在外で所属している南洋理工大人文社会学院中文学科の公開講演会で、「シンガポール翻訳業ー過去、現在、未来」を聴いた。主に中英翻訳を手掛ける陳丹楓(Tan Dan Feng)氏は、ここNTUの他、NUS、SIMなどの翻訳学科で講義されている40代のカナダ育ちのシンガポール人だ。今のCIMO (Chinese, Malay, India, Other)という分け方は荒すぎる、1888年18万人口のとき、タミル語の新聞だけで18紙もあった、と具体的。おわりは郭宝坤を引いて多元か一元かでまとめておられた。

林文慶の英訳『離騒』の詳細な注の話の次に、スタンフォードロードの旧MPH(現ヴァンガードビル)が出て、MPHはMethodist Publishing Houseの略(決してMusic Power Stationではない)で、元はアブドゥッラーのMission Pressがあって、日本語の新聞も出していたと言う話。マレー文学の鼻祖、『アブドゥッラー物語』(平凡社東洋文庫、中原道子訳)の著者はラッフルズの書記でマレー語教師でもあったが、宣教のため、シンガポールでの日本語出版は新聞だけではなかったようだ。

現存する日本語聖書は、16世紀の記録にある部分訳はすべて散逸しており、17世紀以降キリスト教禁止が徹底され、19世紀の『約翰福音之伝』(1837年、シンガポール出版)が最古とのことだ。陳氏は日本の博物館で見たとおっしゃっていたが、私は図書館貴重書級ではないかと思った。ブリティッシュライブラリーにはあるものの、ギュツラフ訳は国内opacでは立教の海老澤文庫も含め、20世紀以降の復刻しか見つからなかった。現存16冊のうち2冊は日本聖書協会の聖書図書館にはあるようだ。書誌は確かにシンガポール出版となっているが、翻訳補助者がまた面白かった。

マカオでドイツ人宣教師の翻訳を助けたのは、愛知県美浜町出身の日本人漂流民たちで、聖書和訳頌徳記念碑が1961年に建立され、毎年記念式典が行われているという。その中でも音吉は三浦綾子『海嶺』やその映画化などで知られるようになり、翻訳後、モリソン号事件で帰国に失敗し、上海経由、奇しくも聖書出版地のシンガポールに移住、遣欧使節団の福沢らの訪問を受けるなどし、明治維新前夜の1867年に亡くなっている。2002年にシンガポール日本人墓地に音吉顕彰碑ができ、2004年チョアチューカンキリスト教墓地で遺骨が発見され、日本人墓地の納骨堂に安置された他、故郷美浜町にも分骨されているとのこと。日本人墓地で二葉亭終焉之碑にばかり気を取られている場合ではない。