なかなか進んでいないので全員で一度集まってUbuntu receipeを進める
P111~P118
記憶研究の中で注目されているテーマに「目撃証言」があり、事故の目撃証言は証拠が乏しい際に、裁判で重要となるので、その「証言」は調書によって丹念に記録される。 だがその「証言」は非常に曖昧なものであり、容易に覆されうる。 それゆえに「記憶」に頼るようなあいまいなプロセスで法的責任を確定するのではなく、 あらゆる「記録」を証拠とすべきで、「語り」ではなく、情報による決定論の呼び出しという事態が生じる。
記憶ではなく、記録の方にその根拠を担保させる動きが広まってきている。 ex)企業が社員の行動を管理するために電子メールのログを用いる・監視カメラによって治安に関する情報を記録する こうした動きは=記録の優越化=の考え方の表れであり、あいまいなものへの信頼の低下を補うため、記録のための手段が普及し、証言の代わりにデータが用いられる。 従来も記録は重要であったが、あくまでも人の解釈を確認するために用いられるものだった。 デジタルのアーカイブが増殖していく社会ではデータこそが信頼され、揺るぎない事実を構成しているとみなされる。
記憶-自己物語への信頼低下と記録の優越化という現象は人生の選択に関しても見られる。 ex)ヤングハローワークなどにおける「適職診断」 そして究極の形として、自分の行動や考えをコンピューターに逐一記録し、人生そのものを巨大なアーカイブとして保存しようとする=「ライフログ」=がある。 このログはわたしがどのような人間であったかを「記録」として呼び出すことにより自己の物語化のプロセスを媒介せずに、次の行動指針を導きだすシステムとして用いられる。 そうして蓄積された個人情報としての「バーチャルなわたし」は、ユビキタス化の中で至るところに遍在しつつあり、人生のあらゆる場面で私たちに宿命を呼びかける。 これまで述べてきたことのまとめが図3-4であり、私たちに対して客観的な事実として提示される宿命が、 それを受け容れることによって「はじめからそう決まっていたのだ、仕方のないことなのだ」との認識の下に新しい事実を構成する材料となる、というループ関係が示されている。 そこでは、わたしの意志は宿命の中に織り込まれており、それ以外の可能性はなかったとされることで「語り得ぬもの」としての欲望は、限りなく盲点化していく。
ヘリテージツーリズム、観光特論で来日中の香港中文大学の観光人類学者Sidney C.H.Cheung先生による、生活文化遺産としての漁業と観光保護(ラムサール条約)の衝突について