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14/01/20/3

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*サブゼミ報告
**ICT
**町づくり
**メディツー
**日アジ
**グロスタ
**ホームステイ
**トラライ

*授業内容

講読本発表

眞鍋さん

『エキゾチック・パリ案内』四章 アジアから遠く離れて―アジア人街・インド人街

作品概要
 エッフェル塔や凱旋門、シャンゼリゼ通りのように‘華やかな世界都市パリ’を象徴する観光名所ではなく、混沌とした庶民の日常そして日々更新されていくパリを形成しているとも言える移民街を紹介した作品である。ユダヤ、アラブ、アフリカ、アジア、インドの5つの移民街を挙げ、パリに暮らす様々な移民たちの知られざる世界を、筆者独自の視点を交えながら紹介している。
 四章、アジア人街についての項では、始めに旧フランス領インドシナのカンボジアから移民してきた中華系移民について紹介し、複雑な経緯を経てパリで暮らすアジア人が多いことを示している。またヨーロッパ最大規模と言われる13区の中国人街は、中国人移民の歴史と、パリ13区の編入と開発の歴史、この両者の流れが一致したことから発生したと解説し、様々な経緯を経てやってきた中華系移民のうねりが集結した魅力ある街と記している。さらにおすすめの料理屋や雑貨屋の紹介や、その土地が舞台であるなど関連のある映画作品を複数取り上げながらその地区について分かりやすく解説している。また、『パリ、ジュテーム』の「ショワジー門」と、『オーギュスタン、恋々風塵』の映画二作品を挙げ、聖地巡礼的に13区nアジア人街を紹介している。

調査内容
・中華移民系の歴史
  中国人移民にはモノと金の動きを掌る商売人として、また戦火を逃れるために生きる覚悟をもった難民として母国を出た人たちが多いことが分かる。また、清朝政権の時代すでに海外に定住する中国人は1000万人を超えていたことから、中国人移民が定住先でコミュニティを成し定着してきた所以を次のように考える。第一に元来商売やお金のやりくりに長け熱心に働くことを厭わない性格といった中国人の気質の点と、第二に大規模な移民の量こそ中国人移民が移民先で定着してきた要因なのだと考えられる。

・パリの移民街
 パリとその郊外地区はフランスにおける重工業や繊維産業の中心地で第二次世界大戦後の経済発展の過程で単純労働者を吸収してきたためである。   
次に制度的な面からみて、フランスではフランス人国籍を人種や民族に関係なくフランスで生まれたら取得できることからも、フランスでは労働移民として渡り、その次の世代には国籍を得ることができるため、権利を得ることができ定住しやすいのだと考えられる。また首都圏に多く移民が集まるのも、安価な労働力を必要とする産業が集積し雇用が存在するためであることが分かった。

・パリ13区におけるアジア人街の位置づけ
 最新のメトロ駅に囲まれた立地、物価の安さ+治安も良いことから、かつての再開発時から現在では13区の再・再開発がすすんでおり、パリの大事な要素となっている


太田さん

渡り先の大地

作品概要
 カナダのトロントに住んでいた筆者は日本への一時帰国からカナダへ戻るために電車で関西国際空港へ向かっていた。その移動中、日系二世の山根斉雄という男性が途中停車駅でその電車に乗り込み、筆者の隣の席にたまたま座った。これがきっかけで筆者は山根斉雄と出会い、彼のアメリカにいた頃の日系アメリカ人としての体験談を聞いた。彼はカリフォルニアで生まれ、ずっとアメリカ人としてアメリカで教育を受けてきた。しかし第二次世界大戦が勃発すると、日系アメリカ人たちはそれまでアメリカ人と同じように暮らしてきて、自分たちをアメリカ人だと思って生きてきたにも関わらず、強制的に収容施設に入れられた。山根斉雄もそのうちの一人であり、第二次世界大戦中はツールレイク強制収容所という収容施設の中での生活を余儀なくされていた。そのような過去を持つ彼の体験談を聞いた筆者はその後、この時彼が話した強制収容所での生活や日系アメリカ人に対するアメリカ政府の対応などについての重みのある歴史的証言を、エッセイとして『春になったら苺を摘みに』という著書の「それぞれの戦争」という章に記した。そして筆者と山根斉雄の出会いから九年後、この『春になったら苺を摘みに』という作品を読んだ川手晴雄という男性が筆者に手紙を出した。川手晴雄の父である正夫という人物も山根斉雄と同じツールレイク強制収容所で戦中を過ごしていて、彼は彼の知っている日本の社会的なことには無関心の好々爺のような父とは全く違う、自らの理想に生きる当時の「若き日の父」についての情報を集めていたために、川手晴雄は筆者に手紙をよこし情報を求めたのだ。筆者はこの手紙をきっかけに、川手正夫の当時の日記を読み、当時のことをより詳しく知った。自分自身のアメリカ人としてのアイデンティティを守ろうと必死に生きていた日系アメリカ人たちの生き様を知った筆者は、彼らの「移民」としての渡りの様子と、その頃取材中であったオオワシの渡りの様子を重ね合わせる。