東南アジア地域研究者フォーラム
1992
※この文集は私家版で参加者に配布されたものです。執筆者でデータ掲載または送付を希望される方は舛谷 (masutani@rikkyo.ac.jp) 宛お知らせ下さい。
- 旅行日程
- ラオス印象記 後藤 乾一
- 十五年目の感傷旅行 伝井 かほる
- ラオス旅行の感想 桑原 健一郎
- 王様のいない宮殿 瀬谷 真樹子
- ラオスで出会った人々 昼間 紀子
- 陽はメコンに沈む 田中 洋一
- メコンを渡る 清末 愛砂
- タイ人から見たラオス 宮島 美花
- 失われた華人を求めて 舛谷 鋭
- ラオスのスタイルとは? 青木 秀生
- ラオスと私 山田 均
- ラオス紀行・人間グラフィティ 松尾 潤一
- ラオスにて 菊池 陽子(個人)
- ラオスの織物 北詰 秋乃(現地)
1991年 ラオス旅行日程
3月16日(土) 東京発、バンコック着(バンコック泊)
3月17日(日) バンコック発、鉄路ノーンカーイへ(車中泊)
3月18日(月) ヴィエンチャン着(ヴィエンチャン泊)
3月19日(火) ヴィエンチャン発、ルアンプラバーン着(ルアンプラバーン泊)
3月20日(水) (ルアンプラバーン泊)
3月21日(木) ルアンプラバーン発、ヴィエンチャン着(ヴィエンチャン泊)
3月22日(金) ヴィエンチャン発、ノーンカイ経由ウドーン着(ウドーン泊)
3月23日(土) ウドーン発、鉄路バンコックへ(バンコック泊)
3月24日(日) バンコック発、帰国
失われた華人を求めて
舛谷 鋭
どこかへ出かけるたびに、ついチャイナタウンをさがしてしまうのは私の悪いクセである。今回のラオス旅行にあってもそれは例外でない。
日本からラオスへはタイ経由で行く。先乗りしていた何人かの参加者の内の一人である私はバンコックのチャイナタウン、ヤワラーの端にある世界日報を訪ねた。「世界日報」というのは日本と韓国ではあの世界日報だが、華人世界のあちこちにある世界日報はそれとは無関係である。その社の文芸副刊主篇、すなわち文芸部の責任者である饒さんは、数万人いたラオスの華人だが75年に皆逃げてしまったろうと言う。タイの華字紙は華語版下の作製のため、あちこちの華人を雇っているが、特に世界日報はミャンマー華人の若手記者や北京外国語学院の卒業生、もちろん旅台(台湾留学生)もいてごちゃごちゃしている。そういうメディアの内部の人が知らないとは先が思いやられる。
饒さんの見方は、実は東南アジア華人社会の公式見解であって、例えば1990年6月にバンコックで開かれた第4回アジア華語作家会議にはASEAN諸国の参加者に混じって越棉寮(ベトナム、カンボジア、ラオス)海外分会から6名が出席しているが、5名が台北、1名がサンフランシスコ在住である。ラオスには華人がいないのであろうか?
ノーンカイから渡しでメコン対岸のラオス入国。碼頭の脇のペプシの看板がゲートウェイ。税関をくぐってラオ・ツーリズムの出迎えを受け、マイクロバスで市内へ。道中漢字の看板を捜す。中国人とは何かという問題に「漢字を識っている人、または識ろうとしている人」と橋本萬太郎が明快に答えているように、北京語でなく漢字が華人のリンガ・フランカである。
漢字と言えば、ラオスは漢語では寮国で、首都ヴィエンチャンは永珍か万象。華字紙を読むとき厄介なのがこの地名人名で、すべて漢字を当ててあって、現地語に忠実だったりなかったり、広東語で音訳してあったり福建語で音訳してあったり、実に手間取る。
漢字の看板から華人を捜し、彼等の読んでいる華字紙を見つけ、その新聞社に行って華語教育や華語文芸についての手がかりをつかむ。短い団体旅行の中で、そんな事ができればと考えていた。
二次大戦後に始まったラオス独自のメディアの中に寮華日報(1959)万衆報(1960)虎報(1960)寮華新聞日報(1965〜?)永珍日報(1967〜?)寮声日報(1971〜1975)等の華字紙が記録されている。解放以降も老華日報というのがあったはずだ。
ラオス国内4泊5日の中で、薬屋、写真屋、旅館、食堂で中国系の人を見かけた。他にも食料品店を営んでいたそうだが、どうも私が捜している「筋」の人でない。
趣味的なホテル巡りの途中、外壁に「中華料理」と書いてあるゲストハウスを見つけた。(因みにヴィエンチャンの「ゲストハウス」とは、バンコックと違って普通の外国人が長期滞在するにも快適な、安くて清潔なホテルを含む)すわチャイニーズネスと小踊りしたが、コックは留守で会えず、フランス人が洋館で中華料理を食べながらくつろいでいるのを眺めていた。
着いた日の夕方、お茶を飲もうとランサーンホテルで待ち合せしていたので、リバービューホテルのしなしな歩くメイドさんに自転車を借りて、二人乗りでホテルに向ったが、川沿いの道を行っても行っても着かない感じ。サバイバルキットの市街図とラオ・ツーリズムで求めた地図で、位置関係は頭に入っているし、磁石を見ても方角は間違っていないはずだが、何せ距離感がつかめない。メコンの土手沿いにスクーターにまたがってだべっている女学生に道を尋く。付け焼き刃のタイ語でしどろもどろ聞くのだが「…はどこですか」の「…」の部分が通じない。色んな言い方をするのだがわからない。ランサーンホテルは日本で言えば帝国ホテル、中国で北京飯店、タイでオリエンタルのはずだが、地元では有名でないのか?仕舞いに先方が英語で“Do you speak Chinese?”何だ、だったら初めから言ってくれればいいのに。
ラオスの華人は9割方潮州人のはずだが、彼女は広州生まれで1980年にこちらに来たとのこと。連れも皆華人で、ホテルまで送ってくれると言う。ここでは中高校生が足代わりにスクーターに乗るようで、5人して自転車を先導してくれた。ホテルの門のところで一人が、大丈夫なの、ここでいいじゃないと後込みしたが、私と話していたリーダー格は平気平気と入ってしまった。一人を残してホテルの門を通って玄関をくぐる。両側にはもちろん門番がいてこっちを見ている。私はわざと彼女等に大声で話しかけながら、門番の態度に注意しつつホテルに入った。ロビーには皆来ていて、そこで彼女たちに日本人を紹介して、礼を言い、すぐに踵を返して外まで送った。
翌日ルアンプラバーンに行ってからも若い華人たちのことが気になった。ヴィエンチャンに戻ったらまた会って、今度はもう少し話を聞こう。噴水広場が銀座なら、メコン土手は原宿だろうから、そこに行けばまた会えるだろう。
翌々日ヴィエンチャンに戻った日には行けず、次の日、ラオスでの最終日、また自転車でメコン沿いを走った。出店もあり、涼んでいる人もいた。走っても走っても学生たちは見つからなかった。午前中では当り前か。
あきらめてホテルに戻り、荷物をまとめてマイクロバスに乗り込んだ。碼頭までの道々、ラオ・ツーリズムのガイドのスアンさんが言ったように、ラオスはいきなり外のものが持ち込まれることを拒んでいる。そういう国で相手に合わせてしまって、色々探りを入れる、という気にもならなかった。珍しくも静かな旅であった。(東洋大学)