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10/06/28/4

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*講読
**終わらない戦争
-1960年5月未明、自由民主党が衆議院で新日米安保条約を単独で強行採決
--日本と米国の政府が、国内外の強い反対を押し切って軍事条約を締結
---その翌日、かつての「大宮島」で一人の日本兵が「発見」された。さらに数日後にはもう一人が現れた。
--「大宮島」の日本兵は、米軍が用意した特別機に乗って、数万人のデモ隊が「日米安保反対」を叫ぶ日本に戻ってきた
-この1960年にグァムで「発見」された日本兵に関する報道は、それ以前に「投降」した日本兵の報道とは異質な、ある種の熱を帯びている
--60年の二人の場合、氏名や住所が公表され、新聞各紙では二人の顔写真や生い立ちまで詳細に紹介された
--51年に「投降」した日本兵の場合、氏名や出身地等は公表されなかった
--つまり、60年に「発見」された二人の日本兵は、本人たちの意思に関わらず「一躍グァム島のスター」として報道され、「最後の日本兵」として語られた
---→51年の時点では、戦陣訓として、生き残ったことを恥とする部分がまだ残っていたため
---まだ生々しい記憶と爪跡が残っており、また新日米安保条約をめぐる内戦に近い状態に帰国したからこそ、玉砕せずに生き延びた日本兵を「最後の日本兵」と読み替え、迎えたのかもしれない
---「われわれ」と同様に戦後を生きて欲しい
---「あの戦争」がすでに終わったことを再確認できる物語を欲したのかもしれない
**「生きていた英霊」
-1972年1月24日、横井庄一氏、当時56歳が「発見」された
--1944年7月、所属部隊の仲間数名と「大宮島」のジャングルに潜伏
--米兵と現地民兵による日本兵の掃討が激しくなると、少人数に分散
--志知氏、中畠氏と三人で20年近く、自給自足の生活
--志知氏、中畠氏と関係を拗らせ、別行動
--64年頃、二人の死亡を発見
---日本に帰還後、1997年までの25年間を生きた
---グァムで過ごした年月より日本で過ごした年月の方が短い
---横井庄一記念館
--28年間という長い年月を、全くの自給自足で生き延びた日本兵が発見され、日本とグァムの人々は衝撃を受けた
--グァムの現地新聞パシフィック・デイリーニューズ紙は、かつての敵兵である横井氏に対して同情的に、むしろ賞賛するような論調で報じた
---Pacific Daily News
---大して難しい英語ではない
---米軍基地をいつ見学できるか、なども記載
--朝日新聞では、「戦争は終わってなかった」「悲しく胸が痛む」「絶句する戦争体験者達」そして「私たちは忘れていた」という悲痛な見出しを並べ、従軍経験がある作家など7人の談話を掲載
--大岡昇平は「生きて虜囚のはずかしめを受けず―という戦陣訓がまだ生きていた」という
--遠藤周作は「戦争で一生をめちゃめちゃにされた姿を、まざまざとみる思いがする」という
--横井氏が現れた直後、多くの識者や新聞記者が語ろうと欲したのは、横井氏の特殊性や「大宮島」の個別性よりも、「あの戦争」の犠牲者としての普遍性と一般性だった
--元日本兵・横井氏は決して「われわれ」とは異質な存在ではなく、むしろ同じく「あの戦争」に苦しめられた「われわれ」の一員であり、その象徴的存在である、と語られた
--帰国後の横井氏には、しばらくの間、「生きていた英霊」としての役割が期待されていた
--「それにしても横井さんの言行が日本人に与えた衝撃は、その波紋をますます広げていくようだ。忘れかけていたこの28年が、私たちの中に噴きあげてくる」
**消費される「異人」
-72年の人々は、60年の日本兵と同様に、横井氏にも「われわれ」の時代への社会復帰を期待したのだろうか
--「最後の日本兵」とは別の、「ヨコイさん」としての役割を求め、「私たちの中の横井さん」はすぐに消えていった
--帰国直後に彼が発した「恥ずかしながら生きながらえて帰ってまいりました」の言葉を代表として、横井氏の発言はメディアによって繰り返し報道されることで、元の文脈性から切り取られて"消費"されていった
--奇妙な言行で知られるキャラクターとして扱われるようになった
--帰国直後の言葉「恥ずかしながら」はこの年の流行語になった
--「ヨコイさん」としての横井氏には、現代社会にいち早く復帰することよりも、そのまま「異人」であり続けることが期待された
--1972年の日本社会が横井庄一氏に期待したのは、「あの戦争」の記憶を思い返すための象徴でもなく、まして知られざる「大宮島」の事実を証言する元日本兵としての役割でもなかった。横井氏は奇妙な言動で有名な「ヨコイさん」となることを期待され、異人として消費されていった。
**メディア・イベントとしての「新婚旅行」
-同年10月、結婚相手が決定
--新聞や週刊誌は元日本兵の「変貌ぶり」を演出した
--たった半年前に28年前もの長い戦争から生還した元日本兵を気遣う筆致は、微塵も感じられない
-翌73年3月3日、「ヨコイさん」は「新婚旅行」へ出発した
--行き先はグァム
--なぜわざわざグァムへ新婚旅行に向かったのか
--空港で地元の少女からハイビスカスの首飾りとキスの歓迎を受け、ホテルでは様々な歓迎行事が催され、翌日にはグァム島を案内され、米軍基地の司令官や知事が臨席するパーティーに招待され、また地元テレビのトークショーにも出演するなど、横井夫妻の新婚旅行には、文字通り軍官民のトップから一般人まで総動員された。
--毎日新聞は「新婚旅行じゃありません。お礼旅行です。世話になった人にご挨拶をしたい」という横井氏本人のコメントも紹介しているが、横井夫妻のグァム訪問を新婚旅行として扱った
--こうした扱いの変化について、パシフィック・デイリー・ニューズ紙は、「日に日に横井氏は人々の忘却と不興への坂道を転げ落ちている」と手厳しい論評を載せた
--その論調は横井夫妻に同情的である一方、彼らの訪問を準備した日本のメディアに対しては厳しい
--横井夫妻の新婚旅行は、日本人観光者の増加を期待した観光関係者たちによる、グァム観光キャンペーンだった
--横井夫妻は準備されたスケジュールを精力的にこなし、マス・メディアを意識した新婚旅行をしっかりと実行した
**「新婚旅行」と「慰霊」の裂け目
-「ヨコイさん」の新婚旅行を伝える日本のメディア言説には、ところどころ裂け目が走っている
--横井夫妻の新婚旅行の目玉は、旧日本兵として潜伏していたジャングルのほら穴を、「新婚旅行客」として再訪するイベントにあった
--一年ぶりにほら穴を見た横井氏は「ポーズの注文を付けるカメラマンに「わしゃあ芝居しにきたんじゃあない」」と不機嫌に答えた
--これ以前にも、準備されたスケジュールの南太平洋戦没者慰霊公苑への訪問が入っていないことを見つけた時、期待された「ヨコイさん」としての役割を横井氏が逸脱した
--慰霊公苑の訪問が当初に準備されたスケジュールに入っていなかった理由として、横井夫妻のグァム訪問がメディア・イベントとしての「新婚旅行」であり、日系企業と米系企業が協力して提供した観光キャンペーンとして企画されていたことが大きい。もう一方で、慰霊公苑が建てられるまでの屈折した経緯も作用している。
--結果として横井氏の慰霊公苑への訪問は実現されたが、ここから73年のグァムにおける「新婚旅行」と「慰霊」の間には大きな溝が横たわり、両者を繋ぐ回路は存在しなかったことが見えてくる
-そうした疑問を解く鍵として、「ことしは史上最高120万組の新婚ラッシュ。このうち7万組が海外へ新婚旅行する」という日本交通公社の予測にあり、「海外ハネムーンは、47年の実績がグァム2万7千組、ハワイ1万5千組…で前年より約8割ふえた」という
--日本人の海外旅行先ではグァムが一番人気であり、二位のハワイの約二倍のカップルを受け入れていた
--少なくとも横井夫妻の「新婚旅行」以前に、グァムはすでに日本人の海外新婚旅行のメッカとして人気を集めていた
--「大宮島」が、70年代には海外新婚旅行のメッカとして人気を博していた―どうしてグァムではこんなことが可能だったのか
--いったい誰が「大宮島」を埋め立て、海外新婚旅行のメッカを作り出したのか
--1960年の「最後の日本兵」をめぐるメディア言説では、「あの戦争」は忘れられていなかったが、1972年の「ヨコイさん」までの約10年の間に、「あの戦争」はリアリティを失効した
--いったい1960年代になにがあったのか
**「大過なき」支配関係
-戦後の米領グァムは、1960年代の中頃まで、外国人はもちろん、米国人でさえ入島が厳しく制限されていた「立入禁止」の孤島だった
-マリアナ諸島の最南端に位置するグァムだけが米国領土
-グァムは1521年にマゼランが「発見」し、1668年に「正式」にスペインの植民地とされた。三世紀にわたってスペインに支配された後、1898年のアメリカ・スペイン戦争(米西戦争)の末に、グァムはスペインから米国へ「譲渡」された。それから日本軍が1944年に占領するまでの46年間、グァムは米国の領土として統治された。19世紀末の米西戦争の発端は、キューバの独立をめぐって旧大陸と新大陸の二大国が衝突したことにある。当時、植民地キューバで宗主国スペインに対する独立運動が激化し、同じように旧大陸の植民地だった歴史を持つ米国はキューバの独立を「支援」した。これに対してスペインが米国の軍艦「メイン」を中米のカリブ海で沈め、米西両国は全面戦争に突入した。このため米西戦争は、「植民地主義(スペイン)の圧制に対する近代民主主義(米国)の戦い」という解釈もできようが、しかしその実態は、世界中に植民地を持つスペイン王国の弱体化に乗じて新興の米国が帝国主義的拡大を狙って起こした、二大国の利権闘争に他ならない。
-米国がグァムへ派兵したのは、スペインの植民地を解放するためではなく、アメリカ大陸からフィリピンへ向かう長い太平洋横断航路の中継港を確保するためだった。中米で起こった米西戦争の結果、スペインはグァムとフィリピンを米国へ「譲渡」し、米国はそれぞれを植民地化した。他方、グァムを米国に獲られたスペインは、同じ1898年にグァムより北に連なるマリアナ諸島をドイツへ売却してしまった。
-こうして同じ民族のチャモロ人が住んでいたマリアナ諸島は、大国の都合で人為的にグァムとその他の島々に分割され、やがてスペイン=アメリカ文化を持つグァムと、スペイン=ドイツ=日本文化を持つサイパンなどに分かれていった。
-グァムが米国の植民地になった1898年、ハワイ諸島も米国の領土に編入された
-ハワイ諸島の地理的重要性を認識した米国は、ハワイ共和国を米領に編入して初代知事を任命した
-ハワイとは異なり、米領グァムの行政長は住民選挙によるものではなく、米国海軍大佐が総督として任命された
--初代総督はグァムの英語化を指示し、全住民に英語表記で自分の名前をサインできるよう求めた
--学校教育制度の確立よりも土地所有制度の整備を優先したため、サインさえできれば実質的に十分だった
--1917年にはグァム初の議会が招集された
--1925年にグァム住民に米国市民権を与えるよう米国連邦政府へ要求した。この市民権要求は国務省によって拒否された
--1930年には初の選挙が実施されて二院制の議会が成立し、1936年に市民権要求を決議した。連邦政府は再びこれを拒否した。
--連邦議会が、立法機能を持つグァム議会の設立を許可し、グァム住民に米国市民権を与えたのは1950年
--合衆国憲法と徴税制度が適用される米国領土でありながら、グァムは非民主的で軍事優先の植民地状態に置かれたままだった
--こうした一方的な米国支配が長く続いたにも関わらず、今も昔もグァムには親米住民が多いのは、米国の統治がスペインや日本の時代よりも比較的緩やかだったためと考えられる
--米国がグァムに求めたことは、太平洋戦争以前には中継港として、戦争以後にはアジア地域への前哨基地として「ただそこに在ること」だけだった
--ハワイのように独立を促して利権独占の構造を確立しようと画策する資本家もやってこなかった
--こうした「大過なき」支配・被支配関係が長く続き、グァム社会は米国による非民主的な統治構造と一体化していった
--そうして巨大な軍事基地が存在し、自治権が認められていなかった米領グァムは、軍事機密の保持と保安上の理由から制限されていた
**グローバリゼーションと観光
-変化の兆しは島外から
-第二次世界大戦の直後には圧倒的な経済力で世界をリードしていた米国が、1960年代に入ると国際収支の深刻な赤字に悩み始めた。その結果、国際基軸通貨としての米ドルに対する信頼が揺らいだ。米国政府はドルの国際的地位を守るため、国際収支の健全化を目指してドル防衛政策を掲げ、資本流出の規制と輸出振興を推進してドルの価値下落を食い止めようとした。
-61年に就任したケネディ大統領は、軍事費の見直しと都市開発や新規産業開発などによる国内収支の健全化を計画した
--第一に、1962年にグァムの入島制限を解除
---太平洋の米領各地で外貨獲得の手段として観光開発が注目されたこととも関係している
--第二の変化は米軍基地の機能強化
---ベトナム軍事介入に向けた兵員と戦闘物資の供給基地として、グァムは再び地図上に浮上してきた
--入島制限の解除と基地機能の強化という、米国の安全保障の観点から見れば相反する二つの政策が、三年に満たないケネディ時代にグァムでは実行された
--それは20世紀のグローバリゼーションの激流に、再びグァムが飲み込まれた歴史的転換点を示している
--このとき、米国の一州に昇格したハワイという成功例を見て、グァム住民も自ら動き出した
*プロジェクト報告
**観光まちづくり
-7/9、盆栽まつり
--松尾に北京ダックを安く食べれるお店がある
--今週木曜日に説明会
---Qさん
**日本とアジア
-屋根千
--7/28、29を予定
--ダークツーリズム
--※観光まちづくり、日本とアジア共同企画
**ホームステイ
-カンファレンスサマースクール
--インドネシア、ジャカルタ
--レクチャーを聞いて見学をする
---台湾合宿を圧縮した感じ
--昨年はテロで実施できなかった
--二、三千円の飛行機
--全体を通しておよそ$500(4万円)くらい
---宿泊代、見学代込み
--期間はフルだと8/3~/8
*その他
**観光局
-グァムでは移動方法がないので、タモン地区の安いホテルに宿泊することになりそう
--タモン地区の中では簡単に移動できる
--観光地以外はバスが全然通っていない
-バスを雇います
--ゼミ費使用
-今のところの計画
--個人旅行の場合は自分でホテルと航空を確保するのはもちろん、空港からホテルまでの足の確保が重要
--ホテルの送迎サービスを利用?
---パックツアー以外を想定していない
--タモン地区のグランドプラザホテル、ホリデイプラザホテル
---国際観光のボトム
---グァム観光局としては、保安上の質の問題から、バックパッカー用のホテルはない、としか言えない
--ウェスティンホテルは普通なら一泊4万円くらいかかるところを、5、6千円で宿泊できる!
-→ウェスティンホテル
--最終日に午前中からミーティング(懇親会)→ランチ→チェックイン
---ホテルスタッフとの懇親会→3グループくらいに分かれ、それぞれのグループに一人ずつスタッフを呼ぶ。ホテルマンは現地で日本語のできる方、が有力であるが、質問の内容によっては人選を変えてくるかも。終わったらホテル施設の案内も依頼。
---ミーティングでの質問内容は?
---→グァムにおけるリゾート開発について
---→これからの展望(ポストマスツーリズムの時代)
---→ウェスティングループ内での位置付け
-ガイドツアー
--担当[浜田][千晶]
--羽賀ケン
---雑誌の取材をよくやってる人
---ビーチリゾート以外の場所を観光したい人向けに紹介している
---このツアーの場合、ジャングルっぽいところに行ったり、日本語訳付きという選択肢もあり
--16日で
--他のガイドツアーに比べて高い
--先生を入れて16名
**富士登山
-6/29にN227にてお話を伺う
--富士山に行く人で参加できる人→5人
**国内合宿
-アメニティは期待できず
--バスタオル\80
--歯ブラシ\50
--ドライヤーは12台、早い者勝ち
-お酒持ち込みはダメ
--研修室を使わなければおk?
---10年前は部屋まで見回りに来て怒られた
-段々渓谷
-嵐山史跡博物館
-段々渓谷
-嵐山史跡博物館