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文章を書く

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文章を書く作業 -付箋法または箇条書法について-

文章を書くという作業は、じっさいには、二つの段階からなりたっている。第一は、かんがえをまとめるという段階である。第二は、それをじっさいに文章にかきあらわす、という段階である。一般に、文章のかきかたというと、第二の段階の技術論をかんがえやすいが、じつは、第一の「かんがえをまとめる」ということが、ひじょうにたいせつなのである。かくべき内容がなければ、文章がかけないのは、あたりまえである。文章をかくためには、まず、かくべき内容をかためなければならないのだ。

わたし自身のことをふりかえってみても、なかなか筆がすすまないときというのは、たいていは、かんがえが十分にまとまっていないときである。かくべき内容が、しっかりとかたまっていないときである。文章をかくというのは、情報伝達行動である。伝達するにたる情報が、頭のなかにできあがっていなければ、そもそも伝達しようという情熱はわいてこないものである。

それでは、どのようにして、かんがえをまとめるか。あるいは、かくべき内容をかためるか。小説家などは、かんがえをまとめるまでもなく、つぎからつぎへとわいてくるイメージを、ずるずるたぐりだして、それを絵巻物のようにえがいてゆく、という能力を身につけている人がおおいようだが、ふつうの人間にはそういう能力はない。だいいち、ふつうの文章は、そういう方法ではかけない。文章というものは、基本的には、たぐりだすものではなくて、くみたててゆくものだとおもう。

わたしたちのなかまで、共通に確認しあったところによると、ざんねんながら、人間の頭のなかというものは、シリメツレツなものである。知識やイメージが、めちゃくちゃな断片のかたちでいっぱいつまっていて、それが意識の表面にでてくるときも、けっして論理的なかたちで整然とでてきたりはしない。それを、文章にするときに、努力して論理的なかたちにくみなおすのである。「おもいつくままに」かいていったのでは、まったく文章の体をなさないだろう。

かくべき内容のための素材を蓄積する技術については、すでにこの本のなかで、たびたびのべた。発見の手帳(「手帳」にかいたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。)もそれであるし、おりにふれてかきためたカード群(京大型カードは、B6判である。カードは、他人がよんでもわかるようにし、しっかりと、完全な文章でかくのである。カードは、メモではない。)も、すべて材料として利用できるだろう。ときには、そのカード群を適当にならべてみただけで、一つの文章の論理的なすじがきが、ほぼできあがるような場合もある。

一般には、素材をならべただけでは、とうていかんがえがまとまったということはできない。断片的な素材をつかって、まとまりのあるかんがえ、あるいは文章を構築するには、つぎのような技法が役にたつだろう。

まず、付箋(ワープロの箇条書やパワポのアウトラインでもよい。以下同じ)を用意する。その付箋に、いまの主題に関係のあることがらを、単語、句、またはみじかい文章で、一枚(または一行)に一項目ずつ、かいてゆくのである。おもいつくままに、順序かまわず、どんどんかいてゆく。すでにたくわえられているカードも、きりぬき資料も、本からの知識も、つかえそうなものはすべて一ど、この付箋にかいてみる。ひととおり、でつくしたとおもったら、その付箋を、机の上、または適当なおおきさの紙の上にならべてみる。これで、その主題について、あなたの頭のなかにある素材のすべてが、さらけだされたことになる。

つぎは、この付箋を一枚ずつみながら、それとつながりのある付箋がほかにないか、さがす。あれば、それをいっしょにならべる。このとき、けっして付箋を分類してはいけない。カードのしまいかたのところでも注意したこと(カードは分類することが重要なのではない。くりかえし_くる_ことがたいせつなのだ。いくつかをとりだして、いろいろなくみあわせをつくる。それをくりかえせば、何万枚のカードでも、死蔵されることはない。)だが、知的生産の目的は分類ではない。分類という作業には、あらかじめ設定されたワクが必要である。既存のワクに素材を分類してみたところで、なんの思想もでてこない。

分類するのではなく、論理的につながりがありそうだ、とおもわれる付箋を、まとめてゆくのである。何枚かまとまったら、論理的にすじがとおると思われる順序に、その一群の付箋を一枚の紙にたてにならべ、はりつけてみる。これで一つの思想が定着したのである。(1枚の紙におさまる数なら、はりつける付箋をずらし、階層づけをしてやってもよいだろう。)

付箋の列がいくつもできたところで、さらにそれらどうしの関係をかんがえる。そして、論理的につながっているものを、しだいにあつめてゆく。場合によれば、付箋の列を解体して、くみかえることもある。この作業をつづけているうちに、あたらしい素材をおもいついたら、どんどん付箋を追加する。

こうして、論理的にまとまりのある一群の付箋の列ができあがると、それをクリップでとめて、一枚(または一行)目の紙にみだしをかきつける。(付箋の数によっては、一枚の紙ですんでしまうこともおおいだろう。)あとは、こういうふうにしてできた付箋の列を、何枚もならべて、みだしをみながら、文章全体としての構成をかんがえるのである。ここで、いわゆる起承転結ふうにならべることもできるし、もっと破格な配列をかんがえることもできよう。文章全体のバランスも、具体的にかんがえることができる。ここまでくれば、もう、かくべき内容がかたまっただけでなく、かくべき文章の構成もほぼできあがっているのである。あとは、かさねられた付箋の列を、上から順番に、一枚ずつとりあげてみながら、その内容を文章にかきおろしてゆけばよいのである。(文章にするとき、内容をどこからとりだしたか-引用注-をしるさねばならないことをかんがえると、思考をじゃましないていどに、付箋に文献名の略称とページ数をかいておいたほうがよいかもしれない。)この作業がおわったら、付箋はもはや不要である。まるめてすてればよい。

付箋法(または箇条書法)というのは、いわば、頭のなかのうごきを、付箋のかたちで、そとにとりだしたものだということができる。それはちょうど、ソロバンのようなものである。ソロバンによる計算法は、けっきょくは暗算なのだが、頭のなかのうごきを、頭のそとでシミュレートしてみせるのが、ソロバン玉である。付箋法は思想のソロバン術で、一枚一枚の付箋は、ソロバン玉にあたる。

この方法のいいところは、創造的思考をうながすことであろう。ばらばらな素材をながめて、いろいろとくみあわせているうちに、おもいもよらぬあたらしい関係が発見されるものである。もうひとつ、文章という点からいってたいせつなことは、この方法でやれば、だれでも、いちおう論理的で、まとまった文章がかける、という点である。天成の文章家には、こんな技術はまったく不必要であろう。これは、凡人のための文章術である。しかし、文章は天才だけがかいておればいいのではない。文章をかく能力を、失文症や文書アレルギーをおこしている凡人の手にも、とりもどさなければならないのである。