華文文学の最近のブログ記事

日本華僑華人学会 2009年度大会(2009.11.14-15)大阪大学中之島センター

 

9:30-9:45 趣旨説明―華文文学の社会、歴史、文学  舛谷 鋭(立教大学)

9:45-10:05 マレーシアの村上春樹  葉 蕙(筑波大学大学院)

10:05-10:25 帰国した馬華作家  原 不二夫(南山大学)

10:25-10:45 「史料」としての「日華文学」  廖 赤陽(武蔵野美術大学)

10:45-11:05 政治の中の台湾文学―李喬と陳映真をめぐる研討会  山田 敬三(神戸大学)

11:05-12:00 質疑、討論

舛谷 鋭(立教大学)

 

 中国、台湾の両岸および香港・マカオ以外の中国語文学である華文文学の研究は、日本においては1970年代から「左翼文学」として、シンガポール人研究者方修の文学史を拠り所に始められた。しかし方修は「革命文芸のマラヤ化」を示したかったわけでなく、自分と同じ潮州人作家の作品収集から出発しており、結果的に社会主義リアリズムの影響を受けた作品が集められていたに過ぎなかった。生田滋は1977年の『馬華新文学史稿』初版の英訳本(NOTES ON THE HISTORY OF MALAYAN CHINESE NEW LITERATURE 1920-1942)の中で地図上に掲載作家の出身地をプロットし、このことを実証している。

 華文文学の中でも蓄積の厚いマラヤ中国語文学(馬華文学)は、このように華人社会の「史料」として活用されてきた。会館から資金を、民族語教育から読者を、華字紙から発表場所をという具合に、華僑三宝いずれとも関わりの深い華文文学は、確かに華人社会の時代毎の問題意識や、生の声を知るための重要な情報を含んでいた。

 その後、研究傾向は作家個人へと踏み込んでいくが、華文文学は自費や助成金出版がほとんどで、華人社会の著述と出版についての価値感に支えられた様は一世一冊のタイの葬式本さながらで、これらを私小説として読むことも可能である。こうした作家のライフ・ヒストリー分析は、ミクロなレベルで華僑史を補強するものと位置付けられよう。

 その後ようやく、作品についての研究に至るが、本国以外の研究者は中国大陸を含め、相変わらず方修らの資料頼りで、明らかに作品テクストを読まずに書いているケースも見受けられる。数少ない本格的研究者(山東大の黄万華、中山大の朱崇科、後述の旅台馬華作家ら)からは、リアリズムの「誤読」など、個々人の資質について手厳しい評価を受けるが、前述のように日本的「私小説」という捉え方で文学作品としての評価が可能ではないかと発表者は考えている。

 中国大陸では文革後に台湾・香港文学研究から始められた海外華文文学研究だが、その後「世界華文文学」として、比較文学とセットで公式の研究領域の一つとなる。シンガポール・南洋大学の閉鎖(1980年)もあり、居住地域の高等教育から閉め出された華語系華人は台湾に向かい、「旅台」作家として台湾の大学に職を得て、研究執筆を続ける。彼ら(曁南国際大の黄錦樹、元智大の鍾怡雯、国立中山大の張錦忠、台北大の陳大為ら)の作品は台湾原住民文学とはまた違った意味で「エキゾチック」な台湾文学の一部として、王徳威(台湾大)らの評価を受け、ジャンルとして確定する。マレーシア在住の李天葆や黎紫書の台湾での出版や文学賞受賞など、90年代以降の馬華文学は、台湾での評価が一つの指標となっていることは否めない。旅台文学は確かに、華文文学が元々持ち合わせているポストコロニアリティーを有効に活かした作品群と言える。

 こうして、華文文学は華人社会、歴史を知るための「史料」から、文学研究の対象へと移行してきた。本分科会は、日本において数少ない、華文文学を自分のことばで語れる研究者が結集し、現段階での水準を示す最初の試みである。

葉 蕙(筑波大学大学院)

 

マレーシアにおける村上春樹受容の特色

 マレーシアにおける村上春樹の受容は、台湾・香港の村上現象を受けた、中国語圏社会から伝わってきたサブカルチャーの一種である。いわゆる日現象」は村上現象より先に生じていた。

 マレーシアでは華字紙学芸欄と文芸誌が文学作品にとって主要なメディアであり、加えて、インターネットブログによる「繰言」式のコメントも作品の報道と宣伝に拍車をかけた。こうした状況の下、すでにマレーシアには「村上チルドレン」が生まれている。

 マレーシアは複合民族・多言語国家であり、1980年代の「東方政策」下で若者たちは日本のポップカルチャーに関心を持ち始めた。1990年代には、「村上春樹現象」が台湾、香港からマレーシアへ、その後上海、北京、シンガポールへも伝播した。本稿ではマレーシアの中国語圏における日本文化受容の流れ、村上春樹文学の紹介・受容とマレーシアの華人文学(以降、馬華文学)への影響について論じる。

 

マレーシアにおける日本文化受容

 1980年代に日本ポップカルチャーの受容や「日現象」が起こった。元々マレーシア国民は外来文化に対する受容性が高く、特に華人社会は中国大陸や香港、台湾の伝統文化を受け継ぎ、日本文化をも多く受容してきた。

 

インターネット普及に伴う村上文学の影響

 ブログサイト「有人部落」は馬華文学の新人作家が集まる文学サイトで、そこで会員は自分の好きな文章を発表したり、文学談義をしたりできる。こうした作家、作品の中で、すでに「有人出版社」から32点の書籍が出版された。この中から、最新詩集『猫は熱帯原始森林に住んでいる』(2009)を例として紹介する。

 

華人文学への影響

 マレーシアの読者は日本語原本でなく台湾翻訳版の「村上春樹」を読んでいる。そうした村上作品を通じ、小説の中の消費記号であるジャズやスパゲッティ、西洋近現代小説・古典文学などが受け入れられている。さらに、より実際的に影響を受けた者もおり、たとえば馬華文学の若手作家たちやジャズピアニストなどに痕跡が見られる。

 

今後の課題

 マレーシア人は一般的にほとんど本を読まず、「文化砂漠」とも言われている。そうした中でマレーシアの華人作家の任務は、言うまでもなく自分たちの創作水準をさらに高め、出版条件を強化することにある。こうした状況の下、村上文学と馬華文学との相互関連性について研究することを今後の課題としたい。

帰国した馬華作家

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原 不二夫(南山大学)

 

 マラヤ(マレーシア、シンガポール)は、東南アジア諸国の中でも華人人口の比率が最も高く、「54運動」の時代から華語文学が隆盛した。20世紀初頭の華僑社会覚醒運動をもたらしたのが孫文や汪精衛の「革命派」だったように、文学運動においても中国から渡航した文人が重要な役割を果たした。この伝統はその後も引き継がれ、1920年代後半の抗日運動開始頃から人民共和国建国頃にかけて、多数の知識人が中国からマラヤに渡って文化活動に従事した。その主目的は、文学面での指導もあったが、抗日運動や反植民地運動への華僑社会の動員、という側面の方が強かったようだ。彼らの多くは、戦後の植民地当局による弾圧(19486月に非常事態宣言)のためもあって、強制送還か自発的意思により、中国に帰った。中国では、著作活動の傍ら人民共和国や共産党の要職に就く者が多かったが、中には執筆の伝えられなくなった者もいる。

 他方、マラヤ生まれでマラヤで作家としての地位を築きながら、中国に渡って「帰僑作家」の仲間入りした人々もいる。主に反植民地運動で強制退去となった若い知識人である。

 ここでは、この両者に分けて、各作家のマラヤ、中国それぞれにおける活動を中心に見るとともに、その意味、特質などについて検討したい。

開戦前夜のマラヤの華僑文化界に大きな影響を与えた人物には、他にも郁達夫など著名作家がいるが、ここでは中国帰国者に限る。また、主要作品名はそれぞれ12記したけれども、今回はその内容には立ち入らない。

 

1.      中国からマラヤに渡り、帰国した作家

 抗日運動の時代。渡来時、ほとんどが20代以上。マラヤでは抗日・反植民地活動。

滞在、最長は17年。帰国は強制送還(なかには地下の陸路逃亡者も)。

ほとんどが中共、民盟、致公党員。マ共との二重党員も。マ共と中共の党籍問題。

中国政府、党、文化団体における役職。文化大革命。

例外的な帰僑作家・周容。

2.      マラヤ生れの「帰僑」作家

 中国留学。多くがマ共党員、抗日・反植民地活動、40年代に強制退去。

中国では中央政府の役職なし。中共党員も少数。

マ共関係者の蕭村への高い評価。

廖 赤陽(武蔵野美術大学)

 

 本発表では、はじめに「日華文学」とは何かを定義し、これまでの作家と作品について、概要を紹介する。

 「日華文学」の作品を見渡すと、三つの時期に分かれていることが判明する。第一に留学生文学時期であり、第二に本土作家時期であり、第三に新華僑文学時期である。

 「日華文学」については三つのモデルと二つの伝統によって分析できる。一つは周縁、多元、頽廃と非主流モデルであり、もう一つは伝統の移民美学と正統道徳モデルで、最後に私小説風モデルがある。また、二つの伝統とは中国の大歴史と金銭文学である。

 2008年の第139回芥川賞に、中国籍の作家として史上初の受賞者として楊逸の『時が滲む朝』(文學界6月号)が選ばれた。これまで直木賞で前例はあったが、純文学対象の芥川賞では、在日韓国朝鮮人文学はあっても、在日中国人文学はなかった。

 以上のような状況から、「日華文学」に見る史料および心性と政治について検討したい。

山田 敬三(北京大学/神戸大学)

 

 両岸の研究者が一堂に会して共通のテーマでディスカッションするようになってから、すでに30年近い歳月が経過しています。学問の世界では一見、自由は謳歌されているのですが、しかし両岸問題に限っていえば、実際には「敏感」な要因がいつもはたらいていました。台湾の統一と独立をめぐるせめぎ合いです。そのため、数年前に参加した「世界華文文学国際シンポジウム」でも私の論文は論集から除外されました。そのとき中国の関係者は、私が「敏感」な問題にふれているので、口頭での報告はよいが文集には収録できないと、わざわざ釈明してくれました。

 80年代初期に行なった台湾での学術活動でもはっきりした反応がありました。この経過については、最近も日本現代中国学会のニューズレターでふれましたからここでは繰り返しませんが、戒厳令が生きていたころの国民党政権下では、文学者は常に政治家から警戒される存在でした。今そうしたタブーが完全になくなったわけではなく、むしろ以前とは異なる形での新しい規制の始まることも予想されるのですが、両岸関係の緊張は現国民党政権の下で、少なくとも表面的には劇的に解消しています。文学の分野でもそれは統一志向の強化、独立派の低調という形態で実現していると言えるでしょう。

 最近、その象徴的な二つのシンポジウムが台湾で開かれました。一つは一昨年4月、陳水扁政権の末期に台湾師範大学と台南の長栄大学で開催された「第五届台湾文化国際学術研討会」です。「李喬的文学与文化論述」と題して、独立志向の強い作家李喬の業績が三日間にわたって論議されました。

もう一つは本年9月に台北で開催された「陳映真創作活動五〇周年記念国際研討会」です。それを形式的に主催したのは文訊雑誌社という国民党傘下の文化機構です。この雑誌社はかつて国民党本部の置かれていたビルの一室(現在は長栄発基金会ビル)に、現政権から無料で事務所を提供され、国民党の方針に沿った文化活動を行っていることで知られる出版社ですが、それがかつて陳映真を逮捕し、政治犯として7年間も投獄した国民党の政策からいえば、とうてい相容れない文学者の功績を称えるために会議を主宰したことになります。

大陸でも台湾でも、政治と文学の関係は欧米や日本での常識では考えられないほど密接不可分です。華文文学についてもそうした現実は無視できません。ここでは、そんな中で創作に取り組んできた文学者の営為について少しふれてみたいと思います。

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