1975年以降のベトナム華人の状況は、通常ソースとなるべき東南アジア華人間の情報として漏れ伝わることも稀である。なぜなら南北統一以前の有力な華人にとって、統一は北による南の占領にほかならず、国際的な華人社会では台湾やアメリカの亡命華人が未だインドシナ華人のスポークスマンを努めている場合さえ少なくないからである*1。本稿はベトナムの中の一少数民族として生きようとする現代ベトナム華人の文化状況についての外国人によるノートである*2。
ベトナムは中国文化の影響を色濃く受け、日本と同様漢字文化圏に属し、現代語にも多くの漢字語を残している*3。更に科挙があり、日本と同じく漢文学が正統として認められていた。現地で研究対象となる華語文学と言えば、黎朝から阮朝にかけて盛んだった漢文学であり、Quoc ngu*4普及以後の文学史で華語文学が取り上げられることは稀である。
ところで、筆者の関心は現代華語華人の文学にあるが、ベトナム随一のチャイナタウン、チョロン(堤岸)を持つ南部では、1940年代以降、《遠東日報》*5、《亜洲日報》*6、《成功日報》*7、等の華字紙が発行され、別刷りの文芸副刊は現地華人の華語作品の発表の場となっていた*8。その一端を聞き書きによって紹介すると、たとえば《遠東日報》の記者で華語教員でもあった烏増厚は社説に副刊に活躍し、この時期もっとも多作な作家であった。しかし彼の作品は出版物としてまとまったものがなく、その作品を検討するには《遠東日報》のバックナンバーを当たるよりほか方法がない。また華字紙の他にはいずれも短命ながら、日本占領期の総合雑誌《南風》、大戦後の文芸雑誌《人海》《新苗》等が現れた。
商業雑誌が栄え、出版状況も整っており、読書の習慣も根付いている日本のような出版大国においては写作者にも様々な選択肢があり、「売文業」などという自嘲が通用するのだが、東南アジア一般、殊にマイノリティーの文壇では出版はおろか逐刊への発表さえ覚束ない。そうした場合、手軽な短詩形式がまず興隆するのが通例だが、40年代のベトナム華語文壇においても異彩を放ったのは馬禾里の新体詩だった。フランス留学経験のある彼の詩は、はじめ判りにくいと不評だったが、前述の烏増厚が《遠東日報》の文芸副刊に採用し後に出版された。同じ頃南僑中学の教員、屠亦夫の詩集も出版された記録がある。また60年代になって、詩集『愛する者に捧ぐ』(謝振煌)も上梓されている。一方、小説等の散文出版物は数少ない。雑誌《電影》の連載小説「三月時光」が50年代はじめに単行本になり、ベトナム中部の狩猟生活を描いた散文集『狩人』が60年代半ばに出版されたくらいだろう。
ベトナム戦争後期の10年間の華語文学は《当代文芸》《南方文芸》等の香港の文芸雑誌を発表の舞台としていた。中で、李錦怡の小説は《当代文芸》主編徐速の絶賛を浴び、香港の高原出版社から発行されることになったが、徐速が『繁』と名付けたその小説集が1976年夏に出版されたとき、すでに著者李錦怡の行方は知れなかったと言う。
1975年以降の現体制の中で、もっとも重要な役割を果たす華語メディアは、ホーチミン市第五郡のHAI THUONG Lan Ongに本社を持つ《解放日報》だろう。《解放日報》は前述《亜洲日報》の設備を接収して1975年5月5日から発行をはじめた。発行部数は1万数千部で、南部の一地方紙だが今では全国唯一の華字紙であり、華人社会で広く読まれている。この新聞の水曜日と金曜日の週に二回の文芸副刊によって、華語華人の文芸は細々と命脈を保っている。
《解放日報》とその周辺における文芸活動が、もっとも盛んだったのはやはりドイモイに伴う「文芸界の春」*9の時期であろう。たとえば1987年、《解放日報》副刊編集部によって200余名からなる「解放日報文友倶楽部」が組織された。《解放日報》では1980年から毎年社外寄付による文芸コンクールを催し、1985年には短編小説、ルポ、随筆、旅行記を含む29編から成る文集『生活の激流』をホーチミン市文芸出版社と合同で出版しているが、《解放日報》の文友達が「倶楽部」として組織されたのは全くはじめてのことである。また1988年には今も《解放日報》の文芸部の中心である陸進義(筆名、旭茹)が堤岸文芸叢書の一冊として『梅花女』(ホーチミン市文芸出版社、解放日報合同出版)を出版している。10万字を越えるこの作品は越華文学にあっては立派な長編小説で、現時点までの一つの到達点と評価される。更に1989年には華人によるはじめての華語文芸誌「堤岸文芸」が解放日報文友聯誼会編、ホーチミン市文芸出版社と解放日報編集部の合同出版で、華文特刊として5000部発行された。しかし東欧激変のあおりを受け思想的引締めが強化されるにおよび、ベトナム文芸界の状況*10とパラレルに越華文壇の活動も失速して行く。
現在《解放日報》を中心とする南部華語華人文芸界は非常に慎重な行動を要請されているものと思われる。しかし、22才の女性詩人、雪萍の香港への投稿など明るい話題もないことはない。
このような若手台頭の兆しを生み出したのが当地における華語教育の現状である。ドイモイ以前、週5時限を上限とした少数民族の民族言語教育としての華語教育は、1987年以降3倍増の15時限が許された。初等教育を担うのは各小学校に併設された「普及センター」である。ホーチミン市には第五郡を中心に17箇所にセンターが設置されており、小学5年間の華語教育を行っている。教科書は市教育庁によって認定された全6冊の実験教材で、識字を中心とした教育が行われ、小学5年修了時には華語で手紙が書けるようになるという。
しかしここにおいても人材不足は深刻で、教員の養成、教育が解放日報社の向かい、市第五郡のHAI THUONG Lan Ongの市華文教育補助会で行われている。補助会の華語教師のための講座は木曜日と日曜日の午前中に開かれている。同じ日に同じ場所で市華文教師倶楽部の活動も行われる。双方とも市教育庁の直属で、華人工作処の関連団体である。これら華人の文化団体で指導的役割を果たしているのが60年代に北京師範大学に留学した10人の華人たちで、今回の調査だけでも新聞社、華人団体などで3人の元留学生に行きあうことができた。
さて、市華文教育補助会の役割であるが、その会章*11によると華語教育のための経済的援助、設備拡充を計画し、各方面に働きかけたり、会議を開いたりする権限が認められている。各学校には後援者の理事会もあるが、やはり組織として一本化しておく必要があるのだろう。
現役の華語教員である補助会の面々によると、現地の華語教育のうちで最も困難なのは共通漢語の聞き取り、発音であると言う。これは、当地の華人家庭ではまだまだ広東語を中心とした方言が使われているせいで、小学4年からのピンイン(表音ローマ字)の使用による効果が期待されている。一方、中国人の中国人たる由縁と定義されることもある、漢字の識字であるが、75年以降、学生の困難を鑑みての繁体字から簡体字への切り替えという英断が効を奏し、まずまずの成果をあげているようだ。1991年からは小学校卒業時の華語初級卒業試験も実施され、全学生1505人中、受験者1484人、合格者1289人という好結果が出ている。現在、中学卒業試験も準備中であると言う。
ベトナムと中国の愛憎が絡み合った千年来の歴史的関係の中で、中国人移民であるベトナム華人を客観的に把握することは非常にむずかしい。しかし、彼らが華僑でなく中国系ベトナム人であろうとするならば、同化を強制する以外の共生の道を取って行くことは必ずしも不可能でない段階に達したのではないだろうか。今後も華語華人の文化状況をそのマーカーとしてフォローして行きたい。
注
*1 例えばアジア華人作家会議に参加する越棉寮(ベトナム・ラオス・カンボジア)海外分会会長がアメリカ、副会長が台湾在住である。
*2 主なデータは1992年3月の現地(ホーチミン市)調査をもとにした。
*3 特に漢字由来の固有名詞が多い。例:ホーチミン(胡志明)
>*4 国語。フランス植民地時代以降普及したラテン化文字。
*5 1938年〜1975年
*6 1955年〜1975年
*7 1961年〜1975年
*8 阮庭草「越南南方華文文学的旧貌新顔」香港文学84 pp. 4〜10 1991
*9 加藤栄「ベトナムの文学が変りつつある」海燕1992-1
*10 文芸界におけるドイモイの中心だった《文芸》誌編集長の解任など。
*11 1989年11月3日発布