・華人の台独反対には大陸、台湾の本家争いから得る漁夫の利を失うとの危機感もあるが。
現に存在する華僑・華人の持つ世界観について、本書ではチョロン華僑の次のような発言によって紹介されている。「いま、アジアを動かす大きな力は中華の血を引く「三李」(李鵬、李登輝、リー・クワンユー)だ」。こうした見方は華僑的認識とも言うべきもので、事実として史学研究の対象ではないが、彼らの行動原理を知るために現象として無視することは出来ない。が、時として著者自身がこうした認識方法に巻き込まれることがあり、今後の体系的な研究の中では峻別が必要だろう。
本書の魅力の一つは著者が持つ豊富な現地情報の中から引く事例の数々で、それらは華僑情報に有りがちな演繹的なものでなく示唆に富む。例えばアンコールワット観光に道を拓いた“タイ華僑”チャーチャーイ、インドネシアの企業集団サリム・グループは「三人の林(リム)」の意味、タイでは華語教育問題は教育省でなく首相直属の国家安全保障会議が最終判断する等々である。更に世界各国の華僑華人人口など、華僑に関する統計は不明な点が多いが、出来得る限り現地国統計、台湾統計、大陸統計を併記して数値を明らかにしようとしている。実はこうした統計の出典を明記することさえ従来の華僑論では怠られていたことなのである。例えば僑社三宝(会館、華字紙、華語教育)のひとつである華字紙だが、タイでは6紙合計で発行部数20万部で、タイ字紙合計35紙300万部の 15分の1の規模という。華語が共産主義革命の媒体から経済の共通語へと転換するにつれてその数値以上の地域的広がりを持つこと指摘されているが、著者ならば例えばタイ以外の国におけるタイ華字紙の定期購読者数によってそれを実証出来るのではないか。
現在も中国人移民=華僑は誕生し続け、結果としてその存在は多層に渡る。華僑華人全体を一つとして方向性を示すことは難しいが、結語の“華僑の「中国」が冷戦後新秩序に矛盾しないという保障はない”という指摘は現実から「《華》の持つカラクリ」に迫る視点を提供するものだろう。