外国語について→英語や日本語などの外国語教育が盛んであるが、社会主義時代に教育を受けた世代に1番通じるのはロシア語
チベット仏教
日本の仏教との違い
・インド仏教の流れを受け継ぎ、インド仏教の伝統を忠実に踏襲している。
・中国や日本に伝わってない教えが数多く存在する。最高の哲学プラサーンギカ派、最奥 義の実践修行アヌッタラヨーガタントラの両者チベット仏教最大の特色。
・仏教には、たとえば小乗、大乗、密教といった具合に、一見相互に矛盾するそれらを全 て整合性のある数理体系にまとめあげ、実践の指針を提示している。
・釈尊は弟子たちに、自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉す るように説いている。チベット仏教では、釈尊のこうした戒めを肝に銘じ、盲信や実践 至上主義を排し、明快な論理による志向を重視⇒原理主義的?
他の宗教
西部のカザフ系住民にはイスラム教浸透。
シャーマニズムを信仰する人も多い。
※シャーマニズム⇒シャーマン(巫師、祈祷師)により成立する宗教。シャーマンとはトランス状態に入って、超自然的存在と交信する人物をいう。
単位:トゥグリク(TgまたはMNTで表される)
100Tg≒1644Tg
首都では日本円からの両替も可能
地方では基本的に米ドルからの両替のみ可能。
※コインはあるがほとんど流通していない。チップの習慣はない。
スーパーなどで売っているツェヴェルオス(ミネラルウォーター)を飲む。
公衆トイレがほぼないのでホテルやレストランに寄った際に済ませる。
ウランバートルには1部無料の公衆トイレがあるが便器脇にかごがあった場合には紙は流さず捨てること。
治安は市場経済移行後急速に悪化し、ひったくりや強盗、殺人などの凶悪事件が多発。
また市場やバスの中ではスリの被害が多発している。急速な自動車の増加に整備が追い付いておらず、交通事故も増加傾向にある。
ふたが開いたままのマンホールが多いので街を歩く際、足元には注意する。
みなさん、ウランバートルでおまちしています。8月の末の時期は日本人にとっては寒いと思います。伝統的な食べ物は油がとても多くおなかを壊すかもしれません気を付けてください。機会があったらガイドしますよ。
モンゴル国の首都
人口:約120万人(モンゴル国全体の約半数)
標高:約1300m
気候:ステップ気候(1月の平均気温は世界の首都の中で一番低い)
主産業:鉱物、食肉加工、製粉、製乳
旧名:ウルガ、フレー
17世紀にハルハ族が崇拝したチベット仏教の活仏、ジェブツンダンパ・ホトクトの支配地になった。
もともとはジェブツンダンパ・ホトクトは移動生活していたがウランバートルに寺院を設け定住してから、周辺に弟子の寺院や巡礼者
が集まって門前町ができた。これによって外モンゴル唯一の都市に発展した。
清王朝の統治下にあった19世紀には漢民族の商人やロシア人が訪れるようになり、政治・経済・交通の中心となる。
その後いろいろあって・・・
1924年にモンゴル人民共和国が成立すると都市名がフレーからモンゴル語で「赤い英雄」を意味するウランバートルに変わる。
都市計画は完全なソ連式。
繁華街は存在しないが、市場経済化以降は建物の1階部分を改造して商業化している。
市場経済化以降は自動車の増加、違法建築の増加によって、かつての美しい町並みの面影はない。
1727年 雍正帝によって創建。 病気で盲目になったジェブツンバンパ8世の平癒祈願のために観世音菩薩(モンゴル語名:メグジド・ジャナライサク)像をつくった。
しかし1938年にソ連に持ち去られ、寺院は閉鎖される。
その後、スターリンの指示で僧侶1000人を「粛清」した。
1944年から復興が始まり、社会主義政権の監視の下に1990年までにほぼ復興完了。
今ではモンゴル仏教界の最高学府。
チベット・モンゴル仏教の総本山で約900人の修行僧がいる。
境内の観音堂には高さ約26.5メートルの観音像が祀られている。この像は1996年に再建されたもので、モンゴル独立の象徴となっている。
観音像の周りにマニ車がある。
血を流した柱がある。
モンゴルの初代活仏ザナバザルの作品を始め多くの絵画、仏像が展示されている。
ほかにも石器時代岩絵、壁画の模写や13~18世紀のチべッ卜仏教の美術品、20世紀早期までの伝統文化を紹介している。
1919年に造られた木組み式の宮殿。
8代ジェブツンダンパ・ホトクトのボグド・ハーンの冬の宮殿のために造られた。
現在は博物館としてボグド・ハーンの日用品や、他国から献納された剥製、チベット仏教の仏像等が展示などを中心に展示されている。
あまり古い建物のないウランバートルでは貴重な文化財といえる。
冬の宮殿のほかにも7つの夏の寺院もある。
2008年、地元旅行会社によって完成。
テレルジ村という保養リゾートにある。
台座を含めて高さ40メートル、重さ250トンのステンレススチール製。
台座部分の地下にはモンゴル帝国の歴史関連資料を展示する博物館がある。
リゾート全体はまだ未完成で2015年の完成を目指している。
チンギスハンが生きていた13世紀のモンゴル帝国をテーマにしたテーマパーク。
文化村やシャーマン村、狩猟村などに分かれていて、モンゴルのライフスタイルをそれぞれの角度から見ることができる。
ウランバートルから約100キロ。
ウランバートルから西へ230キロにある。
ウブルハンガ県のオイホン河畔に位置する都市。
旧名はハラホリン。
テュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。
近くにある「カラコルム山」から黒い石材が取れることから由来している。
チンギスハンが大西征の兵站基地を造営。
オゴダイハン(2代目ハン)が1235年に宮殿・城壁を築いてモンゴル帝国の首都に定めた。
フビライハン(5代目ハン)が首都を大都に変えるが、その後もモンゴル本土の拠点都市として重んじられる。
明の建国者、朱元璋による北伐を受け、モンゴル族が北方に追われた後は北元の首都になった。
都として重要視された理由は「オルホン峡谷」に書く。
16世紀末、チベット仏教のエルデネ・ゾー建設の資材調達のためカラコルムは荒廃した。その後、しばらく歴史上から姿を消すが、
19世紀末にロシアの研究者が遺跡を発見。
現在、日本とモンゴルの共同調査が行われている。
このあたりは温泉保養地として知られ、朝青龍の父の故郷で彼の親族が経営するリゾート施設「ドリームランド」がある。
モンゴル最初のチベット仏教寺院群。
16世紀につくられた。
そのころにはモンゴル帝国は衰退していて、モンゴルの最高権力者を意味する「ハーン」の称号を持つ者が乱立していて、かつての絶
大な権力を持たなかった。
そこでアルタン・ハーンはチベット仏教ゲルク派の高僧ソナムギャツォにダライ・ラマの称号を与え、チベット仏教とつながることで
王権を裏付けようとした。(ここからダライ・ラマ制度がはじまる)
同時にチベット仏教の復興をはかりたかったソナムギャツォもアルタン・ハーンを理想の王を意味する「金転輪聖王」と位置づけてチ
ベット仏教の権威を高めた。
そこでアルタン・ハーンと対抗していたアバダイ・ハーンがカラコルムでダライ・ラマ信仰を小さな寺ではじめた。アバダイもダラ
イ・ラマに接近し、仏像と職人たちをカラコルムに招き、かつてあった都の廃材を再利用しエルデニ・ゾー寺院となった。
108個の仏塔で囲まれた400m四方の敷地に寺院群はある。
現在は当時の壮麗な装飾を偲ばせるものはあまり残っていないが、亀石や宮殿跡などが見られる。
また、日本の援助により2010年に「ハラホリン博物館」が完成。
往時のカラコルムを再現したミニチュアなどがある。
オルホン川両岸に広がっている峡谷。 この峡谷の文化的景観は遊牧民の伝統を証明するものとして、世界遺産に登録された。
モンゴル帝国ができる前ずっと前の匈奴の時代(前5世紀ころ)からこの地は神聖視されていて(テングリ崇拝)、特にウテゥケン山
は霊力があり、その霊力が人々を治める神権をもらうことができると信じられてきた。
特に突厥の時代(6世紀ころ)になってからはその信仰が強く、オルホン渓谷(ウテゥケンの地)を支配することは突厥のどの集団に
とっても戦略的に最重要とされ、歴史上、突厥もモンゴルも拠点をこの地に置いてきた。
オルホン峡谷の主なモニュメントは以下のようなものがある。
・オルホン碑文
・カル・バルガス遺跡
・モンゴル帝国時代の遺跡
・エルデネ・ゾー寺院
・ドイト丘陵にあるモンゴル宮殿
労働力不足解消のためモンゴル国の要請でシベリア抑留日本人約12000人が1945年に2回に分けて移送され労働を課せられ、
1600人以上が死亡した。
日本人墓地はモンゴル国内に16ヶ所ある。
ダンバダルジャー日本人墓地はウランバートル市内にあり、835人の日本人の墓地がある。
慰霊参拝ができるようになったのはシベリア抑留日本人が引き上げをした1947年から15年たってから。その後、両国の赤十字社
の交渉によって1966年に慰霊団が訪問し、慰霊碑を建立。
ウランバートルの中心にある政府庁舎やスフバートル広場周辺の道路、オペラ劇場、文化宮殿、国立図書館などは労働をさせられた日
本兵が建設したもので、頑丈に立派に造られた建築物は現在も市民達に利用されている。
ジューコフとはソビエト連邦の将軍ゲオルギー・ジューコフのことで、ノモンハン事件の際にソビエト連邦・モンゴル合同軍の指揮を
執り、大日本帝国・満洲国軍と戦ったモンゴル人民共和国の英雄である。 館内には、当時の戦歴や軍服や武器などが展示されてい
る。
ジューコフは1938年モンゴル軍集団の司令官に就任、ここでノモンハン事件を戦うことになる。