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13/05/13/3

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*復習

**文学史の読みかえ
-江戸後期、1980年代以降:言葉の形式、記号が大事
-1890年代:意味が大事、言葉はどうでもいい

**ロゴス中心主義
-二項対立の左側を重視し、右側を貶める

      話し言葉 vs 書き言葉
         意味 vs 形式
           魂 vs 肉体
         思惟 vs 知覚
  精神(真理) vs 物質

**ロゴス中心主義の主張
-書き言葉は書き手が不在でも機能する為、誰が発言しているのか確認できず(発言に責任を持つ者が不明確)、その内容が保証されない。
-話し言葉では書き手の存在が不可欠なので、発言者が誰なのか読み手にもわかり(発言に責任を持つ者が明確)、その内容も保証される。

**ジャック・デリタ
-ロゴス中心主義を脱構築によって批判。
-相手の論説を丁寧に読み進めると、ある点でその主張がひっくりかえることがある。
-脱構築によって敵を自己矛盾に陥らせ、味方にすることができる。


**デリタの脱構築
-ロゴス中心主義は肉体を貶めており、話し言葉の価値を重視している。
-話し言葉(音声)の価値を保証するのは書き手の存在(肉体)が明確であるからだ、とも主張している。
-この二点には矛盾が生じている。

*講義内容

**言文一致運動
-ロゴス中心主義は近代文学を足がかりに日本に導入された。
-リアリズム小説を書くには、日本の書き言葉と話し言葉の分離の一致が必要だった。
-いま我々が使っている言葉は、もとは二葉亭四迷がリアリズム小説を書くために作り上げた言葉。
-あっという間に広まったのは何故か→透明な言葉として機能できたから。

**透明な言葉
-語り手は決して目立たず、神のような、物事を全て見通せる存在となる。
-語り手であって、書き手でない、ということが重要。

**ヨーロッパ的な主体のあり方
-私の中の他者(無意識の部分)を抑圧した私。
  (実際には、外部から受ける情報は、意識されずとも無意識として存在している。)
     考えている私=考えられている私 ←錯覚
(実際には、外部から受ける情報は、意識されずとも無意識として存在している。)
考えている私=考えられている私 ←錯覚
-透明な言葉を使うと、あたかも内面が透明であって、思考があるかのように感じる

**Nation States
-透明な言葉によって国民という主体を作り出しているのが小説である。

**デリタの主張
-自己同一性(私が完全に私と一致している)というのは、変化の可能性がないということ。
-これは、生物にとって死ぬことと同義であり、システムにとって不幸なことである。
-自己同一性に差異が含まれていることを示すことで、新しいダイナミズムを生み出したい。