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3-2赤石川~

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*3-2
**赤石川流域地区の人たちの自然とのかかわり(P204~P213) 近藤

-昭和30年代に生業の季節的なバランスが大きく変化
-ブナ林を長期的に利用しながら保持していくことの意味
-保護における役割の再検討の必要性
-入会権は法的枠組みの中にあるものがすべてではない
-入会慣行的なあり方が近代化した組織になった時、それになじめなかった人々は切り捨てられた
-自然とのかかわり、人間の力ではどうしようもないものをどう知恵でなだめるか
-恩恵を生業として利用して生活=文化=自然との深いかかわり
-自然と人間の深いかかわりがあったからこそ白神山地が残ってきた
-赤石川流域の人達にとって「白神山地」は身近な問題ではなかった



**藤里町の人たちの自然とのかかわりと近代化施策(p213~217) 小野田

-秋田県側の藤里町にあるのは普通共用林野の設定のみ
-もともとあった、特定の集落共同体の入会慣行という意味あいが薄れ、近代的な行政単位でそれらの権利が行使される仕組みになっている。
-自然の脅威はここでも大きな問題だった
-地場産業に力を注ぎ、外部経済に完全に依存しないようなあり方を実現してきたが、今また、白神山地をうまく利用した独自の活性化を試みている。
**入山問題に対する青森県と秋田県の対応の違い
**入山問題に対する青森県と秋田県の対応の違い 菅沼
-青森県側の赤石川流域地区=伝統的
--普通共用林野を集落による共同管理を行っている
--地域の文化や共同体のなかでの人間の繋がりが森林と大きく関わっている

-秋田県側の藤里町=近代化
--普通共用林野を「町」が関わる形で行っている
--集落を中心とした狭い地域の文化や人間の繋がりが意識的に排除されている

-自然とのかかわり方、人と人とのかかわりのあり方が両県の間で基本的に違う⇒問題の捉え方も違う

**保護管理における公的(コミューナル)と公的なあり方  西川
-赤石川流域の人たちにとって白神山地の山は共的(コミューナルな)資源。
-秋田県側の人たちにとっては白神山地は公的資源。
--両県には事情の差がある
--それぞれの地域に応じた保護管理が必要である。
**登山と渓流釣りの場合(p226-228) 高野
-登山も渓流釣りも観光も、狭義の意味においては「切り身」の関係である。
-「切り身」の関係であるからこそ、ゴミなどの問題が起こってくる。そのためそれなりに制限をかけるのは当然のことである。
-根深誠は、山村文化の保存のために入山禁止が問題があることを指摘している。
**文化伝承者としての「よそ者」(p228~231) 高山
-「切り身」の関係にあるように見える、外から来た「よそ者」の自然保護や地域文化の役割は山村の人たちとの交流の中で、伝承的な過去の思いと失ったことの喪失感をつなげる。p228,229
-山村の人たちの営みには、「教義の生業」と「遊び」の二種類のリンクが不可分に結びついている。p229
-「入山問題」は地域における人間の自然とのかかわりあいの歴史的・風土的な差と現在のあり方を浮き彫りにし、多様な自然とのかかわりと人間の営みのあり方を考慮した解決が必要だと考えさせる。p230
-地域の文化の担い手を中心として、外からの「伝承者」も含め、様々な職種や立場の人たちが参加し広範な議論を積み重ね解決策を決めていくべきである。p231
**保護問題の新しい視点に向けて(231〜236)平山
-白神山地の問題が定義している自然保護に関しての三つの論点
--1)「原生自然の保護」の普遍的妥当性の問題(日本はアメリカとは違う!地域の状況を考慮にいれて、いかにして現代的な形で蘇らせるかということがポイント)
--2)自然とかかわることの意味という問題(自然から「切れている」わたしたちもなんらかの形で「つながって」いける!いかに「つないで」いくか)
--3)地域における考え方の差(ここでは、青森と秋田。富士山だったら、静岡と山梨。)
*終章
**藤嶋
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**「社会的リンク論」の先にあるもの p241~p244 堀越

-「 生身」と「切り身」の区別、その区別が重要。p241
-国際的に先住民の生活を守ること、先進国の過剰消費のあり方の批判するための理論的根拠。p242
-「切り身」的性格を自覚し克服出来るかを考えるべき p243
-「つながる」ことによって、切れていたリンクを少しでも「つないで」いくことを希求し、自然収奪的なあり方を反省していく。p243
-「最先端」ぶりの再認識と切れつつある「伝承」の確保について考えるべき p244
**「生活環境主義」と「社会的リンク論」 鈴木
-「生活環境主義」とは当該地域に居住している居住者の立場から生活文化論的に考えていこうという考え方(p245,5)
-生活環境主義では、人と人とのかかわりを、静的にとらえていく理論としては有効であるが、今後の未来を展望するための動的理論として必ずしも何らかの指針を提示できる理論になっていない。(p245,10)
-一方、社会的リンク論では、静的理論と動的理論を構造的にとらえ、生活環境主義の問題を克服しようとしている。

**「よそ者」の意味―動的な理論へ 堀田
-「よそ者」たちが白神山地の保護において中心的な役割をしていて、「よそ者」たちが、根深のように今なお残っている山村文化の発掘と紹介をし、それを自然保護運動と結びつけている。
-「生身―切り身論」は、「切り身」化した人たちがどのように「生身」化できるか、つまり「つながって」いけるかという、課題解決のための理論的枠組みである。
-「生身―切り身論」は静的に捉えるのではなく、もっと動的な視点から捉えるべきである。
**長島
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