プロジェクト報告
ICTプロジェクト
- 9/28(月)昼休みのミーティングには、日アジ・欠席2名を除き参加者0
- 資格取得は、ICTメンバーは原則全員参加
- 他プロジェクトの有志の参加も認める
- 参加者は同じ資格の取得に向けて励む
- ついていけないと感じた時点で脱落可
- 毎週木曜昼休みにミーティング
- 後期はe-leaningをやりつつ資格の勉強を進める
- 取得を目指す資格の候補はITパスポート、初級シスアド、マイクロソフトオフィス認定資格の三つ
観光まちづくり
- 前期と同様、毎週集まって購読をするといった活動はしない
- 企画要望、あるいは発案があれば実行に向けて活動を始める
- 川越見学の案あり
日本とアジア
- 来週はマレーシアの章を購読するので読み進めておいて下さい
- 日アジもどっか行く?
その他連絡
ゼミ長選出方法について
- まず推薦を実施し、数名を候補者として挙げる
- ゼミ長を任せても良いか、を聞き大丈夫であれば決定
- 基本的に話し合いのスタンス
購読
民主主義~グーグルが描く未来像~
- メモリアルなものに賭けられた集合的記憶が後景化し、ひとりひとりが恣意的に選択した「事実」によって構成される「現実」が迫り出している
- マスメディアの役割の失効
- マスメディアが伝える「偏向」した情報ではなく、生の事実にアクセスすることで、人びとを「現実」から遠ざけようとする力から逃れることが目指されている
- マスメディアの役割が失効することで、社会の中で問題にされるべきこと、話題になるテーマといったものも失われ、結果として、人びとが社会の出来事について判断するという前提で成り立っている、「民主主義」のあり方も、大きな機器に直面する
- その「危機」に対する対処として、インターネットを通じた民主主義の拡大という理念を中心的に扱う
ネット民主主義の理想
- インターネットという技術/メディアは、その誕生から既に「政治的」な存在だった
- インターネットの原型が、米国国防省によって開発されたからというだけではなく、巨大な影響力を行使してきたマスメディアに代わる、真に民主主義なメディアだと賞賛されているから
- インターネット礼賛論や、ビジネスとして成立するか否かといった観点にとらわれない、ネットの「可能性」に着目したサービスや事業はときに「ウェブ2.0」などと呼ばれ、新しい社会の胎動として語られる
- その代表選手である検索エンジン「グーグル」は、「世界中のあらゆる情報を集約する」ことを掲げ事業領域を拡大している
- 注目すべきは、グーグルに代表されるインターネットの理念が、かつてのネット礼賛論と異なる要素を抱えているという点
- インターネットの民主制とは、まさにネットの技術そのものが可能にする、新たな世界の仕組みのことを指していた
- 「ネティズン」とは、単なるネットのユーザーではなく、そこから生まれる新しい民主主義の担い手としての「ネット市民」のこと
- 旧来のマスメディア型情報発信が、草の根のネットワークからの情報発信に置き換わることで、自動的に民主的な社会ができあがることが、初期のインターネットの可能性として考えられていた
- グーグルがの企業理念においても、彼らが目指しているものが、ネットの草創期から存在する「オンライン民主制」であることは間違いない
- しかし、「民主主義のジレンマ」をどのように考えるかという点について、グーグルの目指す民主主義は、それ以前のものと比べて大きく異なる
- 「民主主義のジレンマ」とは、たとえ民主主義を放棄するという決定であっても、民主的に決められたことであれば、正統だとみなされざるを得ないということ
- 『ネティズン』の中では、ネティズン達は決まって親切で友好的であり、ザ・ネットは世界中の人びとにより有益な関係をもたらすようになる、とネット社会の未来を語っている
- 『ネティズン』を目にしたとき、現在の私たちはおそらく、現実味の薄い理想論だという印象を持つだろう。それは、彼らの言う「ザ・ネット」が、局所的な現象を超えて広がるのを目にすることが、ついぞなかったからであると言える。
- いま私たちの目の前に広がっているのは、無責任で暴力的な匿名の発言による、特定対象への集中攻撃ではないのか。こうした感想を持つ人にとって、「インターネットが民主的な社会を実現する」という予測は、結局はやって来なかった理想の未来だったと映じるのではないのか。
グーグルとウィキペディアの違い
- グーグルが目指しているのはこうした理想論ではなく、民主主義のジレンマを乗り越えるための技術的な試みだと思われる
- その試みとは、ネットワークを通じた「集合性」にかかわるもの
- ウェブの構造全体を分析することで、Googleは、どのサイトがそのコンテンツに興味を持つユーザーから最高の情報源として"投票"されたかを判断するため、票数の増加、ウェブの拡大につれて効率が上がる
- グーグルが目指しているネット民主主義とは、プログラムの不備をチェックする人間が増えるほど欠陥を見つけやすくなるという原則を民主制に当てはめ、それを自動的に行えるようにしたものであり、ユーザーにどのような情報を提供するかという課題も、ネットに参加する人びとが増えるほど効率的に解決できるようになると考えている
- 「ウィキペディア」は古典的なネット民主制の代表とも言える
- ウィキペディアの最大の特徴は、事典にどのような単語を登録するか、どのような内容を記述するかが利用者に委ねられており、誤った記述であっても、別の誰かが修正することで、間違いや誤解が取り除かれると見なされていること
- だが近年、ウィキペディアの知名度が上がるとともに、それを利用するユーザーが増えたことで、こうした理念は危機に瀕している
- 匿名のユーザーによって書かれた虚偽の内容が長期にわたってウィキペディアに掲載されていたことへの対策として、ウィキペディアは2005年、匿名ユーザーによる収録単語の新規登録を禁じることを発表した
- この発言は、ウィキペディアが考えていたような言論の民主制が、参加者が増加していくにつれ、無責任な利用者の方が多くなることで、結果的に損なわれてしまうような種類のものであったことを示唆している
- ウィキペディアとグーグルは、ともに「目玉の数を増やす」ことで「バグが減る」といったタイプのモデルを共有しているが、前者が匿名の多数者によって崩壊しかねないような、「人びとの知性と理性への信頼」を前提とするのに対し、後者ではそうした信頼は必ずしも期待されず、あらゆる人の、あらゆる情報を自動的に集約し、システム的に発信可能にすることで、理性と反理性、善意と悪意、シグナルとノイズの比率は問題でなくなると見なす
- だから、もしシステムがうまく機能しないとしても、それはグーグルの理念に問題があるのではなく、システムがまだ不完全だから、情報の集約が足りないからノイズが生じているだけだ、ということになる
- ウィキペディアとグーグルでは、提供しているサービスも、その目標も大きく異なっているため、両社を単純に比較して、「ウィキペディアは失敗したが、グーグルのやり方ならうまくいく」という判断はできない
- ここで注目しなければならないのは、グーグルが、ネット社会が実現する民主主義のモデルとして、集合性によって実現する民主主義、いわば「数学的民主主義」とでも言うべきモデルを提示しているということ
「EPIC」のインパクト
- 2004年、「EPIC」という一本のフラッシュムービーがネット上に公開され、大きな話題となった。
- 「EPIC」は、マスメディアとインターネットに関するSF的な未来予測を主題としていたのだが、単なるフィクションに収まらないリアリティをそこに感じ取った人びとによって。「ここで描かれている未来は、遠からぬ将来、現実のものとなるのではないか」と受け止められた
- 「EPIC2014」の中では、近未来にグーグルとアマゾンが合併し、「グーグルゾン」という巨大な情報を有した企業となる
- グーグルのもつ検索能力によって収集された情報を、アマゾンのもつ顧客の嗜好情報と組み合わせることで、ユーザー一人一人に向けてカスタマイズされたニュースを配信する
- 2014年、グーグルゾンは、あらゆるネット上の情報を組み合わせて、完全に個人向けにカスタマイズされた情報を「ニュース」として提供することのできる仕組みである「EPIC」をリリースする
- 自動生成されたニュースは、広く情報を求めている人にとっては最高のリソースとなるが、ほとんどの場合は取るに足らない情報の寄せ集めである
- こうした状況に抵抗するため、既存のマスメディアの代表として、ニューヨーク・タイムズは完全にオフライン化し、一部のエリートと高齢者向けのメディアとなる
EPICは実現可能か
- IT業界に近い人たちからは、一体どのようにしてEPICをビジネスとして成立させるのか、という反応もあった
- 公開からおよそ三年を経て、EPICの仕組みの基礎となるような技術や文化が少しすつ醸成されつつある
- 「グーグル・アラート」や「フリッカー」、「ユーチューブ」といった、人びとが自分でアップロードした情報を組み合わせ、コンテンツとして提供する仕組みは、わが国ではCGMと呼ばれている
- CGMには、ユーザーが作成したコンテンツの「組み合わせ」を、メタコンテンツとして消費するという特性があるため、現在において最もEPICに近いものだと言うことができる
著作権という根拠
- グーグルゾンが、マスメディアのニュース情報を自動収集することが、著作権侵害にあたるとして、ニューヨーク・タイムズに提訴される
- グーグルゾンが勝訴
- 普通に考えれば、この著作権訴訟で、グーグルゾンが勝利することはあり得ないのではないか
- この「著作権」を盾にしたEPIC批判は、CGMの流行する現在においてはむしろ逆に考えるべきものになっている
- CGMにおけるコンテンツの著作権はユーザーの側にある
- ニュースと言えばこれまでは、マスメディアが報道するという形で提供された情報しかなかったのが、いまやニュースはユーザーの側から生まれる可能性が出てきている
- マスメディアの側こそが、そうした「ユーザーに著作権のある情報」をどのように活用するかを巡って、重大な権利闘争の中に置かれてしまうことが考えられる
インセンティブの設計
- ユーザーがその情報をアップロードするための動機付けや、サービス側のビジネスモデルに関する問題
- 「アフィリエイト」のような、情報を提供することがユーザーにとっても利益になるような仕組みを作るために、アマゾンのような巨大コマースサイトの力が有効に働く
- 検索連動型広告:検索された用語に応じて表示される広告
- コンテンツ連動型広告:ページの情報を解析し、そこに含まれる用語から、内容的に近いと思われる広告を自動表示する仕組み
- 「アフィリエイト」とコンテンツ連動型広告が接続されれば、旧来のマスメディアを排除した形で、ユーザー、広告主、そして代理店としてのウェブサービスがネットの中に完結した、大きな商業インフラが完成する
- 現在のところ、こうしたサービスはばらばらに提供されているが、その可能性は技術的にも十分あり得るものである
- 未だにわが国においては、大手マスメディアはネットの情報との距離を測りかねている状況だろうが、そうしているうちに、マスメディアが「ネットで生成される情報源のひとつ」へと変化するか、あるいはオフラインでのみ情報を提供し、ネット上で引用されにくくするといった「退却戦」を強いられることになるかもしれない
2014から2015へ
- 「EPIC2015」というムービーも存在する
- アップルの戦略が新しいエピソードとして追加されている
- 無線を通じてインターネットに繋げることのできる「Wi-FiPod?」がリリースされ、人びとが、無線を通じて自分の近くにいる他のユーザーとコミュニケーションすることができるようになる
- EPICはこのツールに目をつけ、友人の居場所をリアルタイムに検索できるユビキタスツールを作るためにWi-FiPod?と提携
- 「πPod」と名づけられたこのツールは、EPICを単なるネット上に閉じたものではなく、現実空間に開かれたものとして機能させるためのインフラとなる
- 「EPIC2014」から「EPIC2015」へのアップデートで追加された要素は、二つの点で重要な意味をもつ
- 一点目は、「Wi-FiPod?」が、「EPIC2015」の公開された一年後にアップルによってリリースされた「iPhone」に酷似しているということ
- 私たちの社会における情報技術の驚異的なイノベーションの速度によって、創造と実現のサイクルがほとんど一致するかもしれない状況にある
- 二点目は、「2015」が「コミュニケーション」という要素に重きを置いているということ
- ネット時代において、マスメディアに変わるコンテンツ生成の仕組みが「コミュニケーション」に依存するようになる
繋がりという娯楽
- コミュニケーションがメディアにおいて、ニュースのような情報を閲覧する際にも重要になるということは、既にネット上では自明のものになりつつある
- その中心となっていたのは、2ちゃんねるの「ニュース速報板」のような、ニュースを巡ってコミュニケーションする掲示板だった
- ここでは、ニュースそのもの以上に、ニュースを巡ってユーザー同士が議論するということが、重要な意味を持っている
- 昨今では、これに加えて「ブログ」や「SNS」、「ソーシャルブックマーク」が重要な位置を占めるようになってきている
- 「EPIC2015」が描こうとしている未来は、こうした「ニュースそのものより、ニュースを巡るコミュニケーション(繋がり)の方が、消費の中心となる」といったメディアのあり方が、ユビキタスな環境として私たちの生活の基礎になっている社会
「現実の時代」のメディア像
- 「ニュースを巡る繋がり」の前景化は、ニュースが、社会における集合的記憶に基づいた連帯感を醸成するものではなく、それぞれに異なる<現実>を生きるための資源として利用されるものになることを示唆している
- ユーザー同士のコミュニケーションによって生み出されていく「事実」によって、閉じられてはいるが、広大な島宇宙として生きられるようなもの
- マスメディアの権威は否定され、ひとりひとりがジャーナリストであり、また消費者でもあるような環境が構築されている
- ここで描かれている未来はほんとうに情報社会のディストピアなのか
- そこでは特権的な情報の送り手は存在せず、すべての人が「何をニュースにするか」について選択する権利を有しており、また情報の送り手として貢献することで、対価を得ることもできるようになっている
- 「数学的民主主義」とは、こうした社会を理想的と考える立場だと見なすことができる一方で、こうした環境が、私たちの社会に壊滅的な帰結をもたらすと主張する人びとも存在する