立教大学観光学部 舛谷研究室 masutani lab, tourism, rikkyo

ゼミ合宿の記録

第二回ゼミ総会(2012.5)の配布資料です。当日はドレスコードアジアで、こんな感じでした。

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 舛谷ゼミ(社会学部産業関係学科1999-2005/観光学部交流文化学科 2006-)は合宿とサブゼミ(プロジェクト)と卒論でできている、と言っても過言ではない。海外合宿は大事な異文化体験の研修機会で、私からすると個々の個性をじっくり見極める好機でもあった。
 今後は2年海外合宿のみ必須とし、3、4年は年度はじめの希望によって自主的な実施を検討してもらうことにしようと思うが、「総会」の共通討議として、今後の海外合宿のあり方について、現役、OBでぜひ意見交換してほしい。
 なお、以下の記述は写真をピックアップしながら記憶で書いているので、補足訂正すべき箇所はぜひ教えてもらいたい。


産関00
● ソウル合宿(2001.12)
社会学部、特に産関ではそれまで海外ゼミ合宿実施がなく、ずいぶん心配された。その後いろいろな先生が海外合宿をはじめるきっかけとなった記念すべき初合宿である。実際には年末オフシーズンのスケルトンツアーに乗ったお手軽な渡航手配だった。しかし、現地では延世大学やソフトウエアパークなど様々な場所を訪れ、アスキー編集部から紹介された、当時ブロードバンド先進国だった韓国のIT事情を日本に伝える翻訳者、執筆者たちがついて回ってくれたぜいたくな見学だった。もちろん仁寺洞や梨泰院など定番観光地も外さなかったが、板門店は予約が取れなかった。立教相撲部がモデルの映画『シコ踏んじゃった』が韓国でもヒットしていて、ゼミ生の相撲部キャプテンがスポーツ紙に取材された。今にして思えば韓流前のソウルは静かでしたね。
● 大連合宿(2003.1)
ソフトウエアパーク日本業務部の三上さん(マルチリンガルコンピューティングつながり)を頼って、海橋ホテル泊で日本家屋の残る大連へ。大連外語との学生交流もありました。飛ぶ鳥落とす勢いの中国ソフト企業の重役プレゼンで居眠りもしました。(現新致軟件総経理でいまだに連絡有)まだ外国人立ち入りチェックの厳しかった旅順も開放地域に限って回りました。この学年は前年末のソウルといい、年初の大連といい、厳寒のオフシーズンにホテル泊合宿が続いたのは手探り期だったせいでしょうか。
●ブルネイ合宿(2004.2-3)
2003年の日本ASEAN交流年に初めて国際会議で行ったブルネイで、ブルネイ日本友好協会事務局長で、当時三菱商事の澤田さんと知り合い、日本人100名足らずのブルネイに、ほとんどいない日本人大学生を連れて行くのはインパクトがあるだろうと、トントン拍子に話が進み、4年合宿として2004年春はじめてブルネイホームステイを実施しました。ブルネイ大訪問の際は現地学生が日本人学生に群がり、異様な光景でした。現地学生グループの当時のリーダーが周到に準備してくれて、ステイ先はすべてブルネイ大生宅だったのが以後との違いです。


産関03
● 香港合宿(2004.8)
香港中文大のシドニー・チャン先生と国際交流部の旧友を頼って香港へ。大学内ゲストハウス泊で中文大キャンパスや大牌檔屋台などローカルを満喫し、後に留学する人も出ました。無人島に渡ったり、取り壊し寸前の公団住宅を見学したり、広州に渡ってキャノン現地法人も訪問しました。最後に香港島の六本木、ランカイフォンのお洒落なベトナム料理で締めたのはやり過ぎだったかな。
● マレーシア合宿(2005.9)
社会学部最終年度は研究休暇をいただきました。クアラルンプールのマラヤ大で教えながら、一家で過ごす私のところへ、合宿代わりに10名ほどが来てくれました。張り切って接待したつもりでしたが、新都心プトラジャヤでは、大使館の人の言と違って、一般には入れないお役所が多く、飛び込みでサイバージャヤのIT企業に潜り込み、ルックイースト理系留学で日本に来たことのある若い技術者と話したりしました。小泉当時首相訪馬直前で、商工会議所の方が小泉対応のパイロットとして、ダイハツ合弁の第二国産車プロドゥア工場見学させてくれたのは貴重でした。マラヤ大で日馬の教え子同士の交流はうまく行き、今でも連絡取り合っているようです。
●ブルネイ合宿(2007.3)
当時の切り札、イスラム家庭へのホームステイは4年でと考えていました。前回同様、ブルネイ日本友好協会の手配で、この年から友好協会会員の裕福なブルネイ家庭へのステイが定番になりました。今回も立教生の評判がよく、毎年実施できないか、すぐ卒業でない学年も連れてこられないかと現地の要望があり、2008年3月にゼミ合宿からスピンアウトさせて自主企画で毎年実施にし、今春で7回目を数えました。人数に余裕のあるときは他ゼミ、他学部生も受入れ、ある意味ゼミの看板プログラムです。2009年度からは新設ホームステイプロジェクトに運営を移管し、私が行かなくても実施できる体制を整えました。

観光04/05
● ソウル合宿(2006.12)
ソウル市立大学が受入れ表明してくれたので、観光学部初合宿はソウルにしました。その後市立大は社会学部と学部間協定を結びますが、学生交流は観光生が先でした。東大門にほど近い大学施設に宿泊し、社会学科ジャン先生と学生たちがつきっきりで面倒見てくれましたが、極寒の中、よく深夜まで遊んだよね。
● 内モンゴル合宿(2007.8)
内モンゴル大学日本語学科を頼り、初モンゴル合宿は中国内モンゴルでした。これを目的にゼミ移動してきた人まで居て、現地学生の日本語レベルも高く、交流はスムーズではなかったかと思います。草原で早起きして布団かぶったまま丘に登って朝日を見たのはよい思い出です。
●バリ合宿(2008.11)
慶応経済のインドネシア研究者、倉沢先生のフィールド兼村おこしベースのバリ西部プンゲラゴアン村を中心に、農村ホームステイ、ヴィラ、リゾートホテルを体験する豪華企画でした。帰国後にヴィラの改善レポートを提出してもらい、以後、バリ合宿は提案書作成が課題になっています。慶応OBの日本人が常駐しているので、私が行かなくても実施可能なコースのうちの一つです。

交流06
● 大連合宿(2007.9)
ダボス会議開催直後の大連でした。中心地徒歩圏の大連外語の宿舎に泊まり、周辺の学生街も楽しみました。ソフトウエアパーク日本業務部の三上さんは同行ゼミ生父の友人と判明し、偶然に驚きました。旅順は外国人開放間近で、危なそうなところは日本語しゃべらず黙ってやり過ごし、すべて見て回るという方針で潜入しましたが、途中でバレて罰金来そうだったので、予定を切り上げて戻りました。でも一番日本語しゃべってたのは、ガイドさんだったよね。この後大連外語と観光学部は学部間協定を結び、大連から毎年交換留学生が来ています。まだ立教側から誰も行っていないのは残念な限りです。
● ペナン合宿(2008.9)
問題解決型合宿と称し、各人テーマを持ってペナン中心部のマレー伝統邸宅を借り上げ、世界遺産登録直前のペナンを各人のテーマに沿って見て回りました。学部間協定校のマレーシア科学大にお邪魔したり、郷土史家、国会議員らを宿舎に招いて講演してもらいました。最後の一泊はインスペクションでシャングリラに泊まりましたが、早朝帰国便は少々残念でした。
● 内モンゴル合宿(2009.8)
内モンゴル大学日本語学科受入れで二回目のモンゴル合宿を行いました。草原では夜中に星空を求めて真っ暗な中彷徨いました。経済大成長の要素の一つである大規模な乳業(蒙牛)工場は、牛がターンテーブルで回るチャーリーとチョコレート工場の世界でしたね。
● バリ合宿(2010.3)
自主旅行ということでプンゲラゴアン村に行ってもらおうと思いましたが、直前に日本脳炎が流行って別の村に代わりました。この時期にしたのはバリヒンドゥー最大のお祭りニュピに合わせたからです。晦日は一切明かりを使ってはならず、空港も閉鎖されます。通常の観光ではただホテルから出られないつまらない日ですが、ホームステイにして地元のお祭りを体感してもらいました。参加者はバリファンになって帰ってきました。

交流07
● 広州合宿(2008.9)
学部間協定校の中山大観光学部に受入れをお願いしました。香港ディズニー年間パスポートを持つゼミ生の希望もあり、香港まで遠征しましたが、ランド後の香港市内観光をがんばり過ぎて、広州に帰る電車がなくなりかけ、国境のクライムシティで取り残されそうになるというピンチもありました。
● ペナン合宿(2009.8)
インドネシア学ワークショップとつなげてジャカルタ合宿を予定していましたが、直前にテロがあり中止になりました。どこにも行かないのもかわいそうと思い、急遽ペナン合宿を準備しました。早期体験でぼくがペナンに連れて行ったことのある人もいたので、はじめて農村ホームステイを組み合わせました。マレーシア科学大との合同ゼミ、文化遺産保護NGO見学もいつも通りで、シャングリラのインスペクション宿泊はゆっくり時間を取り、皆で高級スパにも行けました。
● モンゴル国合宿(2010.8)
学部間協定を結んだモンゴル国立大学とはじめての学生交流で、留学生宿舎が無償提供されました。モンゴルの学生たちも現地では珍しい日本人大学生に貼り付き、テレルジ草原まで同行してくれました。モンゴル相撲ブフでは、体育会レスリング部生がズボンを破られながら無敗で、その後リゾート内を歩いていると声を掛けられるほどでした。サッカー国際戦もよい思い出です。

交流08
● 台北合宿(2009.9)
台湾師範大学がほぼ完璧なスタディツアーを組んでくれました。午前は専門家の講義、午後は講義関連場所を専門家引率見学で、私もものすごく勉強になりました。日本人留学生を含む現地学生4名が泊まり込みでサポートしてくれ至れり尽くせりでした。
● グアム合宿(2010.9)
戦跡を求めて日本人リゾートグアムに飛びました。米軍上陸地点をフィールド中、大雨に見舞われて泥水に肩まで浸かりました。多くのカメラが壊れ、赤土に染まった服は洗っても落ちず、合宿史上に残る惨状でした。最後の一泊はインスペクションでウエスティンに泊まりましたが、グアム特有の明け方発便で、滞在が短くて残念でした。
● モンゴル国合宿(2011.8)
モンゴル国はチケットが高く、現地費用物価に比して滞在費も安くないので計20万を超えるため、5名の参加となりました。私も含め全員体調を崩して予定していた世界遺産カラコルム草原へは行けず、近場のテレルジ草原リゾートを楽しみました。モンゴル国立大生は男子中心につきっきりで面倒見てくれました。
● マレー半島合宿(2012.3)
卒業旅行を組んでほしいと言われたので、5000円で泊まれる五つ星ホテル(リッツKL)とジャングル(タマンヌガラ)を組み合わせ、エアアジアで飛んでもらいました。現地では立教交換留学時ゼミ生だったマラヤ大生に再会しました。ブルネイホームステイやカンボジアなど、前後にエアアジア就航都市を回った学生も居て、LCCを十分活用しました。

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● 上海合宿(2010.9)
上海万博を見に行きました。その後全学協定を結ぶことになる華東師範大日本語学科がサポートしてくれました。日本館にはアテンダントをしている先輩ゼミ生も居ました。万博見学の後、南京路からバンドを遊覧船乗り場まですべて徒歩で巡ったのは少々歩き過ぎだったかもしれません。現地で働いている卒業生の旦那さんがやっているアートオフィスにもお邪魔しましたが、後にこの会社にインターンシップ、そして上海就職を目指す学生も出ました。実は上海で働いている立教生は、私の知る限りすべて女性ですが結構いると思います。
● バリ合宿(2011.9)
プンゲラゴアン村での農村ホームステイ、村営ヴィラ泊とリゾートホテルそれぞれ一泊の3泊4日という超弾丸でした。しかし、事後の提案書はなかなか辛口に出来上がりました。
● 武漢合宿(2012.9予定)
民族観光をテーマに中国内陸湖北の土家族自治州を巡ります。三国志の舞台としてのコンテンツツーリズムや、中南民族大学日本語学科の手厚い歓待も予想されます。

交流10
● シンガポール・ペナン合宿(2011.9)
珍しくも合宿企画に手詰まりで、「海峡植民地」というテーマで二都市合宿を催行しました。シンガポールではアジアトップの名門シンガポール国立大日本研究学部を訪ね、市内のウォーキングツアー、コースマップを作成してもらいました。ペナンでは農村ホームステイを体験し、マレーシア科学大での合同ゼミも行いましたが、中東からの留学生がほとんどで、少々戸惑いながらの交流でした。
● 桂林合宿(2012.9予定)
理想郷の探求をテーマに、中国の代表的桃源郷、桂林を巡ります。広西師範大学観光文化学部との学生交流や、日本人元バックパッカーが現地開設している宿にも泊まる予定です。

交流11
● 屋久島合宿(2012.9予定)
エコツーリズムをテーマに日本初の世界自然遺産、屋久島の里山パイロットツアーに参加します。
●タマンヌガラ合宿(2013.3予定)
アマゾンより古いマレー半島の原生林で動植物と触れ合います。

おわりに
 私がはじめてスタディツアー(語学研修)に参加したのは、中国でほぼ三十年前のこと。以後、学生時代から運営に関わり、新規開拓も行ってきた。大学生の春夏休みはほとんどこれに費やしていたと言ってよい。そうした中で今持つほとんどあらゆるものを得た。昔からの友人は、私が海外ゼミ合宿の引率をしているのを知り、まだ同じようなことをやっているのかと嗤うに違いない。
 どこか初めての土地に行くと、ここで合宿はできないか、無意識のうちに考え始め、実施可能な要素について、3日居ればほぼ確実にわかってしまう。これからも新規開拓を欠かすつもりはないが、今後実施に当たっては単にお仕着せでなく、企画から参加型の運営を心がけて行きたい。ゼミ生にとっては、以前よりいろいろな面で厳しくなるのは否めないが、今はそんな風に思っている。

ブルネイホームステイ

ホームステイは地域参加型の観光と言えるが、日本ASEAN年の2003年に東南アジアの中でまだ行っていない国に行きたいという不純な理由で参加したブルネイセミナーで、偶然知り合ったブルネイ日本友好協会(BJFA)澤田さんの導きで、2004年、2007年、2008年と2009年のそれぞれ2月末から3月にかけて、立教生がブルネイへホームステイに出かけている。いずれリンクが切れてしまうだろうが、以下のような現地紙の記事が出ている(ブルネイタイムスは2016年11月、突然閉鎖した)。在留邦人100名足らずのブルネイへ、20代の日本人の若者が一度に10名以上訪れることは現地ではニュースバリューがあるのだ。我々が得ているものも大きいが、ブルネイに普通の日本人を送り込むという文化交流の面は小さくないかもしれない。イスラムで富裕な王国であるブルネイという国について普通に語れる日本人が増えることはやはり効果的だろう。プログラムの内容はイスラム家庭でのホームステイ、テンブロン国立公園でのリアルジャングルクルーズとトレッキング、ブルネイ大生との交流会などだ。テンブロンはマレーシア側の飛び地だが、石油、天然ガスのおかげで森林伐採しないで済み、手つかずの原生林が残っている。同じボルネオ島サバ州のコタキナバルは日本から飛行機で6時間足らずだから、ブルネイも距離的にはタイやインドネシアに比べれば近い方だろう。以前あった直行便がまた関空から飛んでくれると便利になるのだが、今のところはクアラルンプール経由行き一泊か、シンガポール経由行きチャンギ夜明かしが少々つらいところ。社会学部時代、最初の二回はゼミ合宿の位置づけだったが、昨年からは希望者を募って自由参加にした。今年はついに引率無しで学生が自主的に実施。毎年10-20名の学生が参加する定番プログラムになった。

Brunei Times 2007-2010

ブルネイ写真ニュース

追記)

その後キャセイが当日乗り換え可能で使ったが、羽田発KL乗換えエアアジアがリーゾナブルで当日着なので、最近はこればかり。上記の通り現地でも評判よく、毎年来られないかと要望あり、07入学ゼミで4年次ゼミ合宿から自主企画で毎年実施にし、08からはホームステイプロジェクト(サブゼミ)を新設し運営移管、引率なし実施体制を整えた。

タン・ホンミン

マレーシアの映画監督ヤスミン・アハマドについては国際交流基金の上映会のことを書いたことがあるが、マレーシア、タイ、アメリカなどで賞を受けたマレーシア独立50周年記念のペトロナスの90秒コマーシャル「タン・ホンミン」がものすごく可愛い。オーキッド三部作でもお馴染みの異民族間の恋がテーマ。

ヤスミン・アハマドとマレーシア映画新潮

東京でマレーシア映画がまとめて上映される。場所はなぜかお茶の水のアテネ・フランセ。会期は2007年7月31日(火)〜8月4日(土)の5日間。日本マレーシア友好年(国交成立50年)記念とのこと。国際交流基金映画講座でもある。 公開スケジュールはこちら。 ヤスミン監督の『細い目』『グブラ』は現地でVCDを入手済みだが、昨年、UPMでの国際マレーシア研究学会でプレミア上映された『ムクシン』をもう一度見たい。手持ちのオーキッド年代記を見直してから行こう。 未見の『ラブン』やジェームス・リー(李添興)の新作、知己のタン・チュイムイ(陳翠梅)、ホー・ユーハン(何宇恒)の作品も見たいが、その頃はマレーシア。馬華文学作家、何乃健の親類の何宇恒は、アンディ・ラウ製作の『Rain Dogs』が公開間近とのこと。マレーシア華人の若き才能を、できる限りサポートし続けたい。

愛しのドリアン

 一時帰国者の増える夏休み頃、道ばたでパラソルを見ると心躍る。フルーツ屋台は数あれど、お目当てはもちろんドリアン。容器持参で中身だけ持ち帰り、家族四人の夕食はドリアン。最近はローカルでも、コレステロールがなどと避ける向きもあるが、こと外国人にとってこの強烈なシロモノは、食文化への理解度、順応性を示す格好の指標となる。ちなみに我がゼミはドリアン食いが参加の条件である。納豆に顔をしかめる知日派をどう思うか、と問いたい。
 ドリ・アン(とげっ子)というマレー語が示す通り、マレー半島、スマトラ島が原産だが、国際流通するドリアンはタイ産が圧倒的だ。タイ東部ものの旬は5、6月とマレーシアより早めで、品種改良が進みともかく甘い。ペナンでタイ人とドリアンを囲んでいたときのこと。外れだと言うので味見すると、わずかな苦みを含む見事な味。甘い一辺倒に慣れた口には合わないらしい。私のベスト3は、カンボジア・カンポットの赤か黄の印付きドリアン、インドネシアが誇るメダンドリアン、そして1月のクチン市場のドリアンだ。どれも甘さの中にわずかな苦みを伴う逸品だった。
 クチンのは小振りなカンポンドリアンで、あまりに美味しかったので、友人の車の後部座席に十数個積み込み、庭先でぽんぽん割って食べ続けた。十個(房でなく)食べ切ったところでさすがにお腹がぱんぱんになり、母堂が洗面器で持ってきてくれた濃い塩水をゆっくり飲み、命拾いした。
 シンガポールの巨大ドリアン(エスプラネード)はもちろん、地名のカンポン・ドリアン、アミル・ムハマドの映画『ビッグ・ドリアン』などドリアンものにはつい目が行く。ドドル(餅米の一口羊羹)はドリアン味を選ぶし、マラッカ特産タン・キムホック博士のお店では干しドリアン、スプテの日本人会のスーパーのフルーツジャムは、人気のマンゴーやマンゴスチンを除けてドリアンジャムを取る。練りドリアンも嫌いではない。ドリアンシーズンに見かけるドリアンケーキ、パフ、パンケーキなどの洋菓子や、マンゴープリンならぬドリアンプリンも捨てがたい。
 ジャカルタのチャイナタウンでは、華語断絶の32年間を含め、「新合発」と刻印されたドリアン味の月餅が売り続けられていた。ラードを使わず白い粉が吹くハラル月餅は、厳しい排華の時代、ドリアンゆえ許されたのだろうか。
 学名は「強い香り」だそうだが、はじめて食べた香港で、ホテルに持ち込んでひどいことになった。ロビーは大丈夫だったが、エレベータが開くともう臭いがした。上階に行くにつれきつくなり、私のフロアには鼻を手で覆う人がいた。部屋に近づくと更に臭いが強くなり、入るなりあわてて腹に収めた。近所のデサスリハタマスの歯医者はなぜか冷凍ドリアンを売っていて、オフシーズンには有り難かったが、凍らせるとほとんど臭わないことを知った。日本への持ち帰りも可能だろう。しかし日本マレーシア自由貿易協定の発効で、マレーシアドリアンの日本上陸も近いと信じよう。

 

初出:『南国新聞』2006.9.14

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