野平宗弘(廈門大学外文学院)
1986 年に始まるドイモイ以降、ベトナムの作家達には一定の創作の自由が認められ、
ドイモイ文学の潮流は88-89 年に頂点を迎えた。作家ファム・ティ・ホアイPhạm Thị
Hoài(1960-)は、その後の90 年代半ば以降、現在に到るまでをポスト・ドイモイ期と
規定し、質の高い作品も現れているとはいうものの、伝説化されるような作品はないと指
摘している。
ベトナム現代文学の中で伝説化されているものの一つに、1950 年代後半の北ベトナム
で創作の自由を求め弾圧された「人文-佳品事件」が挙げられるが、その中心人物である
詩人の故チャン・ザンTrần Dần(1926-1997)らが、2007 年になって国家賞を受け、約
半世紀前の文学事件の実質的な名誉回復がなされたことが象徴しているように、過去の見
直しはやっと始まったところである。また、その受賞理由には「社会主義建設と祖国防衛
に貢献した」ことが挙げられていることから分かるように、ベトナムの現代文学は公式的
にはベトナム共産党の「大きな物語」に属していると言える。
南北分断期(1954-75)の南ベトナムに現れた詩人、思想家のファム・コン・ティエン
Phạm Công Thiện(1941-. 以下、ティエンと略称)が公に再評価されることはまだ先のこ
とだろうが、60 年代後半に「ファム・コン・ティエン現象」と呼ばれる流行現象ともな
った彼の出現の衝撃は、今でも半ば伝説的に語りつがれているだけでなく、彼からの影響
を公言する詩人や彼を乗り越えようとする詩人も現在のベトナム国内にはいる。だが、
60年代に彼が達した思想的地平まで、彼を支持する者達が到っているかは疑問も残る。
現在、亡命者の立場にありアメリカで暮らすティエンは、ベトナム語での詩作によって
「故郷」への回帰を試みている。彼にとって「故郷」を再び「見る」ことは、現実的な帰
国によって果たされるものではなく、言語的世界創造によってこそなされるものである。
彼は、主体たる人間の言語によって客体的に世界を掌握しようとする西洋形而上学に根
差した表象的思考を、ベトナムの伝統的宗教の一つである大乗仏教の「空」の思想に基づ
いて否定し尽くし「空」さえも否定することで、アリストテレス型の論理も主体も客体も
ない根拠なき「透明な源」(詩人ハン・マック・トゥーの言葉)にまで退歩しようとする。
そして、その「透明な源」の「如き」世界を、母語ベトナム語での詩作によって新たに創
造することで「故郷」を再び見ようとしている。母語の中で「もの」Cái を語ることによ
って、それを「如実」に、「実際」に、「存在」へともたらすことが、彼の「もの」語り
であり、「故郷」回帰であると言える。
ベトナムの「存在」を忘却した西洋形而上学に根本的には根差している現在のベトナム
の国家イデオロギーの「大きな物語」のみならず、私自身に対しても、日本と同じく大乗
仏教文化圏から現れたティエンの「もの」語りは、近代的思考とは別の思考、別の言語世
界の可能性を突きつけている。
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